【八】

 有無を言わさず連れていかれたのは、国王が赴くにはあまりにあんまりな店だった。
 土でざらつく床、使い込まれすぎてすっかり角が取れてしまったテーブル、ちょこんとそえられた丸椅子はがたがたとうるさく鳴っている。
 壁は所々へこんでいる。拳のあとがくっきり残っているところもあるし、店主が補強したのだろう、板が打ち付けてある場所もある。
 エディウスはフィリシアを店内の正面にあるカウンターに導いた。
 口髭をたくわえた店主が顔を上げ、驚いたように目を見張る。店主はフードを一向にはずそうとしないエディウスを見て不審がるどころか、逆に嬉しそうに満面に笑みを浮かべた。
「いらっしゃい、お久しぶりですねぇ」
「ああ。最近少し忙しくてな」
 親しげな店主に、エディウスが笑う。二言三言交わすうちに常連だということは理解できた。
(……意外)
 フィリシアはまじまじとエディウスを見た。窓から彼を見かけたことは何度かあったが、デスマスクのように陰鬱な顔以外に見たことがない。だが、城の外ではこんなに明るい顔もするのだ。
 まるで別人を見ているようだった。
「どうですか、お仕事のほうは」
「ああ、まあなんとかやってるさ。――そうだ、これを」
 エディウスは短剣と一緒に腰にぶら下げた袋をはずし、双方を店主に渡す。
「おや……」
 店主は目を細めた。
 細やかな装飾をほどこされた鞘を吟味し、剣を抜き、小さく唸り声をあげる。
「いやぁなかなか……いい物を作られる。あなたが荷をおろすようになってから、こんなさびれた酒場にも、これ目当てに訪れる客が増えましてねぇ」
 本当に嬉しそうに店主が笑った。
 短剣を鞘に戻し、もう一度じっくりと眺めてから、店主は皮袋の中身を慎重に取り出した。
 袋には、婦人用の手鏡や櫛、耳飾りなどのさまざまな装身具が入っていた。すべて銀製品だ。その細やかな装飾は、短剣同様かなり芸術的価値の高いものである。
「こりゃあ、男どもが目の色変えますねぇ」
 店主が思わずといったふうに吹き出した。
「なんで?」
 フィリシアが問いかけると、店主が含み笑いをする。
「そりゃあ」
 そこまで言って、銀細工の指輪を手にかしこまったようにフィリシアに向き直った。
「これをあなたに。私の心だと思って――受け取っていただけますか?」
 真摯な眼差しに真剣な口調で店主はフィリシアにささやく。まっすぐ瞳を覗き込まれ、さすがのフィリシアもたじろいで視線を店主の手元へと落とした。
 視界には繊細で優美な銀細工が映る。心を込めて、時間をかけて作られたのだと容易に想像のつく見事な一品だった。
 知らずに見入った瞬間、フィリシアは納得した。
 なるほど確かに、これが心だといわれたら。
(惚れた男にそれを言われたら――嬉しい、かも)
 少なくとも、不快に感じる女は希少だろう。フィリシアが光を集めて輝く指輪に瞳を細めると、
「今晩はこれの争奪戦で荒れますよ」
 苦笑に近い表情で店主は笑った。
「御代は――」
「いや、いい。その代わり食事を」
「そんな、いけませんよ!!」
 エディウスの返事に、店主は焦った声をだす。
「あなた、いつも代金を受け取ってくれないじゃないですか!? いいですか、あなた!! あなた、ご自分の商品の価値を理解してない!!」
 根っからの善人なのか、店主はきょとんとするエディウスに向かって、興奮気味になおも言葉を続けた。
「これはね、芸術品ですよ!? 以前は酒場の荒くれどもが競り落として持って帰ってましたがね、今では名だたる宝石商が入荷日をこと細かく問い合わせるくらい人気なんです!! バルトに来る宝石商は目利きが多いことでも有名なんですよ、そんな商人が一目を置いてるんです!」
 わかってらっしゃるんですか、と、店主は鼻息を荒くしてエディウスに意見する。
「代金受け取ってもらえなかったら、私は申し訳なくて夜も寝られません」
 切々と訴える店主。
 あまり興味なさげに聞き流すエディウス。
(……なにがなんだか……)
 すでに口を挟むことさえ忘れて、フィリシアは呆然としていた。
(つまり、商品の代価を受け取ってないってことよね、一度も)
 生活に苦労しているわけではないから、本当にそのことには興味がないのだろう。しかし、さすがに理由を説明するわけにはいかず、フィリシアは困惑するエディウスを見る。
