武蔵家大蔵大臣手記   〜魔王様の恋人 閑話その三〜
 
     【後編】

 なぎさは今年で二十歳になる。大学に行くことを望んでいた彼女はもろもろの事情により、バイトと家事に追われる生活を余儀なくされた。
 別にそれは苦痛ではない。
 ただ、正社員だとよかったのにと、待遇の違いから思うぐらいで。
「あんた本当、馬鹿ってゆーか真面目ってゆーか」
 溜め息混じりにそう言った友人は、中学校からの付き合いがある。
「ぱぱっと切り替えて、自分のやりたいようにやればいいのにね〜」
 その隣に腰掛けた小柄な彼女は高校で知り合った。ともに親友と呼べる、悩み事を素直に打ち明けられる大切な相手だ。
「わたし、今年留学するんだ」
 フワフワと栗色の髪を揺らして、小柄な彼女――香子こうこが笑う。
「向こうでカッコいい人に一目惚れされて、プロポーズされたらどうしよう! お嬢さん、一緒に夜明けのコーヒー飲みませんかとか!」
「……あんたどこの馬鹿娘よ」
「なんでぇ!! 由夜ゆやちゃん夢ないよ!」
「はいはい、夢ないよ〜」
 おかしなノリで会話をする二人を見て、なぎさがふっと笑顔になった。香子と由夜を見ていると楽しい気分になる。
 高校のころはいつも一緒だった親友二人は同じ大学に通っている。話題やそのテンポも、今のなぎさとはちょっとずつずれている。
 これからもどんどん離れていくのかと思うと寂しくもあるが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「それで、相談事?」
 不意に由夜が視線をむけてきて、なぎさは思わず姿勢を正した。
「相談って言うか……」
「相談だよね? バイト先にまで呼び出したんだから、焦ってるよね?」
 香子が可愛らしく小首を傾げて断言する。
 付き合いが長いだけあって、本当によくわかってくれている――が、今回に限っては気付いてくれなくてもよかったのに、という思いがあった。
 バイトに出るまえに見てしまった光景があまりにショッキングで、誰かに相談したくて親友二人を呼び出してしまったのだ。
 バイトの休憩時間は三十分。店長の好意で店の隅のテーブルを使わせてもらっているが、目にした光景をそのまま口にしていいものか迷っている。
 なぎさが働く店はパン屋である。
 毎朝焼きたてのパンを宅配したり、店内では創意工夫を凝らしたオリジナルの菓子パンや食パンを並べている。
 店内は広めで、買ったパンをそこで食べるためにテーブルも用意されているし、淹れるのはコーヒー通の店長が豆から厳選してブレンドまで口を出したというこだわりの逸品だ。
 最近は近所の奥様方にも人気で店はそれなりに繁盛している。
 ただ、時刻は四時三十分。客足は少なく、三人の声はよく響いた。
「え〜っと、知り合いの話なんだけど」
「……知り合い」
「ふ〜ん、知り合い」
 なぎさの言葉に、親友たちは意味深に頷いた。
 この出だしの話は知り合いではなく当事者の場合が多い。それを踏まえた上でのあいづちに、なんだか居たたまれなくなって視線をテーブルに落とした。
「その、弟がいて」
「……うん」
 嫌な間合いで頷いてくれる。兄弟は多いが、弟と言えば翼かイナキしかいないのだ。きっと二人の頭の中には二つの顔が交差しているだろう。
「付き合ってる人がいるみたいなんだけど」
「……なに心配してるの、なぎさ。小学生なんて手ぇ繋いで帰るぐらいでしょ」
「でもイナキ君だっけ? 結構大人びてるし、キスくらいしてるんじゃないの?」
「あたしあの子マセてて嫌い」
「え!? 私タイプだよ!」
 目の前で繰り広げられる言葉に、なぎさは唖然とした。
 知り合いの話と断ったはずで、弟と言ったがそれ以上の言葉はなかったはずで、おかしな態度もとっていないはずなのに――
 完全にばれている。
 しかも断言されている。
「待って! イナキちゃんの話しだなんて言ってないよ!」
