【十三】
なにがそんなに恐ろしかったのか、自分でもよくわからなかった。
あれはただの音楽だ。
優しく緩やかな曲調の、古くから伝わる誰もが必ず一度は耳にするという本当によく知られた曲。
「フィリシアが一番好きだった曲だって聞いた。オレも何度か聴いたことがある」
悄然と歩くフィリシアに、アーサーが気遣うように声をかけた。
「ごめんな、怖かったな」
子供をあやすような仕草でぽんぽんと頭を軽く撫でられた。
「わ、私のほうこそ、ごめん……なんであの時……」
「もういいよ。今は考えるな。いろいろあったんだよ、きっと。いろいろとさ」
言い聞かせるようにささやくアーサー。
その声色や気遣いが優しすぎて泣けてくる。
「……辛いな。声をあげて泣けないのって、本当つらい」
はらはらと涙をこぼすフィリシアに、アーサーはポツリと言った。自分も泣きそうに顔をゆがめて、それでも微笑んでくれる。
「お前、いつも泣きそうな顔してた。守ってやらなきゃって思ったのは、同じだからじゃない。違ってても、やっぱり守ってやらなきゃって――」
アーサーはそこまで言って、呆然とするフィリシアを抱きしめる。
「お前は笑ってるほうがいい。ごめんな?」
アーサーの言っている言葉は、フィリシアには理解できなかった。でもこれは、きっととても大切な告白。
「ごめんな。オレ、お前に酷いことする。でも、信じて――」
抱きしめる腕に力を込めた。
「信じて。オレは、お前を恨んでなんかいない」
泣きそうに顔をゆがめて、少年は優しく微笑む。つむがれた言葉の意味はやはりフィリシアにはわからなかった。
「アーサー……なにを、知ってるの……?」
昼間、エディウスがしたのとまったく同じ仕草で、アーサーがフィリシアの濡れた頬をたどる。
「――未来を」
少年は笑う。
悲しげに。残酷に。逃れられない災厄を告げる予言者のように。
「まだ、始まってはいない。何もかもがこれから」
少年はフィリシアから離れ、悲しみで瞳を曇らせたまま優雅に身を翻した。
遠ざかるその背に強い拒絶の意志を感じて、フィリシアは悪寒に身を震わせる。
「アーサー!」
フィリシアの声にわずかに足を止めた直後、彼の背後にするりと何かが移動してきた。窓からさす月の光にくっきりと浮かび上がる影には気配がなく、それが人だと気付くのにわずかばかりの時間を要した。
男の全身をつつむのは体にぴったりとそう黒装束。露出しているのは目元と手のみという出で立ちで、急所を守る防具さえ闇色に塗りつぶされている。剣の柄に手をかけることこそひかえてはいるが、戦意はまっすぐフィリシアにむかっていた。
空気が凍てつくような静寂が満ちる。知らずに息が浅くなった。
はじめに均衡を破ったのはアーサーだ。突然あらわれた漆黒の男に気をはらうことなく、彼は再び足を踏み出した。
フィリシアは、眼裏に焼きつくような白と黒の対比があまりに鮮烈で一瞬かける言葉を失い、立ち入れないほど張りつめた空気を感じて寒気以外のもので身を震わせた。
ざわりと森が音をたてる。
「アーサー、行かないで」
必死で声を絞り出すと、アーサーがゆっくりと振り返り闇の中に消えてしまいそうな笑みを浮かべた。ひどく寂しげで儚い笑みに、フィリシアはようやく一歩だけ足を踏み出した。
「行かないで」
いま呼び止めなければ黒装束の男につれられ、どこか遠くへ、手の届かない場所へ行ってしまうのではないか。
「お願い、ここにいて」
不安に押しつぶされそうな心をなだめ、届かないと承知で手をのばす。戻ってきてと、何度も胸中で繰り返しながら。
彼は悲痛な声で呼びとめるフィリシアに笑顔を向けようとして失敗し、その顔を伏せた。
「ごめん」
言葉だけを残し、彼は歩き出す。
闇をしたがえ遠ざかる背を呆然と見送って、フィリシアはその場に崩れるように座り込んだ。
世界が、音を立てて崩れていく気がした。