【三】

 老医師から許可をもらい、フィリシアは初めて部屋の外へと足を運んだ。
 未来の王妃用として用意された部屋は、目を見張るばかりの調度品で上品に整えられた一室であった。ただ、毎日見ていると慣れてしまう。
 一本の木からくりぬかれただろうクローゼットも、宝石をちりばめられた化粧台も天蓋つきのベッドも、上等な布で織りあげられたカーテンも、一ヶ月も目にしていればこれが当然のような錯覚におちいってしまう。
「……でも、やっぱりあの部屋、お金かかってる」
 もったいない、と庶民的な感想を述べて、フィリシアは広い廊下を歩き出した。
 廊下に華をそえるように置かれている装飾品は、彼女がいた部屋のものと比べるといささか質が落ちるように見受けられる。大きな陶器の壷も彫刻も、美術館で鎮座していそうなぐらい見事なのだが、彼女の部屋にあったものとは格が違う。
「……金かけりゃいいてもんじゃないけどね」
 憮然としてフィリシアはつぶやいた。
 お金が愛情と同等の価値があるなどとは思ってはいない。
 金をかけるからいいというものではない。
「だいたい、昔はどうか知らないけど、王様が私のこと気に入ってるかどうかも疑わしいじゃない」
 婚儀当日に姿をくらませた花嫁。
 一年後に帰ってきてみれば記憶喪失ときている。そのあいだに何があったのか、そもそも、なぜ逃げ出したのかさえ不明なままなのだ。
 どんな寛容な男でも、この状態の女に求婚するとはどうしても思えなかった。
「……嫌がらせ?」
 フィリシアは長い廊下をわたり、中庭へ出た。
 手入れの行きとどいた芝生が目に鮮やかだ。小さな花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、庭の中央には大理石の噴水がある。所々に配置されている兵士は、まるでフィリシアの存在など気付いていないかのように仁王立ちで、精緻な模造品のように微動だにせず風景に溶け込んでいた。
「嫌がらせよね」
 フィリシアは同じ言葉を繰り返し、芝生の上に腰をおろした。自らがまとうドレスがかなりの高価なものであること知ってはいたが、あまり気にはならなかった。
「王様、一回も私に会いに来てくれないし」
「それは公務が忙しかったから。オレも駆り出されたくらいだし。――隣国が戦争はじめようとしてるんだよ」
 フィリシアの独り言に、明るい声が答えた。
「え!?」
「オレなんて公務に役立つはずないのにさぁ、王がダメなら王子、だもんな。ホント参るよ」
 若い男がフィリシアの隣に音をたてて腰をおろした。手を組んで体をほぐすように頭上へとのばし、それをほどいて肩を回しながら揉んだ。
「よ、元気そーじゃん? お見舞い行けなくてごめんね?」
 人懐っこい笑顔。呆然とするフィリシアに、彼はなにかを思いあたって困ったように笑った。
「そっか、記憶なかったっけ。オレ、アーサーだよ。バルト王の弟」
 明るい栗色の髪と瞳。髪に合わせたのだろうひかえめな色の服は軽快な彼に似合い、王子というより良家の坊ちゃん然としている。腰にさげた剣も、どうひいき目に見ても実戦で役に立ちそうもない。
「アーサー……王子?」
「アーサーでいいよ。前は仲良かったみたいだけど、お互い記憶ないから初対面みたいなもんかな? よろしく、フィリシア」
 フィリシアの手をとり、そっと甲に口づける。そのキザったらしい仕草にぎょっとして、奪うように手を引いた。
「照れるよな、これ。オレも照れる」
 手の甲を押さえ真っ赤になったフィリシアを見つめて、アーサーは肩をすくめた。
「でもこうしろって、教育係がうるさくってさ。作法とか一から叩き込まれて大変だのなんのって」
 大げさに溜め息をついて、まだ真っ赤になっているフィリシアに片目をつぶってみせる。
 立場に似合わずなんとも軽い男だ。
「フィリシアも苦労するだろうな。体、全快したみたいだし?」
 アーサーはそう言ってくすくす笑った。
「結婚式は一ヵ月後に決まったらしいよ。国民にも御触れが出た」
「え!!」
 驚いて目を見開くフィリシアの表情に満足したように頷き、不意にアーサーは笑みを消す。
「バルト王と結婚するの、いや?」
 挑むような瞳でアーサーはフィリシアにささやく。
「さらってあげようか? 一年前のあの時のように」
 毒を含むような声音。
 まっすぐに見つめる瞳は、フィリシアを通り越し、別のものへそそがれている。
 それは、憎悪さえ感じる瞳の輝きだった。
「……!!」
 フィリシアははじかれたように振り返る。
 アーサーの視線の先――そこには、男がいた。
 日の光の下では美しい銀髪であるその髪が、今は鈍色にびいろにくすんでいた。深海を思わせる美しい蒼い瞳も、漆黒の闇のように沈んでいる。整いすぎた顔はまるで死面デスマスクのようにどこか陰鬱いんうつな陰りさえ見せた。
 彼は、森の中で瀕死のフィリシアを見つけた男。
 アーサーの兄であり、バルト国国王であり、フィリシアの婚約者である、エディウス・トリビア=ステンデューイであった。
「考えておいて。オレはいつでもキミの味方だ。一年前がそうだったように、今のオレも、昔と変わらずいつでもキミに手を差し伸べる」
「アーサー?」
 心の奥に、なにかどす黒いものを飼っている。フィリシアは恐怖にも似た感覚に息をのんで身じろぎした。
「……どうしたの? オレが、怖い?」
 おかしそうに口元を引き上げる。ささやくような声も、射るような眼差しもそのままに。
「お前を傷つけたりはしないよ。たとえ別人だとしても。ね……?」
 形容しがたいその口調に言葉が出なかった。
 アーサーはそんなフィリシアに口元だけで微笑んで、別れの言葉を残して優雅に立ち上がる。
「兄上。アバエラが捜していましたよ。会議の日程を決めたいそうです」
 まるで何事もなかったとでも言いたげに、アーサーはエディウスに近付いていった。
 親しげな笑み。
 柔らかい物腰。
「……とんだ食わせ者じゃない」
 遠ざかる二つの影を目で追って、フィリシアは脱力したように肩を落とした。

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