【五】

 城といっても、堅牢な城壁を持つわけではないバルト城から抜け出すことは想像以上に容易かった。
 王城なだけあって警固の手は多い。だがそれは主要部分に限られたことだし、その必要性自体が問われているのだ。
「無用心って言えば無用心ねぇ。暗殺者とか、そういう危惧はないのかしら?」
 警備を減らす検討さえなされているらしい。さすがは大陸有数の大国。過去に敵対国を完全に沈黙させたそのおごりが、そんなところにまで反映されているのだ。
「こっちは助かるけどね」
 何食わぬ顔で通用口から外に出て城の壁面をたどるように歩いていると、暇そうに大扉の前に立ち、呑気に雲をながめている門番の姿を発見した。
 平和を絵に描いたような光景だ。鼻歌を歌っていないだけましかと、フィリシアは苦笑して大扉の前に広がる広場を見た。
 広場は巨大な道へと繋がり、そこから一直線に運河と城を結んで交易の拠点となる。バルトは交易で栄える国で未開墾の土地が多い反面、目を見張るほど発展して活気づく地区があった。フィリシアの目の前には後者が広がっている。
 弾む足取りで大通りにむかう刹那、白銀の軌道がフィリシアの鼻先をかすめた。
 とっさに数歩後退し、フィリシアは素早く視線を走らせる。
「怪しい女」
 先刻まで空を眺めていた門番は、槍をかまえてにやりと笑う。柄を持ちなおして濁った眼でフィリシアを見つめ、彼はだらしなく口元を歪めた。
「……名前」
「え?」
「名前、だよ、名前」
「さきにあんたが名乗りなさいよ。礼儀でしょ」
 矛先を警戒しつつフィリシアが言うと、男は槍を起こして小首を傾げた。あと少しずれていたら惨事になっていたかもしれないと動揺したが、フィリシアは表情を変えずに城の顔である大扉を護るにはふさわしくないだろう男を睨みつける。
「……ダリスン・ベネット」
「フィリシアよ」
「……ああ、舞姫さま。国王陛下の婚約者か。……本物か?」
 疑う男にフィリシアは肩をすくめた。本物かどうかは、彼女のほうが知りたいくらいだ。
「もういい? 町を見たいんだけど」
「……観光か?」
「そうよ」
 即答して微笑むと、ダリスンは一国の王の伴侶になる可能性があるフィリシアにむけ、ぞんざいに顎をしゃくった。
 信用されていないことがわかる態度だが、これからは通用口を使っても見張りがいる大扉には近づかないように注意すれば問題ないと割り切って、フィリシアは気にとめることなく広場に向かった。
「それにしても、あんな門番ってありなの?」
 酔っているのかと疑いたくなるようなどこか虚ろな眼差しに、呂律ろれつが回っていない口調が妙にひっかかる。ずっと付きっ切りで見張っているわけではないだろうが、あんなのが立っている時に問題が起きたらうまく対処できるはずがない。
 フィリシアは難しい顔をしながら喧騒のやまない広場から大通りへと出て、目の前を横切る人影に慌てて足を止めた。波のように押し寄せる声が絶え間なく続き、同じように人波も途切れることなく延々と続いている。ぼんやりとしていたら流されるであろう人ごみをぐるりと見渡し、彼女は軽く頭をふってから短く息を吐き出して一歩を踏み出した。
 案の定、大通りは恐ろしく歩きにくかった。遠慮がちに歩いていたフィリシアだったが、それではどれだけたっても希望通りに歩けないと悟ると、両手を伸ばして人波をかき分けるように前進をはじめた。それでもやはり、まっすぐに歩くことができない。気付けば濁流のような人波に呑まれ、通路の脇にある露店の前まで流されていた。
 フィリシアはよろめきながらもなんとか足を止める。店は装飾品を扱っているらしく、目を引く赤い棚の上にさまざまな商品が並んでいた。フィリシアが物珍しげに鮮やかな貝殻を加工した耳飾りを手にとって陽にかざすと、店主が揉み手をしながら顔を出した。
