イナキとダリア   〜魔王様の恋人 閑話その四〜
 
     【前編】

 イナキは自室で手元の抱き枕をいじくり回していた。
「……大人のおもちゃじゃないだけまし……」
 自分の言葉に深く深く落ち込んで、彼は腰掛けていたベッドに寝転んだ。
 人がたと呼ばれる形状の抱き枕は、ずいぶん奇妙な曲線を描いている。それを眺めながらイナキは大きく溜め息をついた。
「どうした?」
 不意にかけられた声に、イナキは視線を移動させる。
 なぜかいつもドアを使わないダリアは、物珍しそうにイナキの持つ抱き枕を見詰めていた。
 座標固定と呼ばれる移動術は便利かもしれないが、人の部屋に入るときにはノックくらいするのが礼儀だろう。
 そう思ったが注意するほどの気力は残っていなかった。
 バイトから帰ってきた姉のなぎさの一言と、渡された抱き枕。
 返す言葉もなく絶句して、彼は姉から抱き枕を受け取った。
 どうして姉が二人の関係を知っているのかというのはこの際問題じゃない。着眼すべき点は、付き合っているのがばれていることであり、そして姉によからぬ心配をさせてしまっているという事実。
「……どうして」
 あの発想に至ったんだと、イナキは半ば呆れながら考える。いくらなんでも飛躍しすぎだ。
 十二歳の子供を掴まえて父親になるのはまだ早いなんて、わかりきったことをわざわざ忠告してくるなど――。
「やめよう」
 ボソッと、イナキは小さく呟いた。
 忠告したのは、忠告する必要があるとなぎさが判断したからだ。
 それでなくても苦労性の姉にはあまり心配をかけたくはない。能天気そうに見える彼女には時として苛立ちを覚える事もあるが、それ以上に色々な面で感謝することが多い。
 沈みがちな家族にとって、彼女の明るさは救いだったのだから。
「……イナキ?」
 問いかけながら近づいてくるダリアに、イナキは体を起こして抱き枕をさしだした。
「なんだ?」
 受け取ったクリーム色の抱き枕をフニフニいじくって、ダリアがわずかに微笑んだ。
「気持ちがいいな、これは」
「超極小ビーズ入り、ボディーピロー」
「……ボディーピロー」
「抱き枕。姉さんからもらったけど、使う?」
 抱き枕のはしを軽く左右に引っぱっていたダリアの動きが止まる。
「いいのか? なぎさからのプレゼントだろ?」
「……オレより先生のほうが必要だと思う」
 襲うより襲われそうな気がしてならないから事前に手をうっておくことにして、詳細を告げずにイナキはそう口にする。
 本当に出会いが早すぎたんだと思わずにはいられない。
 抱き枕の触り心地が気に入ったらしいダリアを眺めながら嘆息する。静かにしていれば美人だし、実はけっこう可愛い一面を持っているのだが――
「これはどうやって使うんだ?」
 いろんな所で微妙に常識が欠落しているのが悩みの種だ。
「寝るときに抱くんだよ」
「抱くとどうなる?」
「………安心する」
 それは本来の使い方で、なぎさの意図するものではない。しかし、ここは素直に普通の使い方をダリアに教えておいたほうがいいとイナキは判断した。
「イナキ」
「ん?」
「抱き合うなら生身がいいと思う」
「却下」
 爽やかに提案してきたので同じように爽やかに拒否したら、ダリアの顔が実に残念そうに歪んでいた。
 いったい何を考えているやら。
 あえて問いかけはしないが、その心のうちは手に取るようにわかる。
 今のイナキにとって、それが不快ではないことが一番の問題だった。
「――先生」
 なぎさがいろいろ知っていることを、ダリアは気付いているのだろうか。
 不意にその疑問が浮かび、ぐにぐに抱き枕をいじっている美女に少年は視線を向けた。
「オレたちのこと、姉さん気付いてるみたいなんだけど」
 あえて言葉少なく言うと、その瞬間、ダリアの表情が凍りついた。
 なんだろう、この異様なまでの大げさな反応は。
 刹那にそう考え眉根を寄せる。
 まるでなぎさに関係がばれていたことを知っていたかのような――
「……先生」
「夕飯の支度があった!」
 ダリアは、どうやら気に入ったらしい抱き枕を小脇に抱えたまま慌ててドアに向かう。
「ダリア」
 その背に少し強い口調で言葉を投げると、彼女はぴたりと動きを止めてそろそろと振り返った。
 魔界の王様にしてはひどく頼りないその動きに苦笑しそうになり、イナキは小さく咳払いをする。
「いつから気付いてたの?」
「……確信はない」
 そう濁してダリアがうつむいた。
 確信はないということは、それを判断するための時間が彼女にはあったということだ。自分のことにかまけてばかりいて、重要な点を見落としていた事にいまさらながらに気付かされる。
 長く一緒にいる家族のほうがさとい場合だってあるのだ。とくになぎさは傾きかけた会社を立て直すために奔走していた両親に代わり、ずっと長いこと家族の面倒をみてきた。
 家族の様々な変化に敏感にもなるだろう。
 そして、二人の関係はまだなぎさの胸のうちに留められているらしい。
 血相を変えて両親が帰ってこないところを見るとそう判断できる。少なくとも、なぎさは二人の関係に心配はしているが反対はしていないのだ。
「じゃあ、黙ってたおしおき」
 強く意見を言わなかったのは、なぎさがイナキを信用してくれてのこと。
 彼女にこれ以上の心配をかけないように――そして、ダリアを抑制する意味も含めて、イナキはにっこり微笑みながら不安そうに見詰めてくる恋人にむかって言葉を続けた。
「手の届く位置に近付くな」
 ひくりと、目の前の美しい顔が引きつった。
 それはつまり、触れるなということで。
「イナキ――!!」
 顔面蒼白でダリアは悲鳴のような声をあげる。
 しかし、未来の夫にむかって隠し事するほうが悪いと一人頷いて、なんだかさっぱり意味のわからない言い訳を並べ始めた魔王様を、少年は溜め息とともに見詰めていた。

閑話その三  Top  【後編】