【十二】

 大広間の隅で、フィリシアにはあまりなじみのない楽器を手に美しい音色を奏でる演奏者たち。
 その曲にのせ、優雅に踊る紳士淑女。今の流行なのか、女性の半分は鮮やかな赤いドレスをまとっている。それぞれのドレスについている白い大きなリボンは、赤いドレスとは対照的でどこか可愛らしい雰囲気をかもしだす。美しく結わえた髪にちょこんと乗ったちいさな赤い帽子も、やはり可愛らしさを強調していた。
 男性のほうはさして大きな流行色はないのだろう。さまざまな服で出席していた。
「……逃げ出したい」
 ぽそりと言ったのは軟禁状態のフィリシア嬢。
 彼女は控え室から、大広間の様子を溜め息とともに見つめていた。
「ほら、しゃんとなさってください! 今夜は皆、フィリシア様をご覧になるために集まってきてるんですよ!!」
 悪気はないのだろうマーサが、さらに余計な重圧をかけてくれる。
 大広間で輝くシャンデリアを眺めながら、
「あら、なんて神々しい」
 フィリシアはすっかり現実逃避を決め込んでいた。
「もう、フィリシア様! しっかりしてください! だいたいなんです、その衣装!!」
 マーサがフィリシアを引っぱった。
 大陸一の舞姫の衣装は、夜会に出席する淑女に比べると異様なほど質素だった。慎ましやかなのではない、あくまで質素なのだ。それに体の線がほとんど隠れている。
 以前の―― 一年前のフィリシアは、それは官能的な衣装を好み、己の肉体を最大の武器として人々を魅了しつづけた。
 初めはその恥じらいのなさにあきれていた観衆たちは、いつしかその舞の圧倒的な美しさと力強さに惹かれていった。大胆にして繊細。優美で傲慢で、野性的でありながら洗練されたその動き一つ一つが、見る者を圧巻した。
 大陸一の舞姫。
 訪れた先々で絶賛をうけ、さまざまな国の名の通った偉人たちに求愛されつづけても、決して己を差し出すことのなかった潔癖の乙女。
 それが一年前のフィリシアだ。
 唯一バルト国の王であるエディウスと婚姻を結んだ少女である。
「フィリシア様!」
「だ、だってだって、最近運動不足だったんだもん!」
 フィリシアはマーサの視線から逃げるように、カーテンの裏に隠れた。
「あんな露出系着れない!! お腹出てんのよ!! なんかお尻の肉も気になるし!! む――胸もちょっときつかったの!!」
 真っ赤になりながら、ヤケをおこしてそう言った。ひどい告白だが仕方がない。大怪我のせいでほとんど動けなかったにもかかわらず、食事はしっかり三度とっていたのだ。しかるべき自然現象だった。
「う……」
 これにはマーサも返す言葉がなかったらしい。
 かわりに大きな溜め息をついた。
「仕方ないじゃない」
 泣くに泣けない、苦渋の選択である。
 カーテンにしがみついたままフィリシアは己の無様さを心底嘆いていた。踊り子が衣装を着られない体型になるのはあまりに情けない。恥をかかないようにと必死になって衣裳部屋でドレスを探したが、以前の体型を目安に集められた服の多くは袖を通す必要さえなかった。
 ほとんど消去法で見つけたドレスは数点のみ、その中で一番よさそうなのを着衣した。
 フィリシアがうなっていると、不意に大広間の音楽がやみ、控え室のドアが開いた。
「用意は――」
 ひょこりと顔をのぞかせたのは、白い正装に身を包んだアーサーである。胸元を飾る真っ赤な花があまりに浮いていて、やはり良家の放蕩息子にしか見えなかった。
「フィリシア、その服かわいいね?」
 アーサーは、マーサの非難のこもったものとはまったく違う眼差しでごくごく自然に声をかけながら、優しく笑ってフィリシアに手を差し伸べた。
「……大丈夫だよ、オレがいる。胸を張っておいで」
「う、うん」
 同じように記憶を失っているからなのだろうか。不安をんでくれているアーサーの言葉が、フィリシアの心にじわりと染みこんでいく。
 フィリシアの登場で、大広間はざわめきだした。
 なにに驚いているのだろう。
 一年前に失踪した娘が本当に帰ってきたことか。
 それとも、一年前とはまったく違う、その別人のような様子にだろうか。
 アーサーは周りの視線に怖気おじけづいた風もなく、威風堂々とフィリシアの手を取り中央へと誘導していく。記憶がないなどと本人が言い出さない限り、誰も疑ったりしないだろう。堂に入ったその物腰は、すでに彼の立つべき場所を暗示するかのようだった。
 フィリシアを大広間の中央――ひらけたその空間に案内してから、アーサーは瞳を細めた。
「そばにいる。心配しないで」
 ささやく声に、フィリシアは小さく頷いた。
 うつむき加減だった顔をあげる。
 上座の高い位置にエディウスがいた。ゆったりと椅子にかけた彼の顔には、城下町で見たのとはまるで別人のような暗い影が落ちている。
 何度見かけても城にいるときの彼はいつもこうだ。どこか陰惨とした雰囲気を漂わせ、青白い顔でそこにある――彼はまるで精緻な置物のようだった。
 フィリシアはエディウスを凝視する。
 なにを考えているのかわからない男。これはなんのための夜会なのだろう。ただの道楽で開かれたわけではないはずだ。
 ならば、別の意図が。
 そう思った瞬間、前触れなく演奏が始まった。
 その曲は、フィリシア≠ェもっとも愛したもの。月の光の下で、音のない世界で奏で≠ス、思い出の一曲だ。
 それは失われた過去に、舞姫が国王に贈った、初めての舞≠セった。
 そして。
「い……」
 血が逆流するような。
(な、に――!?)
 背筋から這い上がってきた悪寒に全身が震えた。耳に馴染む音楽は、同時に恐怖とも絶望ともつかない悲しみの音色でフィリシアを包む。残像が眼底をかすめた瞬間、悲鳴がもれていた。
 何か恐ろしい物がそこにあるのだけがわかった。それなのに、己が抱く恐怖の意味も絶望の理由も、そのもっとも大切な箇所がごっそりと抜け落ちている。まるでそれを埋めるように、悲しみだけが胸の奥から這い上がってきた。
 それはおそらく、自らの心のうちに巣喰う闇の部分――決して忘れてはならないはずの、記憶の断片だ。
 そう、忘れてはならない。でも同時に、思い出してもいけない。
 闇色に塗り替えられた、あの過ちだらけの時間。どんなに悔やんでも正すことなどできない、永遠に赦免しゃめんなど望んではならない――。
 罪の。
 血を吐くような絶叫が、少女の口からほとばしっている。誰もが動けず、呆然と広間の中央、頭を抱えるようにうずくまる少女を見ていた。
「やめろ!!」
 鋭い声が空気を震わせた。
「その曲、二度と弾くな! ――兄上、夜会は終わりです」
 明らかに様子のおかしいフィリシアを好奇の目から隠すように抱きしめて、アーサーがけんを含んだ声で告げる。
 エディウスはそんな光景を、動かぬ表情で眺めていた。
 婚約者の失態、その事実になんの興味もないように。
 彼はただ、弟に守られるように大広間を出て行く婚約者を、茫洋と眺めていた。

Back  Top  Next