大広間の隅であまりなじみのない楽器を手に美しい音色を奏でる演奏者たち。
 そのメロディーにのせ、優雅に踊る紳士淑女。今の流行なのか、女性の半分は鮮やかな赤いドレスを纏っている。ポイントなのだろう白い大きなリボンは、赤いドレスとは対照的でどこかかわいらしい雰囲気をかもし出す。美しく結わえた髪にちょこんと乗った小さな赤い帽子も、やはりかわいらしさを強調していた。
 男性のほうはさして大きな流行色はないのだろう。さまざまな服で出席していた。
「……逃げ出したい」
 ぽそりと言ったのは軟禁状態のフィリシア嬢。
 彼女は控え室から、大広間の様子を溜め息とともに見詰めていた。
「ほら、しゃんとなさってください! 今夜は皆、フィリシア様をご覧になるために集まってきているんですよ!!」
 悪気はないのだろうマーサが、さらにプレッシャーをかけてくれる。
 大広間で輝くシャンデリアを眺めながら、
「あら、なんて神々しい」
 フィリシアはすっかり現実逃避を決め込んでいた。
「もぅ、フィリシア様! しっかりしてください! 大体なんです、その衣装!!」
 マーサがフィリシアを引っ張った。
 大陸一の舞姫の衣装は、異様なほど質素だった。慎ましやかなのではない。質素なのだ。それに体のラインがほとんど隠れている。
 以前の――1年前のフィリシアは、それは官能的な衣装を好んだ。己の肉体を最大の武器として、人々を魅了し続けた。
 初めはその恥じらいのなさにあきれていた観衆たちは、いつしかその舞いの圧倒的な美しさと強さに惹かれていった。大胆にして繊細。優美で傲慢で、野性的でありながら洗練されたその動き一つ一つが、見る者を圧巻した。
 大陸一の舞姫。
 訪れた先々で絶賛をうけ、さまざまな国の名の通った偉人たちに求愛され続けても、決して己を差し出すことのなかった潔癖の乙女。
 それが一年前のフィリシア。
 唯一バルト国の王であるエディウスと婚姻を結んだ少女である。
「フィリシア様!」
「だ、だってだって、最近運動不足だったんだもん!」
 フィリシアはマーサの視線から逃げるように、カーテンの裏に隠れた。
「あんな露出系着れない!! お腹出てんのよ!! なんかお尻の肉も気になるし!! む――胸もちょっときつかったの!!!!」
 真っ赤になりながら、自棄ヤケをおこしてそう言った。ひどい告白だが仕方がない。大怪我のせいでほとんど動けなかったにもかかわらず、食事はしっかり三度っていたのだ。しかるべき自然現象だった。
「う……」
 これにはマーサも返す言葉がなかったらしい。
 かわりに大きな溜め息をついた。
「仕方ないんだもん」
 泣くに泣けない、苦渋の選択である。
 カーテンにしがみついたまま、フィリシアは己の無様さを心底嘆いていた。
 と、不意に大広間の音楽がやみ、控え室のドアが開いた。
「用意は――」
 ひょこりと顔をのぞかせたのは、白いタキシードに身を包んだアーサーである。胸元の真っ赤な薔薇がキザっぽくて、やはり良家の放蕩息子にしか見えなかった。
「あぁフィリシア。その服かわいいね?」
 マーサの非難のこもったものとはまったく違う眼差し。ごくごく自然に声をかけながら、優しく笑ってアーサーはフィリシアに手を差し伸べた。
「……大丈夫だよ、オレがいる。胸を張っておいで」
「う、うん」
 同じように記憶を失っているからなのだろうか。不安をんでくれているアーサーの言葉が、フィリシアの心にじんわりと染みこんでいく。
 フィリシアの登場で、大広間はざわめきだした。
 何に驚いているのだろう。
 一年前に失踪した娘が本当に帰ってきたことか。
 それとも、一年前とはまったく違う、その別人のような様子にだろうか。
 アーサーは周りの視線に怖気づいた風もなく、威風堂々とフィリシアの手を取り中央へと誘導していく。
 記憶がないなどと本人が言い出さない限り、誰も疑ったりしないだろう。堂に入ったその物腰は、すでに彼の立つべき場所を暗示するかのようだった。
 フィリシアを大広間の中央――開けたその空間に案内してから、アーサーは瞳を細めた。
「傍にいる。心配しないで」
 ささやく声に、フィリシアは小さくうなずいた。
 うつむき加減だった顔を上げる。
 上座の高い位置に、エディウスがいた。ゆったりと椅子にかけ、城下町で見たのとはまるで別人のような暗い影を感じさせている。
 王宮にいるときの彼は、いつもこうだ。どこか陰惨とした雰囲気を漂わせ、青白い顔でそこにある――彼はまるで置き物のようだった。
 フィリシアはエディウスを凝視する。
 何を考えているのかわからない男。これは何のための夜会なのだろう。ただの道楽で開かれたわけではないはずだ。
 ならば、別の意図が――
 そう思った瞬間、前触れなく演奏が始まった。
 その曲は、フィリシアが最も愛したもの。月の光の下で、音のない世界で奏で≠ス、思い出の一曲。
 舞姫が国王に贈った、初めての舞。
「い……」
 血が逆流するような。
(な、に――!?)
 それは、恐怖とも絶望ともつかない、悲しみの音色。
「いやぁあぁ――!!」
 わからない。
 恐怖の意味も、絶望の理由も。
 ただそれは、自らの心のうちに巣喰う闇の部分。決して忘れてはならないはずの、記憶の残像。
 そう、忘れてはならない。でも同時に、思い出してもいけない。
 闇色に塗り替えられた、あの過ちだらけの時間。
「あぁあ……ッ」
 血を吐くような絶叫が、少女の口からほとばしっている。誰もが動けず、呆然と広間の中央、頭を抱えるようにうずくまる少女を見ていた。
「やめろ!!」
 鋭い声が空気を震わせた。
「その曲、二度と弾くな! ――兄上、夜会は終わりです」
 明らかに様子のおかしいフィリシアを好奇の視線から守るように抱きしめて、アーサーがけんを含んだ声で告げる。
 エディウスはそんな光景を、動かぬ表情で眺めていた。
 婚約者の失態。その事実になんの興味もないように。
 彼はただ、弟に守られるように大広間を出て行く婚約者を、茫洋と眺めていた。

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