【十六】

「フィリシア!」
 延々と続く森を眺めながら歩いていると明るい声が彼女を呼びとめた。
 昨夜の拒絶を思い出し、鼓動がすこしだけ速くなる。
「おはよう、アーサー」
 自然に見えるように注意しながらフィリシアは振り返って声をかける。いつものように軽装の王子様は淡い笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
 昨日のことには触れないほうがいいのか迷っていると、意外なことにそれを切り出したのは彼のほうからだった。
「ごめんね」
 と、短い謝罪がフィリシアの耳に届く。
「すこし兄上の態度が気に入らなかっただけ。婚約者にあれはないんじゃないかって……もともと口下手で不器用な人なんだけど」
「うん。そう、思う」
 そういうことにしておいたほうがいい気がする。明らかに何かがずれているが、原因のわからないフィリシアはアーサーの意見に曖昧に頷くほかなかった。
 引っかかる言葉はいくつかあり、あの時の異様とも思えるほど張り詰めた空気の意味も気になる。だが、尋ねても返答はこないだろうと予想し、彼女はあえてそれを問わずに一呼吸おいた。
「それより、あの黒服の男は? 知り合い?」
 色素の薄い瞳がひどく印象的な黒装束の細身の男を思い出し、フィリシアは話題を変えるように問いかけた。細身ではあるがけっして脆弱には見えず、無駄のない動きは空気さえ張りつめさせる。あれは、戦いに身をおくのを常とする者がまとう気配。研ぎ澄まされた鋭利な戦意は、一瞬でフィリシアの動きを止めていた。
「あいつはオレ専用の護衛」
「専用って」
「兄上には親衛隊がついてるんだ。十二人編成の部隊が四つ。それと同じものをオレにもつけようって話になったから断ってシャドーに頼んだ」
「シャドーって、あの人?」
「黒づくめの。……ぴったりだろ? オレがつけた名前」
 すこし得意げに彼が笑う。では、昨日のあれは気のせいではなく、本当に威嚇されていたのか――そう考え、フィリシアはぞっとした。無用に近づけば容赦なく斬り捨てられていたかもしれない。明確な殺意が読み取れなかった分、戦いに身を置くことに慣れた男なのだとわかって戦慄した。
「普段は隠れてめったに出てこない。でも、強いよ」
 アーサーはこともなげに告げた。
 なまじ数だけ寄せ集めるよりも、最強の戦士が一人いればいい。なんの疑いもなく信頼する少年の横顔をフィリシアはまじまじと見つめた。
(忠誠を誓ってる? ――あんな男が王族とはいえ、たった一人の少年に?)
 月光のもと感じ取れたのは、絶対的な主従関係。己の判断で主人の盾となり剣となることを選んだ男は、まさしく少年が名づけたとおり彼自身の「影」なのだ。
 人は見かけによらないのだなと、フィリシアは思わず唸り声をあげた。
「それで、フィリシアはどこに行くんだ?」
「え?」
「勉強さぼって日向ぼっこしてたら窓からフィリシアが見えたんだ。変な方向に歩いていくから、なんだろうと思って。こっちには兄上の工房しかないけど」
「工房って、銀細工の?」
「うん。オレは見たことないけど、うまいらしい」
 服の上から銀細工の剣を撫でてフィリシアは苦笑した。興味は惹かれるが、いまは情報収集を優先したほうがいいと考えてアーサーに向き直る。
「道に迷ったの。外を一周すれば知ってる場所に出られるんじゃないかと思って」
「ああ、ここ広いからね。オレもよく迷う」
 納得してアーサーは近くにある通用口まで歩いた。
「規模が大きいから外周でも結構大変だよ。中は迷路だから外のほうが楽かもしれないけど。……こっからなら、見れるかな」
 どこか悪戯っぽく笑って、彼はフィリシアを導いて城内へ戻る。そこも人気ひとけのない通路で、長く流動を忘れたようなこごった空気で満たされていた。床には塵がつもり二対の足跡をくっきりと残す。体に悪そうな空気だと思ったら、案の定呼吸が浅くなった。
「こっち」
 アーサーはフィリシアを導きながら歩く。しばらく進んだ後、
「あ、やっぱりここに出るんだ」
 と独りごちて廊下の角を曲がった。急に明るくなった視界に驚くと、そこは先刻の通路とは違い、掃除の手がゆきとどき装飾品が壁を飾るような廊下になっていた。遠くからこもったような話し声が聞こえてくると、アーサーは急に足音を忍ばせて歩き出した。
