【七】

 町娘に扮したフィリシアの美しい黒髪は、衣裳部屋に落ちていた紐を使って無造作に縛りあげてある。一見しただけでは王城で手厚い看護をうけていた娘には見えないはずだ。
 しかし、顔見知りとなるとそういう訳にはいかない。
「意気揚々と出て行くから何事かと思えば」
 呆れたように口にして、エディウスは昏倒した男の傷の具合をみて放置しても問題ないと判断し、握られた鎖をとってフィリシアに差し出した。
「あ、ありがとう」
「……ずっと持っているんだな、それを」
 受け取って安堵する彼女に彼は複雑な表情を浮かべた。細やかな装飾をほどこした二つの鍵は、くっきりと模様が刻まれて使われた形跡がないように見える。ただ、その鍵のひとつはどんな力が加えられたものか、不自然な方向へと捻じ曲げられていた。
 フィリシアが鍵をきつく握ると、エディウスは鎖を手に取った。
「切れたままでは仕方あるまい。直すから私に預けてくれないか?」
「え?」
「鎖だ」
 ああ、と生返事をしてフィリシアは鎖から鍵をはずして彼に手渡した。多くの視線を受けながら、促されるように歩き出す。
 彼は路地裏の途中で小さく溜め息をついた。
「公務をほったらかしてしまった」
「どうしてこんなところに?」
「――母上の衣裳部屋にお前が入っていくのを見かけてな。まさかとは思ったんだが、本当にやるとは思わなかった」
 ひくりとフィリシアの顔が引きつった。
(最悪――)
 あの人ごみの中を城から見失わずについてきたらしい。勝手に服を借りたことに罪悪感を覚えながら、フィリシアは別段怒っているそぶりさえないエディウスを盗み見た。
 城下町であんなことが起こっているのに、それに対しても憤る様子はない。ただ感情の読めない顔を路地裏に続く道へと向け続けている。
(なに考えてるんだか)
 そもそも怪しいと思ったなら衣裳部屋にいる時点で声をかければいい。それを放任し、城を抜け出すのを黙認して真意を確かめるなどタチが悪い。
 だいたい、城では一度も会いにこなかったくせに、なぜ悪巧みをしているときだけちゃっかり目ざとく張り付いているのだろう。
 放置するだけ放置して、こんなときばかり現れるのが腹立たしかった。
「性格悪いわよ、あんた」
 相手が国王であることも忘れて、フィリシアは思い切り毒づいた。
「婚約者が逃亡するのを見過ごせるか?」
 どこか楽しげにエディウスが切り返す。フィリシアは眉をひそめて彼を凝視した。
(……なんか、まえ見たときと雰囲気が違う……?)
 見事な銀髪を隠すためにすっぽりとかぶったフードの裾を指で押し上げ、エディウスは楽しげに笑っている。
 よく見ると、身に着けている服も城にいるときのものとはだいぶ違っていた。麻のシャツに若草色のベスト、藍色のズボンに皮ベルト。ご丁寧に、ベルトには小さな袋と銀の短剣までさしてあり、まるで旅人のような出で立ちだ。
(あははー……み、見透かされてる……? なにも公務ほったらかしてくることないじゃない……)
 アーサーに呼ばれてそのまま行ってしまったとばかり思っていたフィリシアは、なんとなくからかわれているような気がしてエディウスを睨みつけた。
「で、何がしたかったのだ?」
「逃亡」
「……ほう?」
「ねぇ、この際はっきりしとかない? 私は――」
 大通りに出た直後、最後まで言い終わらないフィリシアの腕をエディウスが強引に引いた。
「いい店を知っている。わざわざ道端で話し込まずともよいだろう」
「って、ちょっと――!?」
 抗議する時間も与えず、エディウスは人ごみの中を進んだ。巨大な通路はとても立ち話をする雰囲気ではなく、多くの露店から景気のいい声が飛んでいる。自慢の品をすすめる声は、時に耳を塞ぎたくなるほどの大きさだった。
 色とりどりの花や、見目鮮やかな刺繍がなされたタペストリー、装身具や装飾品、新鮮な魚や肉をあつかう店、近隣諸国から取り寄せた香辛料をたたき売る店――。
 活気あふれた大通りには、刻一刻と人が押し寄せてくる。
 人の波にのまれながら、フィリシアは強引な男に文句を言うのも忘れ、その見慣れぬ世界に圧倒されていた。
 前を行くエディウスはその中を慣れた足取りで進んでゆく。
 人の波の隙間を器用に渡り歩き、ふとフィリシアを引き寄せた。
(あ……)
 エディウスは、フィリシアが歩きやすいように先導していた。おそらくは、無意識に。
(……なんか)
 悪くないかも、なんて思ってしまう。
 露店が放つ匂いとは違う、どこか甘い香りがフィリシアを包み込む。
 頭の奥が、痺れるような。
(なに、この匂い? どこかで――?)
 甘い甘い香り。
 エディウスから立ちのぼるのは、ひどく危険な香りだった。

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