【2】

「位置について」
 号令に、訓練生たちはいっせいに片膝をついて腰を上げた。
 場所は国内で最大規模を誇る訓練船ルティアナ号の左舷甲板、いつもはドレスで身を飾り立てるエダも、今日は他の訓練生たちと同じ作業着に身を包んで硬くごわつくぞうきんを床に押し当てた。
「用意」
 続く言葉にぐっと足に力を込める。直後、銃声が響き、エダはわっと声を上げて駆け出した仲間たちにぎょっとした。
「走れ走れ!」
 取り残されたエダは、ワグナーにせかされ、両手でしっかりとぞうきんを押さえた。「ぞうきんがけ」をするのは生まれてはじめてだ。しかも「競争」が加わってせっつかされるため妙に焦る。同時に駆け出したはずの仲間たちの姿はずいぶんと遠く、さらにエダを焦らせた。
 早く追いつかなければ、と、りきんで足を踏み込む。その直後、腕がへにゃりと曲がって勢いよく顔から床へ突っ込んだ。
「エ、エダ、無事か……?」
 まったく前進することなくその場に潰れてしまったエダを見て、ワグナーが肩を小刻みに震わせる。よほど情けない格好らしい。
「……ぞうきんがけって高度なのね」
 どうやらコツがあるらしい。ぶつけた額を押さえながら起き上がると、ほぼ同時にワグナーの背後に女教官が仁王立ちした。柳眉をつり上げた美女は肩をいからせ凄まじい形相でワグナーを睨んでいる。
「ワグナー! 号令に実弾使ってんじゃないわよ!」
 鋭い指摘にワグナーははっと後ろを振り返った。
「……ああ、弾入れ替えとくの忘れた」
「始末書提出」
「え、ええー。俺、船長なのに?」
「始末書!」
 女教官がばんばん壁を叩きながら命令すると、ワグナーは肩をすぼめて頷いた。ルティアナ号に乗る女教官は総じてたくましい。基礎体力はどうしても男に劣るが、それを補うほどの行動力と技術、度量を備えている。
「ほら、早く行きなさい」
 手を止め感心しているエダに、女教官は大輪の薔薇のごとき笑みで告げる。美人で頼もしい女性ならさぞもてそうなのだが、実際にはあまりに頼もしすぎて恋愛対象にはならない――と、いう話を思い出した。とくに教官同士は戦友のような感情が芽生え、尊敬はするものの異性としての魅力を感じなくなってしまう。秘密の恋愛を含めるなら、教師と教え子というパターンが多いらしい。
「……あ。ミス・ジーナは女の子にも人気があったはず」
 なるほどああいう女性が魅力的と言われるのか、と納得し、エダはこっそりとその姿を盗み見る。ミスティアとしてルティアナ号に乗っているがいろいろなことに自信のないエダは、ジーナの魅力を解明しようとしたのだ。背が高くて豊満で、けれどもよく鍛えられたしなやかな体。目は大きくて黒く濡れ光り蠱惑的で、鼻は高くやや上向きで若干の愛嬌を醸し出し、唇はふっくらと厚みがあって魅力的だった。髪は柔らかな栗色で豊かに波打ち、女にしては厚みのある肩をうまく隠している。動きはきびきびと無駄がなく、性格はさっぱりとして――。
「ダメだわ。どう頑張っても雲の上の存在だった」
 まさに雲泥の差だ。これっぽっちも共通点がない。小首をかしげるジーナを見て、エダは溜息をついてぞうきんがけを再開した。
 しかし、すぐに邪魔が入る。
「おい、それじゃあ綺麗にならないぞ。もっと力入れろ、力」
 ぞうきんを持って隣に並んだのはロウェンだ。言いながらわざわざ実践してくれる。
「私だってちゃんと力入れてるじゃない!」
「入ってねーよ。へっぴり腰」
「失礼ね!」
 ぷうっと膨れると、反対側にセシルがやってきた。
「一緒に拭こうか?」
「俺も、ちょうど手があいた」
 さらに隣にキースが並ぶ。目を瞬かせてあたりを見渡すと、思った通り、ライハルトとアナシスもいた。ただしアナシスは床拭きをする気はないらしく、ひとり呑気に窓ガラスを磨いている。
「ロウェン、言うほど綺麗になってないぞ」
 近づいてきたライハルトが床をしげしげ見つめながら言うと、ロウェンは口元を引きつらせて床を叩いた。
「じゃあお前が手本を見せろ」
「……私が?」
「ああ。やってみろ」
「残念だ。今日は監督だから、ロウェンがしっかり働くように見守るのが私の仕事だ」
「……!!」
「思う存分床を磨け、ロウェン。見守ってやるから」
 微笑んだライハルトは小首をかしげている。いつも通り優雅な仕草は、高低差のためか妙に偉そうに見えた。
「ちなみにこれは足腰を鍛えるのにも役立つ。サボってないで全力で取り組め」
「そうだぞ、ロウェン。床に這いつくばるなんてこんな時以外経験できないんだ。現状を楽しみたまえ!」
 ライハルトの言葉にかぶせるように、さらにもう一人近づく影がある。
 嬉々として床を磨くのはクラークだ。
「現状を楽しめって」
「僕が丹精込めて磨いた床が日々踏みにじられるんだ。考えただけでゾクゾクするだろ!」
「いや、だから、なんでお前の発想はいつもそっちに行くんだ。っていうか、最近周りの視線が痛いから、ちょっと自制してくれないか。弟のためにも」
「ロウェンばかり痛い目に合うなんてずるいじゃないか!」
「だからそっちじゃねえって!」
 本気で不満を訴えるクラークに、ロウェンも本気で怒鳴っている。編入した時に強烈な印象を与えたクラークは、「変な人」から「変態」へと格上げされ、最近では遠巻きに訓練生たちに観察されている。弟であるロウェンにもおかしな性癖があるのではないかと疑う者もいて、どうやらいろいろ迷惑しているらしい。
「俺、こんなことで有名になりたくねえな」
 いじけたロウェンはぼそぼそ呟いて床の一点を磨いている。エダは思わず微苦笑し、海鳥の声に誘われるように顔を上げた。
 澄んだ空はどこまでも青く伸びやかで、見ているだけで心が満たされていく。
 ふっと脳裏に浮かんだのは、屋敷の者たちの顔だった。天気のいい日は窓を開け、いっせいに風を通すのが恒例だった。きっと今頃屋敷の窓が開け放たれていることだろう。
「パティは元気かしら」
 明るい侍女の顔を思い出し、エダは笑みを浮かべる。お嬢様、そう呼びかける彼女の声が聞こえるような気がした。


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