【3】

 窓を閉めて部屋を出たパティは、その足で使用人たちが集まる大部屋へと移動した。使用人用の部屋はいくつか用意されているが、大部屋は団らん以外に重要な目的を持つ部屋である。
「あ、シュガール! エダお嬢様のお部屋の座椅子、張り替えをお願いしたいの!」
 部屋に着く手前、大きな人影が見えた。前をのそのそ歩く巨漢に声をかけると、巨漢は足を止めてのっそりと振り返る。真っ白な頭髪に真っ黒なヒゲ、いつも愛用の帽子を胸に押し当てている彼は、雑用全般を一手に引き受ける雑用長である。
「エダお嬢様の?」
「ええ。化粧台の椅子。もうずいぶん古いでしょ? 生地がボロボロなのよ」
 言うとシュガールは思案げに視線をめぐらせ、すぐに「ああ」と頷いた。
「買い替えなくてもいいのか?」
「お嬢様のお気に入りのお品だから、ないと寂しがられるわ」
「そうか」
 シュガールはもう一度頷く。そして考えるように間を開け、
「今日か?」と、尋ねてきた。
「うん。今日」
「……そうか」
 なんとも言えない表情で言って、大きな手でぽんぽんとパティの肩を叩いた。しっかりな、と言われている気がして、パティは満面に笑みを浮かべた。
 そして、シュガールに続いて大部屋に入った。
「カーバン・ラグレン、シンシア・ジェンダ、フォスター・リューク……」
 落ち着いた声が使用人たちの名を次々と読み上げ、前に出た彼らに袋を渡していく。使用人たちは袋を受け取ると首を傾け、すぐに中身を確認して奇妙な顔になった。
 その様子に、まさか、と思う。
 一ヶ月前にも目にした光景だ。馬番から料理人、雑用係、庭師、侍女、執事と集まっているが、誰も彼もが思い当たって苦笑いしている。
 パティも名を呼ばれて前に進み出て、執事のジョナサンから袋を受け取った。横にどくなり封をあけ、やっぱり、と声を漏らす。
「ジョナサン、足りてないぞ!」
 庭師のバロンが声を張り上げると、ジョナサンがびっくりしたように顔を上げて部屋中を見渡した。困惑した表情だ。
「そんなはずは……」
「いや、足りない。半額とは言わないが、かなり足りない」
「数字に弱い執事ってのも、珍しいねえ」
「ジョナサンは昔から数字に弱かっただろ」
「そうなのかい? ずっとちゃあんとお手当てくれてたじゃないか」
「あれはエダお嬢様が計算してたんだよ」
 さざ波のようなざわめきが、あっという間に大洪水だ。
「ああ、エダお嬢様か」
 と、誰かが頷いた。
「だから給料日の前は真剣な顔で明細と睨めっこしてたのか」
「ジョナサンの手際があんまり悪いものだから、見かねて手伝ってたらしいって」
「妙だと思ったぜ。ジョナサンが旦那様の言いつけでノーゼンバーグに行ったなんて」
「給料計算のためか――!!」
 ここまで見事に間違った数字をはじき出すと変に説得力がある。なるほどなるほどと納得する一同は、すっかりその結論に落ち着いてしまったらしい。
「だ、断じて違います。私はエダお嬢様を心配して……」
「どうだかなあ。ジョナサンはどうも情熱って奴が感じられねえ」
 沈着冷静を旨とする執事が珍しく慌てる姿が面白かったのか、部屋の片隅からからかう声が聞こえてきた。執事は基本、主人の片腕である。決して主人より目立つことはせず、けれども常に一歩先を考えて主人に尽くし、時に助言や忠告をするよき補佐役の立場だ。通常の使用人とは性質が違い一目を置かれる。しかしカルマン家では、その垣根がわりあいに低かった。敬意は払うが特別扱いはせず、その代わり、仲間として迎え入れるようになっていた。
「お嬢様に計算を任せたら完璧だしな」
「やっぱりそのためか」
「違います」
 頷き合う使用人たちにパティはきっぱりと言い放った。いっせいに向けられた視線に、
「だってジョナサンは、お嬢様の写真を持ち歩いてるんですよ」
 と熱く語って聞かせる。
「ノーゼンバーグで尋ね人の貼り紙を作るとき、ジョナサンが写真を持ってたからすぐに作業に取り掛かれたんです。それだけじゃありません。ジョナサンは旦那様の写真も奥様の写真もお嬢様の写真もお坊ちゃまの写真も、つねに携帯してらっしゃいます!」
 拳を握って断言すると、部屋がしんと静まり返った。これほど主人を大切にしている執事はいないだろう、そう伝えたかったパティは、周りの反応が微妙であることに首をかしげた。
「……そうか。全員、つねに携帯、か」
「すまん、ジョナサン。そこまでだとは」
「人は見かけによらないねえ」
「熱烈だな」