「なに?」
「いいから、こっち」
 声をひそめて戸惑うフィリシアの手を引き近くにある部屋に入る。あまり使われていないと一目でわかるその部屋の家具には大きな布がかけてあった。
 アーサーは壁に近づき、そこにかけてある絵画をそっと持ち上げる。
 何がしたいのかわからないフィリシアは眉をしかめてアーサーの行動を見守っていたが、絵画の下から覗き穴が出てきた時点で目を丸くした。
 驚くフィリシアにアーサーは得意げに笑みを浮かべ、彼女を手招きする。
「最近オレも謁見に出るようになって気付いたんだ。変な穴があって、なんだろうって思ったらこんなの出てきて。面白いだろ?」
 同意を求められ、フィリシアは淡々と聞こえてきたエディウスの声に、らしくもなく狼狽えた。
「会議室はいくつもあるけど、ここは少人数用。結構重要な話し合いに使われるんだ」
 さらりととんでもないことを口にしたアーサーをフィリシアは唖然と見つめた。外部に漏れてはまずい内容だってあるに違いないのだから、重要ならなおのこと、聞き耳を立てるべきではない。
 フィリシアは覗き穴を見ることなくアーサーの腕を引いた。よろめきながらも彼はフィリシアに引きずられるように部屋を出て、肩をすくめて苦笑する。
「盗み聞きなんて」
「オレだって世界情勢とやらを把握する必要があるから」
 非難するともっともらしい言葉が返ってきた。
「いろいろあるんだよ、しがらみってものが。兄上は無頓着だけど」
 再び肩をすくめて溜め息をつく。そして、せっかく兄上の普段の姿を見せてあげようと思ったのに、と、逆に悲しげに彼女を非難した。
 確かに、フィリシアは普段のエディウスを知らなさすぎる。遠くから見かけるだけだった毎日が昨日で一変したとはいえ、垣間見たその姿は彼のほんの一部に過ぎないのだろう。
 相互理解など欠片もないのだから、彼を理解するのにいい機会だったのかもしれない。
「でも、盗み聞きは駄目」
 ちょっと後ろ髪を引かれながらも頑として告げると、アーサーはあきらめたように頷いた。
 昨日の態度から会うことさえ躊躇われるが、一ヵ月後には結婚する相手――やはり、一方的に観察するのではなく、ちゃんと話し合うことが必要だと思う。一年前がどうだったのかフィリシアにはわからないが、少なくもといまの彼女には結婚の意志はない。そのことだけでもしっかりと伝えなければ、この煮え切らない状況は挙式までずっと続く。
「なんか、大変ね」
 フィリシアは肩を落とした。会いに来てくれるのを待っていても意味がないことはよくわかったから、これからは彼女自身が積極的に動かねばならない。まだ慣れることのない生活と環境に戸惑いながら、次に自分ができることを模索する。
 やはり、過去を知ることから始めたほうがいいような気がして、フィリシアは肩を並べて廊下を歩くアーサーを見た。
「アーサーも記憶がないの?」
「ああ」
「……じゃあ、人の多そうな場所を教えて」
「なんで?」
「聞き込み、しようと思って。このままじゃ私、なにもわからないままだから」
「楽しい思い出じゃないかもしれない。つらいばかりかも」
「うん。それでも、このままじゃ嫌なの」
 まっすぐな視線を受け止めてまっすぐに返すと、アーサーは一瞬だけ複雑に表情を崩した。なにかを語ろうとしたその口はきゅっと結ばれ、細く息だけが吐き出される。
「アーサー?」
「ここをまっすぐ行って、一本目を右に曲がると広い廊下に出る。調理場や洗い場が近いから人通りは多いよ」
「ありがとう!」
「あんまり無茶するなよ」
「大丈夫よ」
 心配する彼に笑顔で返してフィリシアは指示された道を歩き出す。きっと過去の自分もこの城の中をこうやって歩き回ったに違いない――そう思うと、なんとなく不思議な気がした。
 歩くにつれてざわめきが近くなる。
 そして、彼女は想像以上に広い通路へと出て、呆気に取られた。
 巨大な城には多くの人間が昼夜を問わずに働いている。忙しげに歩き回る人の群れを眺め、彼女はしばし、途方にくれて立ち尽くしていた。

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