「……」
 何かがおかしい。
 そう思わずにはいられなかった。
 このエディウスという男――何かがほかの人と大きくずれている。致命的なほどではないが、それでも、その事実は無視できるほど些細ではない。それに、言っていることも辻褄が合っていない。
(殺したとか言ってたし。――婚約者を? ――フィリシアを……?)
 ではここで生きている自分はいったい何だというのだ。やはり別人なのか、それとも、国王に殺されたフィリシアという少女そのものなのか。
 それとも。
 そこまで考えて、フィリシアは溜め息をついた。
 鍵を握っているのは、戻るとも知れない己の記憶。
 だがそれは、本当に取り戻してもいいものなのだろうか。取り戻せば、最悪の事態を招く結果となりはしないのか。
 酒場での出来事を思い出し、フィリシアは息苦しくなった。
 フィリシアの「否定」の言葉に、エディウスの様子が明らかにおかしく
なり――
 店主が料理を持ってきたころには、すでに穏やかな銀細工師へと戻っていた。
(それとも、お城にいたときのほうが異常≠セったの……?)
 死相さえ漂わせるあの顔。剣呑な、陰鬱な、闇をはらむあのどす黒いまでの陰り。
 フィリシアは目の前を歩く男を、どこか胡散臭そうに見詰めている。
 王宮での彼は、日の光の下にあってなお、闇を思わせる暗さがあった。
 今の彼は、午後の陽そのままに、優しい雰囲気を漂わせている。同一人物であるのに、なぜここまで違和感があるのだろう。
 フィリシアは人ごみの中を躊躇なく進む背を見詰め、そっと歩く速度を緩めた。
「まだ逃走する気があるようだな?」
 とたんにかかる、あきれたような声。
 ほんのわずか離れただけなのに、すぐに気付かれた。
 どうやら、目は前にだけついているわけではないらしい。ムッとしながら、フィリシアはエディウスを睨みつける。
「ちょっとくらい見物したっていいでしょ。別にもう逃げないわよ」
(スキがあったら、別だけど)
 フィリシアの言葉に、エディウスが笑った。
「お前の言うことなど当てになるものか。逃げ出したら、地の果てまで追ってやる」
 さらりといやな言葉を返された。
(うわ……いやなタイプ……ストーカーね!! 女に嫌われる男!! 根暗!!)
「……今お前が考えていること、あててやろうか?」
 楽しげに笑っているが、言葉の棘は隠す気もないらしい。
 王宮内にいるときより扱いやすそうではあるが、これはこれで厄介だ。
 フィリシアは大きく溜め息をつく。
「ねぇ、なんでそんなにこだわってるの?」
 酒場にいたときの二の舞にならないように、彼の中の闇を呼び出さないように、フィリシアは言葉を選ぶ。
「こだわる? 私が?」
 意外そうに、逆に問い返された。
「こだわってるじゃない。呆れるぐらいに。そんなに私のコト好きなんだ?」
「……どうだろうな」
 クスリと、男が笑う。
 カチンときた。素直に言うとは思わなかったが、ここまで中途半端だと妙にしゃくさわる。婚儀は一ヵ月後と御触れが出ているとアーサーが言った。ならば、それはエディウスが承知の上での話しだろう。
 嫌っているはずはない。
 一年も待ち続け、記憶を失って戻ってきてなお妻としようとしているのだ。
 決して嫌っているはずはないのだが。
 後ろをついて歩いていたフィリシアはズカズカとエディウスの隣へ並んだ。
「どうだろうなって何よ!? 嫌がらせならもっとわかりやすくやんなさいよ!? だいたい――」
 言い終わらぬうちに、視界がかげった。
 深い蒼い瞳に飲み込まれる――
 凍てついた色だと思った。絶望と焦燥だけが同居する悲しい色だと、初めてエディウスの瞳を見たときに思った。
 なのに今は、吸い込まれそうなほど優しい色をしている。
 同じはずなのに、どこかが違う。
 まるで闇と光が混在するかのようなアンバランスな感じがする。
 呆然と立ち尽くすフィリシアに、エディウスがクスリと笑った。
「口付けを交わすときには目を閉じるものだろう、お嬢さん?」
 言葉と同時に、これ以上ないほど近づいた顔がさらに近づき、掠めるように唇を奪った。
「な――!?」
 フィリシアは真っ赤になって男を押しのけようとしたが、それは軽くかわされた。
「なにすんのよ!? 信じらんない!!」
 一発殴らないと気がすまないと、フィリシアの顔が言っている。それを察知して、エディウスが人の波へと逃げた。
「信じらんない!! もう!!」
 楽しそうに笑っている横顔が悔しい。まるで無邪気な少年のようないたずらをする。
「待ちなさいよ!!」
 大声を出しても、周りの喧騒がそれを消し去る。
 唖然とした。いつ逃亡するかを模索している間に、いつの間にか城下町の大通りへと紛れ込んでしまったらしい。人の波に流されるように、フィリシアはよろよろと前進する。
 立ち止まろうにも、人の流れがそれを許してくれない。今まではエディウスがフィリシアの居場所を確保してくれていた。だが、その彼の姿はなく――
「エ――」
 今なら逃亡のチャンスだった。
 この人波に紛れ込めば、探し出すのは至難。強引に進められていく結婚話も、婚約者の二度目の失踪となれば確実に破談する。
 そうすれば晴れて自由の身になれる。自分が誰であるかをゆっくりと見詰めなおすことだってできるだろう。
 自由になりたくて城を抜け出したのだ。
 他人の手にゆだねられる人生など真っ平だと思ったから、ここへ来たのに。
 その、つもりだったのに。
「エディ!!」
 フィリシアは、大声で叫んでいた。
 怖い。
 足元が崩れていく感じがする。
 何かにつかまらなければ、底無しの沼の中へと落ちていきそうな恐怖。ざわりと悪寒が走る。
 こんなにも人であふれかえっているのに、この異様な孤独感はなんだろう。
「エディ!!」
 もう一度大声で叫んだとき、力強い腕がフィリシアを包み込んだ。
「すまない。――流された」
 どこかバツが悪そうに、暖かい声が言った。あわてて人ごみを掻き分けてきたのだろう、肩で大きく息をして、フードからは見事な銀髪がこぼれている。
 フィリシアの周りに空間ができる。エディウスが作ってくれる、彼女のためだけに用意された場所。
「フィリシア」
 そっと遠慮がちにエディウスが頬に触れる。暖かい大きな手が、ぬれた頬をたどる。
「すまなかった」
 慈愛に満ちた声を聞いた瞬間、呆然と瞬いた漆黒の瞳はすぐさまきつくつりあがった。
 パッと男から離れるや否や、両手を伸ばし、小気味よい音とともにその頬を両手で挟んだ。
「――なんでここで、ひっぱたかれねばならん」
 ヒリヒリとする頬に柳眉をしかめ、エディウス王は婚約者に思わずといった面持ちで淡々と聞いた。
「加減はしてやったわよ」
 プウッと頬を膨らませながら、フィリシアは服の裾で涙を拭いた。
「私から……」
 フィリシアは一瞬言いよどんで、エディウスを見上げた。
「フィリシア?」
 不思議そうに優しい瞳が見下ろしてくる。
「私から離れた罰」
 そう続けて、少女はあわてて視線をそらす。頬がほんのり赤く染まっていた。
「……受け取ろう」
 どこか嬉しそうに、エディウスは頷いた。

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