城といっても、強固な城壁を持つわけではないバルト城から抜け出すことはたやすかった。
 確かに護衛の数は多い。だがそれは主要部分に限られたことだし、その必要性自体が問われているのだ。
「無用心って言えば無用心ねぇ。暗殺者とか、そういう危機はないのかしら?」
 警備を減らす検討さえなされているらしい。さすがは大陸有数の大国。過去に敵対国を完全に沈黙させたそのおごりが、そんなところにまで反映されているのだ。
「こっちは助かるけどね」
 町娘にふんしたフィリシアは美しい黒髪を無造作に縛りあげている。
「さてとぉ……次は……」
「――意気揚々と出て行くから何事かと思えば……」
 心底あきれた声が頭上からかけられた。
「え――?」
 呆然と視線を上げると、深い蒼い瞳がなんとも形容しがたい色をたたえている。
「エ――!?」
 エディウス王、と叫びかけ、すかさず大きな手で口をふさがれた。
「忍んできているのだ。そう大声をたてるな」
「なんで!?」
「公務をほったらかしてしまった……」
「なんでここにいんのよ!?」
「――母上の衣裳部屋にお前が入っていくのを見かけてな。まさかとは思ったんだが、本当にやるとは思わなかった」
(最悪――)
 言葉を失って、フィリシアはエディウスを凝視する。
 王宮では一度も会いにこなかったくせに、なぜ悪巧わるだくみをしているときだけちゃっかり目ざとく張り付いているのだろう。
「性格悪いわよ、あんた」
 相手が国王であることも忘れて、フィリシアは毒づいた。
「婚約者が逃亡するのを見過ごせるか?」
 どこか楽しげにエディウス王が切り返す。
(……なんか、まえ見たときと雰囲気が違う……?)
 見事な銀髪を隠すためだろう。すっぽりとかぶったフードの裾を指で押し上げ、エディウスは楽しげに笑っている。
 よく見ると、身に着けている服も王宮にいるときのものとはだいぶ違っていた。麻のシャツに若草色のベスト、藍色のズボンに皮ベルト。ご丁寧に、ベルトには小さな袋と短剣までさしてある。まるで旅人のような出で立ちだ。
(あはは〜……バレバレか。なにも公務ほったらかしてくることないじゃない……)
 アーサーに呼ばれてそのまま行ってしまったとばかり思っていたのに。
「で、何がしたかったのだ?」
「逃亡」
「…………ほう?」
「ねぇ、この際はっきりしときましょうよ。私は――」
 最後まで言い終わらないうちに、エディウスがフィリシアの腕を強引に引いた。
「いい店を知っている。わざわざ道端で話し込まずともよいだろう」
「って、ちょっと――!?」
 確かに道端だ。
 露店が多く並ぶ活気あふれた城下町。店主は自慢の品を大声でアピールし、道行く人々の足を止めさせる。
 色とりどりの花や、エキゾチックな刺繍がなされたタペストリー、装飾品や新鮮な魚や肉を扱う店、近隣諸国から取り寄せた香辛料をたたき売る店――
 活気あふれた大通りには、刻一刻と人が押し寄せてくる。
 人の波に飲まれながら、フィリシアはその見慣れぬ世界に圧倒されていた。
 エディウスはその中を慣れた足取りで進んでゆく。
 人の波の隙間を器用に渡り歩き、ふとフィリシアを引き寄せる。
(あ……)
 エディウスは、フィリシアが歩きやすいように先導していた。おそらくは、無意識に。
(……なんか)
 悪くないかも、なんて思ってしまう。
 露店が放つ匂いとは違う、どこか甘い香りがフィリシアを包み込む。
 頭の奥が、痺れるような。
(なに、この匂い? どこかで――?)
 甘い甘い香り。
 エディウスから立ちのぼるのは、ひどく危険な香りだった。

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