「違うの?」
「うぁ」
 由夜に問われ、思い切りうろたえてしまった。
 イナキの話だ。ついさっき見てしまった光景はお遊びのキスではなくて、どちらかが強要して仕方なく至った行為でもなく――むしろ、それは恋人同士のごく自然なふれあいの形だった。
 だがしかし、年齢や立場に問題がある。
 以前からなんだか怪しいと思っていた。それは去来する記憶の波が、失った過去を何度も彼女にだけ運び続けたすえに出た結果だった。
「そのね、恋人って言うのは……命の恩人で、ちょっと普通とは違ってて」
 混乱しながら、なぎさは言葉を探す。
 不思議な力を持っている綺麗な女性。
 彼女は劫火の中で言ったのだ。
「未来にイナキをもらっていくよ」
 と。
 男も女も、その年齢や地位さえ関係なくすべての者を魅了する美しい人は、染み入るような穏やかな声でそう囁いた。
 イナキが、大切な人なのだと。
 真摯なその言葉は不思議なくらいすんなり受けとめる事ができた。
 けれどそのときの記憶はまるで霞がかかったかのようにおぼろげだった。
 その場に居合わせた家族はおぼろげどころか何も覚えておらず、なぎさだけがキツネにつままれたような状態で頭を抱えていた。
 そして、記憶の去来が始まる。
 轟々と燃え盛る壁が次々と崩れ落ち、出口を探すことすらあきらめて互いの身を寄せ合って黒煙と熱気に耐えていた絶望の時間。
 あの時目の前にちらついていたのは、紛れもなく死の予兆だった。
 その恐怖のさなかに突然現れたダリアはまるで女神のようだった。しかし、彼女が語った言葉、そして一瞬にして燃え盛る家屋から外に移動した魔法のようなものは皆の記憶から忘却されていた。
 だが総ての記憶は時間をかけ、なぎさにだけは戻っていた。
 だから、イナキとダリアの関係は生徒と教師の枠を外れていることを、すんなりという訳にはいかないが、なんとか理解していたのだ。
 しかし、まさかあそこまで進んでいるとは思わなかった。
 まだまだ子供のクセに、キスまでしているなんて想像の範疇を越えていたのだ。
 しかもダリアはそれを受けている。幸せそうな顔をして子供からの口付けを。
「別に問題ないでしょ?」
 由夜が困り果てているなぎさに溜め息混じりにそう返した。
「でもでも〜!」
「周りがなんか言っても動かされるようには見えないよ、あのガキ」
「しっかりしてそうだし、見守ってあげるのが一番でしょ」
「でも〜!」
 由夜の言葉を香子が継ぐと、なぎさは思わず声をあげる。あの美貌と見事な肢体に迫られたら、どんなに理性的な男だってあっという間に陥落しそうな気がするのだ。
 しかもイナキはまだ子供で、女性に対する免疫なんてからっきし無いに等しい。
 傍観するにはリスクが高すぎる。
「そうそう。いざと言うときにビシッと言ってあげるのが親の務め」
「由夜ちゃん、私イナキちゃんのお母さんじゃないよ」
 とっさに返して、なぎさは項垂れた。
 これじゃあ弟のことを相談していると告白しているようなものだ。もう言い訳する気力も失せそうだった。
「あんたが心配することないって。大げさなんだから」
 大げさですめばいいが、たぶん危惧に終わることはないだろう。
 小学校での「不審者乱入事件」でマイクで思い切り叫んでいたのは、どう聞いたってイナキの声だった。
 どんなに割れていても、大切な家族の声を聞き間違えるわけがない。
 あれ以来、二人の行動はなんだか確実にエスカレートしている気がしてならないのは、もう絶対に気のせいというレベルではなかった。
「イナキちゃんが不良になってく……」
 どころか、近々お父さんになったらどうしようとか、思考がどんどん危険な方向に転がっている。
「考えすぎ考えすぎ」
 香子が苦笑してオレンジジュースのストローを大きくまわした。
「だって、美人でグラマーで、カッコいいのに可愛くて、もうイナキちゃん絶対絶対大好きだと思うの!」
