【二】

「物忘れ病ですな」
「……」
 目の前の、確実に棺オケに片足を突っ込んでいる医者が興味深げにそう口にした。
「なによそれ!? もっといい名前ないの!? バカみたいな言いかたしないでよ!!」
 少女はあきれるほど豪奢な天蓋つきのベッドで、場違いな悲鳴をあげてそこから乗り出すように老医師に詰め寄る。とても医者には見えない派手な服を着た老人は両手をあげて少女を制し、にごった瞳に困惑の色を浮かべていた。
「いや、珍しい症例でしてな。といっても、アーサー王子に続き、二人目ですが」
「王子!?」
「そうですよ。アーサー王子はエディウス様の貴弟きていで、バルト王家の血を継ぐ尊いお方です」
「……エディウス……って、あの人よね。銀の髪に蒼い目の。……私を助けてくれた人」
 森の中で行き倒れていた彼女をこの城まで運んでくれた男を思い出して口にする。光の加減でくすんだ色にも見える瞳が動揺に揺れるさまは今でも彼女の心の奥に刻み込まれていた。
 王家という慣れない単語をあえて聞き流して問うと、老医師は深く頷き同意した。
「そのとおりです、フィリシア様」
「誰がフィリシアよ?」
「あなた様ですよ」
 少女は口をつぐんで微笑む老医師をまじまじと見た。
 記憶はない。なのにこの医者は、まるで当然のようにそう呼んでくる。そういえば、このぶっ飛びたくなるような中世ヨーロッパ調の城に連れてこられて一ヶ月、皆の反応が親切かつ賓客に接するように丁寧なのも引っかかる。
 命にかかわるような大怪我だったためまったく部屋から出してはもらえなかったが、城内の女たちや巡回する警備兵は、なぜこうも自分に親切なのだろう。
 さらに、皆が舞台衣装を着てすごすことも不思議でならない。宮廷医師と自己紹介した目の前の老人でさえ、白衣ではない物を着ている場合が多いのだ。窓からときどき見える人間は、長い丈の派手な服をまとって、彼以上に奇異だった。
 彼女は器具を鞄にしまう老医師を見た。
「……ねえ、オルグ先生……私、家に帰りたいんだけど」
 彼女が意を決して老医師に声をかけると、彼は困った顔で椅子に座りなおした。
「何度も言うようですが、あなたには記憶がない。帰る場所も思い出せないのでしょう」
 それこそ聞き飽きるほど聞いた答えに、少女――フィリシアは歯噛みした。
 この世界は連絡手段が恐ろしく乏しい。隣の町の知人に連絡を取るのだって、早馬と呼ばれる「伝達人」が重宝されるような世界だった。
 自分がいたはずの場所とはやはりどう考えても違う。
 確信はないが、フィリシアはそう感じずにはいられなかった。
 文明とは程遠いこの世界では、記憶のない娘の家を探すなど雲をつかむよりも難しい。いや、難しいどころか、地道に尋ね歩くほか方法がないなら不可能に近いのではないのか。
「それに」
 と、考え込むフィリシアを見つめながら老医師は言葉を続けた。
「あなたはエディウス様の婚約者でしょう。そうそう城を出て大怪我をして婚礼を延ばすわけには――」
「は!?」
 老医師の声を掻き消すいきおいで、フィリシアは天蓋つきのベッドから再び乗り出した。
「いま! 今なんて言った!?」
「ですから、大怪我をして婚礼を延ばすわけには、と」
「誰が結婚すんのよ!?」
「あなたとエディウス様ですよ」
「知らないわよ、そんなの!!」
「……ああ。物忘れ病でしたな」
 自分で診断しておきながら、今はじめて気付いたかのように老医師はシワだらけの手を打った。
「成婚の儀の当日に行方をくらませたんですよ、あなたは。一年間も」
「……」
 あまりに意外な内容に言葉もない。なるほどだから、侍女たちはあれほど親切で、警備兵は過剰なほどの警護を余儀なくされていたのだ。
 未来の王妃であり、失踪の前科をもち、記憶をなくして帰ってきた娘。
 それが自分。
 それがフィリシアという少女なのだ。
「……え、でもちょっと待ってよ。私、何も覚えてないんだけど。結婚なんて無理よ!」
「王は、それでもよいと仰せです」
 老医師は粛粛しゅくしゅくと口にして瞳を伏せて頷いた。国王の寛容さに敬意を払うかのような姿である。
(冗談でしょ!!)