「いかがです? イーサ近郊の海でとれた貝ですよ。夜になると月の光で青白く発光する」
「これが?」
「ええ。いま流行の品で、生産が間に合わないくらい人気なんです」
 軽い音を奏でる貝を見つめてフィリシアは瞳を細めた。貝の表面には細やかな彫刻があり、裏面とは違う柄になっている。一目でそれなりの値がつくものとわかってそっと赤い布をしいた飾り棚に戻した。
「……ごめん、私には可愛すぎる」
「それは残念。またの機会に、ぜひ」
 断られても気を悪くした様子をみせず、店主はにこやかに引っ込んでいった。
 露店の多くは行商によって契約制で商売をしている。道の両側に並ぶのはしっかりとした造りの店が多いが、逆に大通りの中央には仮設の店が幅をきかせている。共通するのはどの店からも威勢のいい声がとんでいる点で、客と店主は腹をさぐりあうように言葉巧みに商談にふけっている。
「すごい所……」
 フィリシアは、なかば呆れながらせわしなく視線を移動させる。城下町がこれほどにぎわっているなら、バルトはそれなりに安定した国なのだろう。老医師オルグが口にしたように大国と自負するのもわからないでもない。
 流されるように歩いていたフィリシアは、ふと足をとめた。
 大通りから一本奥に入った道にも露店が出ている。歩くのにも苦労するほどの混み具合にうんざりし始めた彼女は、しめたとばかりに路地裏へと足をむけた。
 背の高い建物に挟まれた細い通路に、どこか湿った空気が流れ、頬を撫でて通りすぎる。建物が途切れると意外に広い通路へ出た。
 フィリシアは思わず眉をしかめた。道一本違うだけで町の様子はがらりと変わり、活気というものが失われる。どこか暇そうに談笑する店主は客引きする気もないらしく、フィリシアをちらりと見ただけで声をかけようともしなかった。木の根を噛みしだきながら空を眺めている者もいるし、通路の一角にたむろするだけの者もいる。
 商売っ気のなさに小さく溜め息をつきながら、彼女はそれでも少しだけ露店を見て回った。
 あまり長居したくなるような雰囲気ではなく、彼女は大通りに並ぶ商品より明らかに劣る品々に気のない視線をむけてすぐに大通りに戻る通路へと歩を進める。
「姉さん」
 背後からかけられた揶揄するような声に嫌な響きを感じてフィリシアの歩調が速くなる。
「無視するなよ――おい、あんたのことだよ!」
 鋭い声にとっさに振り返る。腕を掴もうとのばされた手をふりはらい、彼女はまなじりを決して集まってきた男たちを睨みつけた。
 体を折り曲げるように顔を突き出した男がにっと笑う。
「あんた、いいとこのお嬢さん?」
「……」
「怖くて声も出ないか――古臭いがいい服着てるな。その首飾りは……?」
 男はかまえた剣をのばしてフィリシアの肌にあてた。身じろぎせず睨みつけると、男たちが顔を見合わせてせせら笑った。
 フィリシアは助けを求めようと露店を見たが、誰も彼も、関わりたくないとでも言うように慌てて顔を伏せた。大通りまで行けば難を逃れることができる。だが、ここ一ヶ月というもの運動はおろか狭い部屋で療養していた彼女には逃げ切れる自信がなかった。
 捕まって口を封じられればそれで終わりだ。
 わずかに後退したが剣は喉笛からはずれない。皮膚ぎりぎりの場所をすべり、それは首からぶら下がっていた鎖に触れた。
 ざわざわと悪寒が走る。
「いい値段がつきそうだから、とりあえずその服脱いでくれる? 売り物、傷つけたくないんでね」
 小首を傾げて告げた男の剣は鎖をひっかけて持ち上がった。
「勿論あんたも売り物なんだけどな」
 ささやいた男の笑みが醜悪に崩れていった。

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