【六】

 鎖が服にひっかかり、ぷつりぷつりと音をたてながら引き抜かれる。
 全身に鳥肌がたった。楽しげに笑う男たちから視線をそらし、フィリシアは辺りを見渡す。
 集まってきた男は全員で五人――今の体調のフィリシアがどうにかして逃げられるような人数ではない。思わず後退した足はもつれ、何かを踏んで体が大きく傾いた。
「怪我、させるなよ」
「少しくらいいいだろ」
「久しぶりに迷い込んできたんだから、優しくあつかえって」
 からかうような声色に男たちがどっと湧いた。膝を折ったフィリシアはとっさに手をつき、視線を足元に落として一瞬息をのんだ。
 路地裏に広がる露店の行商たちは誰一人視線を合わせようともしない。助けを求めても無駄なら、すきをついて逃げることを考えなければ男たちのいいようにされてしまう。
 まさか大国の――しかも、王城から目と鼻の先でこんなことをする輩がいるとは思ってもみなかったフィリシアは、手に触れたものを握りしめてゆっくり立ち上がった。
 鎖が不快な音をたてて揺れた。
「変わった首飾りだな? ……なんだ、やる気か?」
 フィリシアが上体を崩したことによって一息に服から表に出たのは大きさの違う二つの鍵。それは鎖で繋がれ、重い金属音を響かせながらフィリシアの胸元で軽く跳ねた。
 どこのものなのか、いつから持っていたのかさえよくわからない鍵だった。ただエディウスに助けられた時にはすでに彼女の手の中にあり、痛いほど強く握りしめられていた。
 なんとなく気味の悪い首飾りを――誰にも見せてはいけない気がするそれを、彼女はなぜかいつも身につけてしまう。
 慌ててしまおうとしたが、同時に男の手が伸びてきた。
「貸せよ」
 下卑げびた笑みを浮かべてのばされた手を、フィリシアは無意識に棒で強く打っていた。
 低い呻き声に、周りの男たちはさもおかしそうに笑う。仲間を睨みつけ、棒で打たれた男は剣を握ってフィリシアに向き直った。
「いい子にしてりゃ痛い思いはしなくてすむんだ。わかってんのか、小娘が」
 男の怒声にフィリシアは表情を険しくする。棒切れ一本で何とかなる相手でないのは承知だが、このまますんなりと言うことを聞くのはどうしても我慢ができなかった。
 きゅっと棒を握りしめる。
「……やる気か? 舐めやがって」
 苛立つ声。怒気が殺気に変わり、男たちが剣をかまえなおす。後ろには大通りへと抜ける通路があるのだから、がむしゃらに走ればいい。大声を出して、走れば――。
 フィリシアは奥歯を噛みしめた。
(なんでこんな時に動かないのよ……!)
 足を踏み出せば、きっともつれてしまうに違いない。さっきのようにもつれ、今度は無様に転倒してしまうかもしれない。助けを求められる場所まで逃げなければ、たどる末路は結局同じだ。
 じりじりと間合いを詰められ、フィリシアは息をのむ。せめて手にしたのが棒切れではなく剣だったなら少しくらい威嚇になったろう。丸腰でいる自分の軽率さがひどく恨めしかった。
 不意に、一連の事件に関わるのを恐れたように顔を背けていた店主たちがざわめき出した。
 緊迫した空気にわずかな隙ができる。フィリシアが視線を少しだけ動かすと、
「女ひとり、よってたかって取り囲むなど男のすることではないだろう」
 低く静かな声が、まるで子供に言ってきかせるような口調で響いた。
 あまりに場違いな物言いに男たちは顔を見合わせふざけるように肩をすくめた。常識が通じる相手ではないことぐらいわかりそうなものだが、フィリシアにとっては救いの一言だ。邪魔者を黙らせようとでもいうのか剣先が大きくそれた。それを彼女は見落とすことなく、剣を握る男の手の甲へと鋭い一振りを落とす。
「こいつ……!」
 取り落とした剣を素早く拾い、フィリシアはにっこりと微笑んでみせた。
「これで戦える」
「女がいきがってるんじゃねぇよ!」
「……私もいるんだが」
 苛立つ男の声をさえぎり、静かな声がどこか困ったように告げる。
「うるせえ! 邪魔するんじゃ――」
 どっと、男の体が低い音を発して前のめりになった。フィリシアの視界には剣の柄だけが見えた。うめき声をあげる男の首筋に手刀が落ちると、巨体はあっさり地面へと伏した。
 フィリシアは、突然現れてあっけなく敵の一人を倒した男に目を見張る。
 フードを目深にかぶり、かろうじて見えるのは通った鼻筋と薄い唇――さらに、零れ落ちた銀糸の髪。低い声に聞き覚えのあったフィリシアは、どうやっても男にしか見えない助っ人を凝視して顔を引きつらせた。
(ま、まさか、嘘でしょ?)
 こんな裏通りにいるべき人間ではないはずだ。唖然とする彼女をよそに、男たちは止める間もなくすぐさま咆哮して剣を振り上げた。
 彼の持つ剣は鞘に収められたままだった。だが、それゆえに加減など一切なく、彼の鞘は男たちの顎とみぞおちに容赦なくめり込んだ。あれは相当痛いぞと、フィリシアが思わず目を逸らしながら考えた。
 低くこもったような音と男たちの呻き声に続き、その体が次々と地面に伏していくのが気配だけでわかった。
 意外と強いんだなと感心して顔をあげた刹那、首元を熱が走った。
 フィリシアの目の前を男が通り過ぎていった。
「フィリシア!?」
 驚愕して駆け寄る彼の足元には四人の男が転がっている。そして、フィリシアの目の前を横切った最後の一人はさらに殺伐とした路地裏へと駆け出していた。
(逃げた……?)
 唐突に熱を持った首を押さえてそう思い、彼女は音をたてて血の気が引くという状況を体感する。
 ついさっきまで揺れていた鎖が指にかからない。遠ざかる男の手に鎖が握られているのを見て、今度は頭に血がのぼった。
「返しなさいよ!」
 ほとんど条件反射で叫び、フィリシアは持っていた剣を投げていた。剣は男の脇をかすめ、驚いた男は悲鳴をあげて跳び上がる。
 それを見た彼は、ちらりと彼女に視線を流した。
「捕まえるのか?」
「首飾りを取られたの!」
「わかった」
 よし、と頷いた彼は、近くの店から果物をひとつ掴んで重さを確認するように手で弾いてから振りかぶった。そして、驚くフィリシアを無視して腕をしならせる。
 投げた果実は引き寄せられるように一直線に飛び、男の後頭部に当たって上に跳ねた。突然の衝撃にたたらを踏んだ男の体は、そのまま派手に前方へ倒れこんだ。立ち上がることを警戒して彼がさらに果物を手にしたが、倒れた男はそのままぴくりともしない。
「……当たり所が……よかったらしいな」
「……そうね」
 微妙な間合いで頷くと、彼は小さな皮袋を取り出して、茫然とする店主にそっと果物の代金を握らせた。それから銀の髪がフードから零れ落ちていることに気付いて慌ててその中に押し込む。
 鞘に入ったままの剣をベルトに固定して、彼はフィリシアの隣に並んで気絶する男の元に向かった。
「……どうしてこんな所にいるの? エディ――」
 名を呼ぶ前に、大きな手で口を塞がれた。
「忍んで来ているのだ」
 今更かしこまって言われてもフィリシアはどう反応していいのかわからない。ただ困惑するように、大国の王であり、命の恩人であり、そして、婚約者である男を見上げた。

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