 硬直するジョナサンに次々と声がかけられ、その様子を見ていたパティはようやく失言に気づく。家族写真ならともかく、主人とその家族の写真を大切に持って歩くというのはちょっと特殊な部類らしい。青くなって胸中で謝罪の言葉を繰り返していると、ふとジョナサンが顔をあげ、奇妙な表情になり、すぐに苦笑した。それから気にしていないとでもいうようにゆっくりと首を振る。
「計算しなおしますので、金額が不足していると思われた方は給料袋をいったん返してください」
 彼がそう呼びかけると、使用人たちはいっせいに袋を持って彼のもとへ向かった。パティも皆と同じように袋を返し、視線を感じて足を止める。
「今日で、最後だったか」
「はい。長いあいだ、お世話になりました」
「……女工として働くと」
「親にはもう少しこちらで働かせてもらえと言われたんですが……今行かないと、エダお嬢様がお帰りになったとき、入れ違いになってしまいますから」
 国民には五年の奉公が義務付けられ、エダはすでに訓練校に入っている。奉公の期間が明けてもそのまま軍に残る者もいるが、エダは五年たったら帰ってくるに違いないのだ。できるだけ奉公の期間を合わせ、少しでも早く仕えたい、というのがパティの願いだった。
「しかし、奉公先がランバラックというのは……あまり、賛成いたしかねます」
 ランバラックはティネーゼ運河から程近い。大陸を二分する大河周辺は戦闘区域に指定され、非常に治安が悪かった。ランバラックは戦闘区域ではないが、平原を越え、町を二つ通過すれば銃弾の飛び交う戦地となる。
「クーバーで防衛線が張られてるから、ランバラックまで戦場になることはないって軍人さんが言ってました。ランバラックは軍事工場もあるし、どんなことがあっても死守すると。だからぜひ来てくれって」
「……あのあたりは物資も支給のはず。窮屈ですよ」
「はい。でも、ランバラックには港があります」
 まっすぐに答えると、ジョナサンは目を見開く。ランバラックはエダが乗ったルティアナ号の定期航路、その最終目的地にあたる。三年生はそこで卒業し、残る三つの港で新入生を乗せ、本部のあるノーゼンバーグに向かうのだ。
「うまくいったらエダお嬢様にお会いして、ライハルト様の卒業式にも立ち会えるかも、です」
 胸を張って宣言したパティに、ジョナサンは驚きで歪むその顔を柔らかな苦笑で覆った。
「たくましいな」
「ありがとうございます」
「……エダお嬢様から届いた手紙は? 転送の手続きをするなら新しい住所を」
「いえ。こちらで預かっておいてください」
 パティはきっぱりと返す。治安はいいと言っていたが、ここからランバラックまでは約四十日の陸の旅――無事に届く保証がなかった。大切なものだから届けてほしいという願い以上に、紛失することを恐れたのだ。
 それに、ここに心残りがある限り、誓いも立てやすい。
「必ず帰ってきます。それまで、よろしくお願いします」
「……わかりました」
 工場が襲われるという話がある。大勢の女工が死んだという話もある。パティには遠い話で実感がなかったのだけれど、今はなにより身近な話になっていた。
 戦地でなくとも死地になる。
 しかし、もう進む道は決めた。
 望む道と求める場所は同じだったから、これといって迷わなかった。
「気をつけて行ってきなさい」
「はい」
「……これで終われると格好がついたんだが」
 困ったようにジョナサンは給料袋を見る。中身が不足しているため、パティはまだ帰れないのだ。
「いえいえ」
 パティは笑って首を横に振った。給料日にはみんなが集まる。彼らを一人ずつ見送るというのも悪くない。
「頑張って行ってきなよ、パティ」
「五年後にな」
「体に気をつけて」
「変な男に引っかかるんじゃないよ!」
 給料を正しく受け取った幾人かは、パティに明るく声をかけて部屋から出て行く。それから、数字に強く口の硬い者が数人別室へ移動し、給料の再計算に入った。再計算は意外にスムーズに進み、パティは給料袋を手にした使用人一人一人と言葉を交わして別れを惜しんだ。
 そして全員が部屋を出た後、改めてジョナサンに袋を手渡される。
「お疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
 ジョナサンとはエダの一件でぎくしゃくしてしまった時期もあったが、言葉を重ね、ちゃんと和解することができた。今ではそれが素直に嬉しい。
 パティはドアに向き直る。
 居心地のいい空間、気の合う仲間たち――それらと別れ、一歩、前へ。
「それでは、行ってきます」
 パティ・レイモンドは高らかに宣言した。

=了=

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