執事の考察記録   〜魔王様の恋人 閑話その一〜

     【後編】

 不意に足元の影が濃くなり、ヴェルモンダールは瞳を細めた。
「状況は?」
 近くに人の気配がないことを確認し、彼は己の影に低く問いかける。
「情報を操作した痕跡は見られませんが、まず間違いないかと。幾つか不明瞭な点が見付かりましたので現在捜査中です。術者が何人か失踪していた事件も、先の件が関係していると思われます」
「そうか。ご苦労だったな」
 短く言葉をかけると影の内側でうごめいていた気配がぴたりと止まった。
 魔界へ帰ったらしい。
 ヴェルモンダールは小さく溜め息をついて、手にしていたほうきを握りなおした。
 彼は今、武蔵家の前の道路にほうき片手に立っている。まばらに落ちているゴミをチリトリの中に押し込み、隣家の前にもゴミがあることに気付いて軽快な足取りで向かった。
 家の前の道路を掃除する時は隣の家の前も綺麗にするのだと、なぎさが笑顔でヴェルモンダールに告げた。
 一見無駄なような行動だが、これがなかなかそうではない。
 何かの拍子にお隣さんのゴミがこちらに来るとも限らないし、ほうきとチリトリを手にしているなら、一緒に掃除をしたほうが無駄がないうえに見た目が綺麗になって気分がいい。
 そして。
「あら、ヴェルさん……いつもすみません」
 背の低い塀越しに、お隣の若奥さんがヴェルモンダールに声をかけてきた。
「いえいえ、ついでですよ」
 にこやかに答えると、彼女は笑顔を返してきた。
 他人に感謝されるのもなかなか悪くない。
 魔界にいた頃は自分が最優先で、次に考えたのは部下のこと。魔界が落ち着いてからはそれに魔界の平定が加わったのだが、今のように些細なことで喜んでいられるほど心にゆとりはなかった。
 まだ安定することのない平和は小さな波紋で大きく揺れる。
 何百年も続いた乱世は長く空席だった魔界の王を決めるための戦いだった。前王が討たれてから魔城は他者を拒み続け、ヴェルモンダールが並み居る魔将軍たちを力と智謀で押さえつけてその頂点に立った時、魔城の門はようやく沈黙を守ることをやめた。
 魔城の奥にひっそりと存在し続けた扉を開いたとき、彼は何百年も他者を寄せ付けなかったにもかかわらず、塵一つなく驚くほど澄んだ輝きを宿す水晶を見つけた。
 未来を指し示す物だと言われる水晶。
 はるか昔、神と呼ばれる者から受け取ったと言われる神託≠伝えるための神器。
 悪魔が神の言葉を信じるなどあまりにもばかばかしいと鼻でせせら笑う者が大半を占める中、ヴェルモンダールだけはその水晶の映し出す未来を信じた。
 いや、信じたいと思った。
 水晶が気紛れに見せる光景は、時に過去さえ鮮明に映し出していたのだ。
 その中には彼の姿もあり、失った仲間の姿もあった。
 そして、時折見え隠れする未来は――
 ヴェルモンダールはふと笑んで、目の前の女性と軽く挨拶を交わしてその場を離れた。
 空気の質が少し変わる。
 あまり強そうには見えないし、どちらかというなら道化のイメージが強い男ではあるが、魔将軍と名乗っている以上それなりの力を内在させているのだろう。
 魔界の情報を鮮やかに操り、知略戦を得意とするヴェルモンダールをはめたその手腕は一目をおく必要がある。
 ヴェルモンダールは神経を張り巡らせた。
 近くにいる人間は六名――その一人一人に、意図して気を放ち、遠くへ行くように促す。気を受けた人間たちはいっせいに顔をあげ、首を傾げながらもその場を離れていく。
 時々ひどく鈍い人間がいるが、だいたいはこの警告でその場を去ってくれていた。
 ヴェルモンダールはゆっくりとほうきとチリトリを壁ぎわに置き、前方を見た。
「ヴェルモンダール殿」
 黒々とした髭を揺らしながら、細身で皺だらけの男が近付いてきた。
 悪びれないその表情にヴェルモンダールの顔が引き締まる。
「警察はいかがでした、セリゼウス殿」
 セリゼウスに嫌味を言うと、天然なのかとぼけているのか、彼は大きくひとつ頷いた。
「部屋も食事もなかなか悪くはなかったですな。対応した人間どもは気に入りませんが」
「……左様で」
 二度も小学校に押し入り、そのうちの一回は少年の声色を使って女教師を誘い出そうとした変質者≠フレッテルを貼られてしまったのである。
 イナキのもとに警察が来なかったところを見るとセリゼウスは真実を語らなかったのだろう。もしくは、その場に彼しかいなかったことを教師たちが確認しているだろうから、彼の言葉を信用しなかったか。
 どちらにせよ取り残されたセリゼウスが見事に濡れ衣を着せられた形になっている。人間界での常識が欠落しているセリゼウスは別段そのことを気にした様子もなく、ただその扱いの悪さに腹を立てているようだ。
 常識を知らないのは不便だが、こういう場合は役に立つ。
 ヴェルモンダールは彼の言葉を軽く流すことにした。
 悪魔の本質は基本的に三つある。
 戦いを好み己の力のみで生き残る肉体派と、奸計かんけいを得意とし頂点を極めようとする頭脳派。そして、そのどちらも持ち合わせずに他者に依存して命を繋ぐ者。