 フィリシアは青ざめた。
 過去を知らない彼女は、どんな経緯で結婚なんてすることになったかはこの際おいておくことにした。現状でもっとも問題なのは、つまり国王がまだ結婚の意志を放棄していないことだ。
 相手が記憶をなくしてしまっているのに。
 フィリシアにとって婚約者であるエディウスは初対面も同然の男だ。会って一ヶ月たつ命の恩人はあれから一度も姿を見せず、彼女の意志すら確認しようとしない。失踪から一年もたっているならそのあいだに心変わりする可能性は充分考えられるのに、それすら考慮しないのだ。
 それに、結婚間近の花嫁が姿を消すなど相当な理由があったのだろうから、ここはじっくり話し合うことが何より大切なのではないかとフィリシアは考える。
 そんなことすら配慮できず、自分の意思だけを貫こうとする傲慢な男との結婚など、破局を連想させて考えるだけでも気が滅入る。初対面でそんな印象は受けなかったが、想像以上に強引な男なのかもしれない。
(……絶対に嫌)
 フィリシアは不機嫌に口元を引き結んだ。
 だが、自分が駄々をこねてどうにかなるはずがないことに、彼女はすぐに気付いた。
 記憶がないというだけで、自分の家すらわからなくなるということは、おそらく自分は大して身分が高くなかったということだ。相手が悪すぎる。国王≠ニ、平民≠フ娘――その身分差は天と地ほどあり、本来なら相容れないものに違いない。おそらく、史実を紐解いてもたびたび見かけるような組み合わせではないだろう。
 それを承知で話を進めているなら説き伏せるのは想像以上に厄介かもしれない。
「……ねえ、それ、もしかしたら別人かも」
 恐る恐るフィリシアは意見する。
「まさか! まるで鏡に映したように同じ顔なのに」
 老医師はフィリシアの考えを一蹴した。
 しかし、少しだけ納得がいかないという表情をフィリシアに向ける。
「一年間、あなたがどこで何をしていたかは要として知れませんが。……まあ奇妙な点といえば、あなたが着ていたあの服ぐらいですかな」
「服……?」
 フィリシアは小首を傾げた。
「異国の服でありましたよ」
「……」
 多くの記憶が欠落している事実にフィリシアはひどく狼狽えた。記憶の切れ端だけが気紛れに浮かんでは消え、彼女はこめかみを押さえて目をつぶる。
「あれ、は……セーラー服」
「フィリシア様?」
 ひどく聞き慣れない単語をつぶやいた少女に老医師は眉をひそめた。
惣平そうへいと私と、あとは……」
「フィリシア様!?」
 熱っぽい手で強く肩をつかまれ、フィリシアは我にかえって老医師に視線を戻した。
 なにかを思い出せそうだった。なにか、思い出してはならないような記憶を。
 懐かしくて残酷な気持ちを。
「私……本当の私は誰なんだろう……」
 どこか遠くにいた気がする。なにもかもが新鮮で楽しくて、いやな思い出の一切を忘れさせてくれるような優しくあたたかい場所。
「……フィリシア様」
「私が結婚する相手……どんな人?」
 柔らかく体をつつむ上等のシーツを強く握りしめ、フィリシアは震えるような声で問う。
 老医師は細い目をいっそう細めた。
さといお方です。民を第一に考え、聡明で潔癖。生涯、妻をめとることはないだろうと誰もが感じるほど……誰にも心のうちを見せることのないお方でした」
「どうして私が……」
「あなたの美しい舞に、心を奪われてしまったのでしょう」
 老医師は笑みを深めて言葉を続けた。
「フロリアム大陸一の舞姫と謳われたあなた様の舞が、王の心を動かしたのでしょう」
 再び、フィリシアは言葉をなくす。
 大陸一の舞姫。平民どころか旅芸人の域だ。
 身分が違いすぎる。本来なら、王妃などという立場はありえない。側室にだって召し上げられるかどうか。
「なんでそんな突拍子もない話になってんのよ!? 誰か反対しなさいよ!!」
 悲鳴をあげるフィリシアに老医師は苦笑した。
「それはもう、臣下一同大反対でしたよ。バルト国はフロリアム大陸でも有数の大国。婚姻の話などは引きもきらない。現に多くの姫君や名家、名門の女性がこの城を訪れました」
 過去に思いをせ、感慨深げに老医師は頷く。
「王もよわい二十九。とうに王妃を娶っていいはずなのに、美しく上品な娘にはまったくといっていいほど興味を示さなかった。それは王の性癖や身体的な疾患を心配する輩がでるほどでした」
「……つまりあれね。下賤者には興味を持った。結婚はさせたくなかったけど、一生独身っていうのも世間体が悪かったから、この際これでいいかと手を打ったと?」
 フィリシアは怒りで肩を震わせながら自分を指差した。祝福されて結ばれるというわけではなく、その裏にはさまざまな思惑がうずまいている。
 仕方がないとそう思ったのは、果たしてまわりの者だけだったのか。もしかしたら当事者でさえそう考えていたのではないか。
 ふと、脳裏に美しい銀の髪をもつ男の姿が蘇った。
「誤解のなきように。王は、あなた様を愛しておいででしたよ」
「どうだか」
 不快をあらわにして溜め息とともにぼやくフィリシアを優しく見つめ、老医師はゆっくりと立ち上がる。
「愛しておいででした」
 そして、悲しげに瞳を曇らせる。
「……心を、病んでしまわれるほどに」

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