【十五】

 まず何をすればいいかを考え、フィリシアは情報収集を思いついた。
 自らの記憶があてにならない今、未来の王妃という自分の立場を最大限に利用する必要がある。権限を行使すればそれなりに有益な情報が手に入ることも期待できるのではないかと考え、彼女はすぐに部屋を飛び出して廊下にいる人影に硬直した。
「フィリシア様、どちらに?」
 廊下にいたのは侍女のマーサである。昨日の今日だからなのだろうが、顔を見るなり露骨に警戒するような表情になった。
「今日は大人しくしてる。体がなまってるから、すこし散歩しようかと思ってるの」
「……森に行かれるんですか?」
「森?」
 フィリシアは自分が倒れていたのが森の中だったのを思い出す。あそこに行けば、もしかしたら何か目新しい発見があるかもしれない。一ヶ月もたってしまっていまさら行くのも遅すぎる気はしたが、闇雲に探すよりは目標があったほうがいい。
「そうね、森に」
「駄目です」
 きっぱりとマーサは告げた。
「あの森は深くて城の者でもときどき迷うんです。絶対に許可できません」
「大丈夫よ?」
「駄目です。ま、またなにかあったら……っ!」
「う、わ、わかった! 行かない!!」
 潤みはじめたマーサの目にたじろいでフィリシアは頷く。意外に涙腺がゆるい侍女に一方的に約束させられ、フィリシアは思わず苦笑いした。
 確かに、体調が万全でないのだから無理はしないほうがいい。森に入るのはもう少しあと、多少は地理がわかるようになってからのほうが得策な気がする。
「近くからじょじょに慣らすって方法もあるか」
 マーサにこと細かく注意を受け、ようやく解放されたフィリシアは窓から乗り出すようにして森を見た。バルト城の背後には広大な原生林が広がっていて、そのむこうにはセタと呼ばれる谷がある。ここは死の谷という別名をもつ場所で、バルト国民はおろか旅人さえ足を踏み入れないという話だ。
「……行ってみようかしら」
 記憶を取り戻すためのきっかけが隠されているかもしれない。ほんの少しの可能性も見落としたくないフィリシアは、難しい顔で雄大な景色を眺めてから廊下を歩きはじめた。
 失踪の期間は一年。
 その間フィリシア≠フ消息は完全に途絶えている。
 大陸一の踊り子、舞姫とまで呼ばれた娘が、誰にも気付かれずに身を隠すことなど可能なのかとフィリシアは首をひねって思案した。
 そして、自分の容姿にこれといって特徴がないことを思い出す。
 化粧栄えする顔立ちだが際立った美人というわけではないから、普通の格好で、普通に歩いていれば誰も気にとめないかもしれない。
「よっぽど踊りに個性があったのかしら」
 過去をなくした少女は褒め称えられた演舞を思い描いてみるが、口頭で教えられた知識ではどうしても無理があった。もっとも、療養中にその話をしてくれたマーサ自身、フィリシアの舞を見たことはないらしく、彼女の記憶も他人に依存しているのだからあまり意味はない。
(思い出すきっかけになるかもしれないから、見た人に再現してもらいたいんだけど……)
 残念なことに有名だから誰でも見たことがあるというわけではない。さらに本人を目の前にして踊る度胸のある者がどれだけいるか――。
 一人、高確率でそれを見た男がいる。
 銀髪に紺碧の瞳を持ったこの国の王。彼ならば、舞姫の演舞を見ているに違いない。
 だが、頼んだところでとても応じてくれそうにないし、なにより昨夜の一件がどうしても引っかかり、足がすくんでしまう。
 玉座に腰をすえた彼は、身動き一つせず錯乱する婚約者を風景の一部のように無関心に網膜に刻んでいた。
 正気であるのかすら疑わしいような沈んだ瞳が悪寒を運び、フィリシアは大きく体を震わせた。
 城下町で見せた表情とはあまりに違う。どちらが本当の彼なのか、フィリシアには判断がつかなかった。
「……国王陛下は、あと」
 最後の最後に話を聞こうと決めて溜め息をついた。昨日以外にエディウスが積極的に接触してきたことがない事実から考えて、彼もあまりフィリシアに会いたいとは思っていないのかもしれない。
 結婚間近の婚約者同士なのに、まともに会話をしたのは昨日だけだった。
 そして、少しいい印象を抱いたにもかかわらず、夜会でそれは完全に打ち消されてしまっている。
 フィリシアは何度目かの溜め息をついて階段をのぼった。
 バルト城は巨大な建物で、その内部は幾度か改築され、さながら迷路のようだった。廊下をわたって階段をいくつかあがって確認すると、なぜか予想とまったく違う場所にたどり着いている。
 首を傾げながら違う道で階下に降りると、彼女は一階につく頃には完全に迷っていた。
(……どこよ、ここ?)