「ちょっとお嬢さん!!」
 急に矛先を向けられ、フィリシアは目を丸くした。
「あなたも何か言ってくださいよ!! このままじゃ――」
「うーん。でも、必要ないって言ってるんだし。ねぇ、別に生活苦しいわけじゃないもんね?」
 にっこりエディウスに問いかけると、彼も安堵して微笑した。
「この酒場を維持してくれればいい。ここが気に入っている」
「いやしかし……」
「いいって言ってんだから、もらっときなよ。それより私、お腹すいちゃった。何かおいしいものが食べたいな」
 小首を傾げるようにして請求すると、店主はしぶしぶ頷く。
「じゃあ、今回だけですよ!! 次回は必ず代金受け取ってもらいますからね!」
 なんだかおかしな話だけれど、店主はそう言って厨房へ去っていった。
 厨房からは、何かを刻む音が聞こえてくる。油の弾ける音が聞こえてくると、フィリシアはエディウスに向き直って口を開いた。
「で、エディウス王。なんなのよ、ここ?」
 露骨な質問にエディウスは笑う。ずっと口をつぐんでいた彼女がようやく質問をぶつけてきたのがおかしかったらしい。
「ここ? ……ここは、私の隠れ家かな。食事がうまい」
「――そーゆーことじゃなくてね? なんで王様が商品横流ししてんのよ。それも、タダで?」
「横流し?」
 一瞬、エディウスは怪訝な表情をした。
「あの銀細工、献上されたものなんでしょ?」
「いや、あれは私が作ったのだぞ。いろいろできたんだが、最近公務に追われて時間がとれず、ここにくるのが遅くなった。それだけだ」
「へ――!?」
 突飛な返答にフィリシアは言葉を失う。一国の王の趣味といえば、乗馬に舞踏会、後宮作り、狩りや賭け事といったものが多く、派手に遊びほうけて国を傾けるどうしようもない者までいた。
 王家の血を継ぐ尊い御方が、ちまちまと工房で銀細工作りにいそしんでいる姿はどうやっても想像できない。
 おかしい。
 おかしすぎる。
「なによそれ!?」
「……変か?」
「変でしょ!? しかもなんでわざわざここに持ってきてんのよ!?」
「工房に飾っておいても仕方ないだろう。臣下に見せれば嘆くし。まったく、私に趣味があるのがそんなにおかしいか?」
「いやもぉ、なんてゆーかこう……」
(そりゃ嘆くでしょ。普通持たないよ、そんな暗い趣味……)
 いろいろ言いたかったが、あえて言わずにおいた。人にはそれぞれ趣味趣向があって当然なのだから口を出すほうが無粋というものだと自分に言い聞かせる。
「そうだ、これを」
 エディウスは懐から細身の短剣を取り出してフィリシアに渡した。
 美しく繊細な装飾は先ほどの短剣を連想させる。ただ、その短剣には、深い闇色の石が埋め込まれていた。
「――綺麗」
 思わずもれた言葉を耳にしてエディウスが微笑する。
 闇色の石は、光に当てると本来の色を取り戻す。それは深海を思わせる底の知れない蒼――。
 エディウスの瞳の色。
「これ……?」
 そっと石に触れると、エディウスの静かな声が言った。
「お前が以前欲しがっていたものだ。覚えてはいまいが――私の自己満足だ。よければ、護身用に持っていてくれ」
 ずきりと心が痛む。
 記憶は戻らない。
 いや、戻らないどころか――。
「エディウス、私、フィリシアじゃないかもしれない」
「……馬鹿なことを」
「別人かもしれない。もしかしたら本人かもしれないけど、わからない。本当になにも思い出せないの」
 残酷な言葉だと思う。
 一年間も姿を消して、やっと戻ってきたらこんな状態で。
 好きなのかもわからない。この見知らぬ土地で不安に駆られ、逃げ場を得たいがためにむけられる好意に流されているだけなのかもしれない。
 嫌いではないと思う。
 でも、それだけだ。
 本当にそれだけなのだ。
「お前は、フィリシアだ。でなければ、いったい誰だというのだ――?」
 ゆらりと、エディウスの瞳の奥が揺れる。
「お前だ。私が殺した、そのままのお前だ――」
 フィリシアの目の前で、何かがゆっくりと狂っていく。
「エディウス……?」
 優しげな雰囲気を持った銀細工師は、秀麗なデスマスクをかぶった男へと――。
 そのすべてを塗り替えられていった。

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