「……弟の彼女、いったいいくつよ?」
「う……」
 答えにくい質問に、なぎさの顔が引きつた。
 この年の差は、イナキが義務教育の途中であるという理由からも最大級の秘密だ。
「いやそれは……」
 オロオロ言葉を探していると、目の前に焼きたての蒸しパンが三つ乗ったお皿が静かに置かれた。
 ナイスなタイミングに顔を上げると、そこには新人のパートさんの青白い顔があった。
「あ、朝霧さん!」
「店長からです」
 物静かな年上のパートのオバサンは、そう言ってわずかに笑顔をむけた。年上だからと威張ったりせず、謙虚に素直に言われたことを実践してくれる彼女になぎさは好感を抱いている。
 いいパートが入ってくれたと店長の顔もよくほころぶ。彼女がもう少し笑ってくれればいいのにと、ちょっと残念そうに続けながら。
「あ、休憩時間!」
 予定の三十分をゆうに越していることに気付き、なぎさは慌てて立ち上がった。
「今日は特別に長めでいいって店長からの差し入れです」
 彼女はそう言って蒸しパンを見た。
「でも、朝霧さん……」
「私は後からもらいますから」
 小さく会釈して、小柄な彼女はその場から離れていった。
 風が吹いたら飛んでいってしまいそうな線の細い女性だ。その後ろ姿に小さく頭を下げると、
「暗いオバサン」
 ストレートな意見を由夜が口にした。
「いい人だよ」
 助け舟も出してくれたし、よく気がつくし、仕事はしっかりするし無断欠勤もないし遅刻もしない。
 あとは愛想があれば完璧なのにと、なぎさは気の毒に思いながら友人に向き直った。
「娘さんがいて、とついじゃって寂しくなったんだって」
「……いい事じゃない」
 確かに結婚はおめでたいことだが、彼女にとってはそうではなかったらしい。
「よく知らないんだけど。十六歳で結婚したって言うんだよね」
「……できちゃったか」
「や、そうじゃなくて。わかんないけど、遠くに行って会いには行けなくて、落ち込んじゃってるって話」
「ふ〜ん? でも私、結婚したい〜! 国際結婚〜!」
「はいはい。あんたは勉強したいか恋愛したいか、どっちかに決めてから行きなさいよ」
 元気な香子の言葉に、由夜が呆れたように笑いながら蒸しパンに手をのばした。
「結婚かぁ」
 しみじみと呟いてしまう。同級生の何人かはすでに結婚したり子供ができたりと大騒ぎだ。家にいる最大の問題児がその話題を切り出すのはいつだろうと、両親の困惑ぶりを想像して苦笑いしてしまう。
「なぎさはどうなの?」
「ん?」
 蒸しパンに向かって大きな口を開いた瞬間、由夜がそう聞いてきた。
 なぎさは口を開けたままの間抜けな格好でぴたりと止まった。
「坂田君と別れたっきり?」
 高校のころに付き合っていた相手の名を挙げられ、顔の筋肉がこわばった。
「自然消滅もったいない」
 香子が蒸しパンにかじりつきながらそう漏らす。
「だって、忙しかったんだもん」
 高校のころからバイトに明け暮れ、家事に追われ、恋愛なんて二の次で。付き合った彼とは三ヶ月で自然消滅――いやでも、これはこれで結構長くもったと思う。
 なぎさは一人で納得する。
「まぁその内に」
 家のことが片付いてからゆっくり考えようと、なぎさは心の中で続けた。
 今はどう転がってもおかしくない一つの恋をちゃんと成就させてやりたい。まっすぐで一途なダリアも、まるで家族のように大切だと思えるから。
 そしてバイトの帰り道、なぎさはちょっと大きな長細いぬいぐるみを買った。
 それは一般で言うところの抱き枕というヤツで、にっこり笑いながら、なぎさはそれをイナキにプレゼントした。
「まだお父さんになるのは早いから、寂しくなったらこれ抱いてね」
 その言葉を聞いた瞬間のイナキの顔は、たぶん一生忘れられないと思う。

=NG?=

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