 自分の部屋に戻ろうと思っていた彼女は狼狽えながら窓から顔を出したが、見えるのはいつも通りの深緑でなにひとつ目印にならない。
 人が通らないかと待ってみたが、残念なことにあまり利用されない場所に迷い込んでしまったらしく、あたりは静まり返っていた。
「マーサに道訊いとくんだった」
 項垂れながら息を吐き出す。いったん外に出て、知っている場所まで移動したほうが得策かもしれない。バルト城は通用口が多くあるので、壁伝いに移動していればなんとか外に出ることくらいはできるだろう。
 仕方なく歩いている途中、どこからか物音がしてフィリシアは足をとめた。
 人がいるかもしれない。大声を出そうと息を吸い込み、彼女はそこで、はたと動きをとめた。
(もうすぐ王妃になる娘が、自分が住んでる城で迷子になって助けを求めるのって……)
 まずくないだろうか、と今ごろ考える。まずくはないが、恥かもしれない。それとなく近づいて、それとなく声をかけて、それとなく道を訊くほうがいいような気がしてフィリシアはためた息を吐き出しながら歩き出した。
 慎重に声を拾いながら壁伝いに進むと外へと通じるドアを見つけた。
「できれば寝所に行きたいんですけどねぇ、オレは」
 不意に男の投げやりな声が鮮明に聞こえてきた。
「わかってますよ。ちゃぁんとね? ああ、約束のものを」
 紙がこすれるような音が響き、沈黙がおりる。次の瞬間、手を伸ばしかけたドアが外側から勢いよく開き、フィリシアは息をのんだ。肌に痛いほどの緊張を感じ、その手がとっさに服の下に隠された短剣を握る。
「舞姫さま」
 逆光で瞳を細めたフィリシアは聞き覚えのある声にさらに緊張の色を深めた。身の危険を感じたフィリシアは剣から手を放さずに目を凝らす。
「……お前は」
「門番のダリスンですよ、舞姫さま」
 そう答えて、ダリスンはちらりと視線を横に流してから掴んでいた剣の柄から手をはなした。
 少しずつ光に慣れていく目を瞬きながら、彼女はドアに近づいた。
「人がいたようだけど?」
「……盗み聞きですか」
「内容なんて聞こえなかったわ。もしかして、大きな独り言?」
 問えばダリスンは肩を揺すりながら笑った。
「昇進試験に落ちたんですよぉ。これでも精一杯やってるんですがね」
 光を失いよどんだ目が笑みの形に歪む。おどけて肩をすくめる男からとっさに目を逸らし、フィリシアは城外へと出た。
 ふと、鼻腔に甘い香りが届いて彼女は思わずダリスンに視線を戻すと、甲冑と服のあいだから紙包みが覗いていた。それを見咎めた瞬間、ダリスンの顔色が微妙に変化する。
「なにか?」
「なんでもない」
 わずかな疑問を抱きながらも再び視線をはずした。現在位置を訊きたかったが、なんとなく借りを作るのが癪になってフィリシアはまた壁伝いに歩き出す。どんなに歩いても城を一周すれば城の正面にある大扉に行きつくはずだ。そこまで行けばなんとなく部屋までの道がわかる。
 歩き出したフィリシアの背に、ダリスンは気味の悪い笑顔を投げかけていた。

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