 ヴェルモンダールは例外的に肉体と頭脳の双方を極めて魔将軍たちの頂点に立ったのだが、セリゼウスは間違いなく智謀知略で世を渡るタイプである。
 そして力で渡り歩くことができない悪魔の多くは、力を必要としない時代を築くことに躍起になっている。
 魔界平定は、魔界のためではなく自身の安全のためなのだ。
 もしセリゼウスが、安全と地位を手にする事だけを目的に魔界に流れる情報を混乱させ、そしてイナキのいる人間界に残ることを切望しているダリアを無理やり魔界に連れ戻そうとしたのであれば、見逃すわけにはいかない。
 しかも、高名な術者が数名失踪しているという。
 詳細はいまだに闇の中だが、その意図するものはわかる。
 術者を集めれば、巨大な結界と強力な魔力でダリアが魔界へ戻った後、半永久的に界と界を塞ぐことも可能だった。
 己の保身ゆえにそれを強行することは十分考えられる。
 それでどれほどダリアが悲しむかなど、目の前の男は考えもしないだろう。
 ふっとヴェルモンダールは冷酷な笑みを刻んだ。
 魔城の奥、神より託された水晶が映し出した未来――
 そこにはダリアがいた。
 洗練された美貌で魔将軍たちを統率し、魔王の椅子に腰を据える美しき支配者。
 その次にヴェルモンダールが見たのは、鮮麗な笑顔とは違い、ただ全身で幸せを表すように微笑むダリアとその彼女を見守る若い男。
 次に、見たものは。
「――セリゼウス殿、貴方は軽率すぎる」
 ヴェルモンダールは嘲笑に似た笑みを向けながら低く囁いた。
 水晶が見せた未来の一部は、すでにダリアに伝えてある。だが、真に伝えねばならないことはまだ彼の胸のうちにのみ留められている。
 あの未来をこの男はおろかにも砕こうとしたのだ。
「あまりにも、軽率すぎる」
 近付きながらそう告げると、セリゼウスが狼狽した。
それがしのどこが軽率であると――」
 そう口を開いた男の耳に、ヴェルモンダールは小さな言葉を投げた。
 セリゼウスの目が大きく見開かれる。
 驚きと動揺を示すそれを見詰め、ヴェルモンダールは満足げに口元を引き上げる。
「貴様ごときに邪魔はさせない。ダリア様の望む未来が私の望む未来」
「そんな……バカな話が……」
 震える声で、セリゼウスが呟く。
 ヴェルモンダールは二歩後退し、そんな彼を冷めた目で見詰めた。
「信じるも信じぬも貴方の自由だ。次に歯向かうのであれば、私も容赦しかねる――それは、覚悟していただきたい」
「あれは飾りだ! たかが飾りに何ができようか!?」
 青ざめたまま声を荒げる魔将軍に、ヴェルモンダールは小さく溜め息をついた。
 己の情報が完璧であると自負し、それにすがってのみ生き続ける愚かなる命。情報を操作することが得意であるにもかかわらず、自らのそれが間違いでないと思い込んでしまうのがこの男の欠点なのだろう。
「たかがではない。――どうやら何を言っても無駄なようだな。フェン、セリゼウス殿を魔界へお連れしろ」
「御意に」
 言葉と同時に、セリゼウスの足元にあったヴェルモンダールの影が波打った。
 先刻とは異なる気配が生まれ、影の一部が盛り上がる。
「な……!?」
 その影から逃げようとセリゼウスが足を上げた瞬間、巨大な手が影から次々と伸びてきて一瞬にして男の体を覆いつくした。
 もがく事もなく闇色に染まった男は、ヴェルモンダールの影に引きずりこまれ瞬く間に姿を消す。
 男を呑み込んでから大きくひとつ波打った影を見詰め、ヴェルモンダールは瞳を細めた。
「ふむ。しばらく身動き取れないように拘束させておけばよかったか」
 冷徹な空気を消し、ヴェルモンダールはどこかのんびりと口を開いて武蔵家を見た。セリゼウスがまた凝りもせず人間界に来て悪さをする可能性がある。
「その時は、命を代償にしていただこう」
 彼に学習能力が備わっているかを少しだけ考え、ヴェルモンダールはあっさり結論を出した。
 腰をかがめてほうきとチリトリを手にして彼は一人で頷く。
 ダリアもどうやらあの男を好いていないようだし、他者に対してあまりり好みしないイナキすら、セリゼウスに反感を抱いているような雰囲気がある。
 あの二人がそろって嫌っているなら、気を使う必要はないだろう。
 二人は、魔界平定の大切な要だった。
 あの二人が別の道を歩くことなどあってはならない。
 仲を裂く者が現れたなら、どんな手段を使ってでも排除する必要がある。
 ダリアは水晶の神託を気にしているようだが、それは気紛れを起こすことなく変わらぬ未来を映し出していた。
 しかし、水晶が指し示した未来が不確かなのは変わりない。それを望むなら、細心の注意をはらって現実のものとなるよう導く必要がある。
「魔界平定の鍵はあのお二人が握っている」
 ヴェルモンダールは穏やかに微笑んだ。
 彼が見た未来はまだ誰にも語られることなく、ただ静かにその胸の内に眠っていた。

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