【九】
「……」
何かがおかしい。
そう思わずにはいられなかった。
このエディウスという男――なにかが他の人と大きくずれている。致命的なほどではないが、それでも、その事実は無視できるほど些細ではない。それに、言っていることも
(殺したとか言ってたし。――婚約者を? ――フィリシアを……?)
ではここで生きている自分はいったい何だというのだ。やはり別人なのか、それとも、エディウスに殺されたフィリシアという少女そのものなのか。
それとも。
そこまで考えて、フィリシアは溜め息をついた。
鍵を握っているのは、戻るとも知れない己の記憶。
だがそれは、本当に取り戻してもいいものなのだろうか。取り戻せば、最悪の事態を招く結果となりはしないのか。
酒場での出来事を思い出し、フィリシアは息苦しくなった。
フィリシアの「否定」の言葉に、エディウスの様子が明らかにおかしくなり――。
そして、店主が料理を持ってきたころには、すでに穏やかな銀細工師へと戻っていた。
(それとも、お城にいたときのほうが異常≠セったの……?)
死相さえ漂わせるあの顔。剣呑な、陰鬱な、闇をはらむあのどす黒いまでの陰り。
フィリシアは目の前を歩く男を、どこか胡散臭そうに見つめている。王城での彼は、日の光の下にあってなお、闇を思わせる暗さがあった。今の彼は、午後の陽そのままに優しい雰囲気を漂わせている。同一人物であるのに、なぜここまで違和感があるのだろう。
フィリシアは人ごみの中を躊躇なく進む背を見つめ、そっと歩く速度を緩めた。
「まだ逃走する気があるようだな?」
途端にかかる、呆れたような声。
ほんのわずか離れただけなのに、すぐに見抜かれた。
どうやら、目は前にだけついているわけではないらしい。ムッとしながらフィリシアはエディウスを睨みつける。
「ちょっとくらい見物したっていいでしょ。別にもう逃げないわよ」
(スキがあったら、別だけど)
フィリシアの言葉に、エディウスが笑った。
「お前の言うことなどあてになるものか。逃げ出したら、地の果てまで追ってやる」
さらりと嫌な言葉を返された。
(うわ……いやな性格……粘着質!! 女に嫌われる男!! 根暗!!)
「……今お前が考えていること、あててやろうか?」
楽しげに笑っているが、言葉の棘は隠す気もないらしい。
城にいるときより扱いやすそうではあるが、これはこれで厄介だ。
フィリシアは大きく溜め息をつく。
「ねぇ、なんでそんなにこだわってるの?」
酒場にいたときの二の舞にならないように、彼の中の闇を呼び出さないように、フィリシアは言葉を選ぶ。
「こだわる? 私が?」
意外そうに、逆に問い返された。
「こだわってるじゃない。呆れるぐらいに。そんなに私のコト好きなんだ?」
「……どうだろうな」
くすりと男が笑う姿が無性に頭にきた。
素直に言うとは思わなかったが、ここまで中途半端だと妙に癪に
嫌っているはずはない。
一年も待ち続け、記憶を失って戻ってきてなお妻としようとしているのだ。
けっして嫌っているはずはないのだが。
後ろをついて歩いていたフィリシアはずかずかとエディウスの隣へ並んだ。
「どうだろうなって何よ!? 嫌がらせならもっとわかりやすくやりなさいよ!? だいたい――」
言い終わらぬうちに、視界が
深い蒼い瞳にのみこまれる――。
凍てついた色だと思った。絶望と焦燥だけが同居する悲しい色だと、初めてエディウスの瞳を見たときに思った。
なのに今は、吸い込まれそうなほど優しい色をしている。
同じはずなのに、どこかが違う。まるで光と闇が混在し、何かの拍子に切り変わっているような不安定な感じ。
呆然と立ち尽くすフィリシアに、エディウスが小さく笑った。
「口付けを交わすときには目を閉じるものだろう、お嬢さん?」
言葉と同時に、これ以上ないほど近づいた顔がさらに近づき、掠めるように唇を奪った。
「な――!?」
真っ赤になって男を押しのけようと手を伸ばすと、それよりわずかばかり彼の動きのほうが早く軽くかわされた。
「なにするのよ!? 信じらんない!!」
一発殴らないと気がすまないと、フィリシアの顔が言っている。それを察知して、エディウスが人の波へと逃げた。
「信じらんない!! もう!!」
楽しそうに笑っている横顔が悔しい。まるで無邪気な少年のような悪戯をする。
「待ちなさいよ!!」
大声を出しても、周りの喧騒がそれを消し去る。
唖然とした。いつ逃亡するかを模索している間に、いつの間にか入り組んだ裏道から大通りへと紛れ込んでしまったらしい。人の波に流されるように、フィリシアはよろよろと前進する。
立ち止まろうにも、人の流れがそれを許してくれない。今までフィリシアが慣れない人ごみの中を難なく歩けたのは、エディウスが彼女の居場所を確保してくれていたからだ。だが、その彼の姿はなく――。
「エ――」
今なら逃亡できる。
この人波に紛れ込めば、捜し出すのは至難。強引に進められていく結婚話も婚約者の二度目の失踪となれば確実に破談する。
そうなれば晴れて自由の身になれる。自分が誰であるかをゆっくりと見つめ直すことだってできるだろう。
自由になりたくて城を抜け出したのだ。
他人の手にゆだねられる人生など真っ平だと思ったから、ここへ来たのに。
その、つもりだったのに。
「エディ!!」
フィリシアは、大声で叫んでいた。
怖い。
足元が崩れていく感じがする。
何かにつかまらなければ、底無しの沼の中へと落ちていきそうな恐怖。ざわりと悪寒が走る。
こんなにも人であふれかえっているのに、唐突に襲ってくるこの異様な孤独感はなんだろう。自分が生きているのかさえわからなくなる、この虚無感は。
まるで果てのない闇の中を彷徨っているような、この絶望感は。
「エディ!!」
もう一度大声で叫んだとき、力強い腕がフィリシアを包み込んだ。
「すまない。――流された」
どこかバツが悪そうに、あたたかい声が短く告げた。慌てて人ごみを掻き分けてきたのだろう、肩で大きく息をして、フードからは見事な銀髪がこぼれている。
フィリシアの周りに空間ができる。エディウスが作ってくれる、彼女のためだけに用意された場所。
「フィリシア」
そっと遠慮がちにエディウスが頬に触れる。あたたかい大きな手が、濡れた頬を優しくたどる。
「すまなかった」
慈愛に満ちた声を聞いた瞬間、呆然と瞬いた漆黒の瞳はすぐさまきつくつりあがった。
ぱっと男から離れるや否や、両手を伸ばし、小気味よい音とともにその頬を両手で挟んだ。
「――なんでここで、ひっぱたかれねばならん」
ヒリヒリする頬に柳眉をしかめ、エディウス王は婚約者に思わずといった面持ちで淡々と訊いた。
「加減はしてやったわよ」
怒ったように頬を膨らませてフィリシアは服の袖で涙をふいた。
「私から……」
フィリシアは一瞬言いよどんで、エディウスを見上げた。
「フィリシア?」
不思議そうに優しい蒼い瞳が見おろしてくる。
「私から離れた罰」
そう続けて少女はあわてて視線をそらす。珍しく頬がほんのり赤く染まっていた。
「……受け取ろう」
どこか嬉しそうに、エディウスは頷いた。