執事の考察記録   〜魔王様の恋人 閑話その一〜

     【前編】

 ここ数日、彼の主人は機嫌がいい。
 あれだけ派手に告白されれば、今まで散々じらされてきた反動で顔の筋肉も最大限に緩んで当然だろう。
 現魔界統治者としてはあまり歓迎できないが、過酷とも言える彼女の過去を見知っていた初老の紳士は、ふと己の手に視線を落とした。
 薄闇の中でようやく見つけ出した彼女は、世を渡る術すら知らずに深淵に足を捕られ、ただ命を繋げるためだけに生きていた。
「……水晶の見立て、あながち外れではないようだな」
 この女が魔界を統率するのかと、そのいしずえと成り得るのかと疑いを持たずにはいられなかった。
 だが、彼の危惧をよそに、ただの淫魔でしかないはずの彼女――ダリアは、総ての反感をその美貌と身についた立ち振る舞いで制してしまった。
 完璧な美などありえないと言い切る彼――ヴェルモンダールでさえ、息をのむほどの絶対的な美の結晶。細部にわたり計算されつくした美術品でも足元にも及ばないような、それは神の領域ともいえる造形物。
 それ≠ヘ魔界の瘴気によって花開くような、破滅的な美しさだった。
 魔界と人間界では彼女から受ける印象が全く違う。
 確かに美人といわれる容姿だし、人間界に来て彼女以上に整った顔の女は見たことがない。
 けれど魔界にいる時のような、あの総ての視線を呑み込む凄艶な空気はまるで感じられない。
「まぁ、あんな凶悪な美女がウロウロしていては、不自然極まりないのだが」
 呆れるほど蕩けきった表情のダリアはイナキと肩を並べて雑誌を覗いていた。
 困ったような彼に不審を抱き、ヴェルモンダールは二人の手元を注視する。
 なるほど、ダリアがご機嫌で指差しているのは下着のカタログらしい。イナキの年齢と自分の立場を考慮すれば、それがいかに問題のある行為であるかなどすぐにわかりそうなものなのだが、理性の箍が外れてしまった彼女にはその言葉は通じないだろう。
 べったりと密着するその姿は、まるで新婚家庭の一幕である。
 いつ人が来てもおかしくないリビングで過剰な行為は慎んだほうがいいのはわかりきっている。
 実際に、今までのイナキなら絶対に距離を置いていたはずだ。
 それが前回の一件で大きく変化した。
「……喜ばしい事ではあるのだが」
 だが問題は、予定していたよりも二人の関係が進展するのが早すぎること。
 これでは水晶の見立てと狂ってきてしまう。
「困りましたな」
「どうしたんですか?」
 ドアの隙間から様子を窺いボソリと呟いたヴェルモンダールに、不思議そうな声がかけられた。
 聞き馴染んだその声にヴェルモンダールが驚いて振り返る。とっさにドアを閉めたが、彼女の視線は非常にまずい方向に向いていた。
「こ、これはなぎさ殿」
「……あの」
「は!? 洗濯ですか! お手伝いいたしましょう!!」
 自分でも呆れるほどわざとらしく口にして、なぎさの手にしていた大きな洗濯篭をひったくるようにして受け取った。
 なぎさは、勘が鋭い。
 見てくれはどこにでもいる普通の容姿なのに、その中身は外見を裏切っている。それが家族に対する愛情ゆえのものであると気付いたヴェルモンダールは、それ以来なんとなく彼女には弱い。
「……この前」
 こそこそと洗いあがったばかりの衣類を持って廊下を移動し始めたヴェルモンダールに、なぎさは言葉を続けた。
「小学校で叫んでたのってイナキちゃんですよね?」
「は――!?」
 確かにそうなのだが、そうと認めるとマイナスの要因が増えすぎる。
「さぁ、私はその場にはいなかったので……新聞では、不審者の仕業だろうと……」
 事件≠フ前日、魔将軍の一人であるセリゼウスが教師に見付かりつまみ出されていたのはかなり運がいい。
 あの件のお蔭で、連日侵入した変質者が放送室で悪戯をしたという結論に達し、座標固定で移動し損ねたセリゼウス一人が教師軍団に捕まって警察に突き出された。
 スピーカーから流れた声は散々割れていたが子供のものだった。だがそこにいたのは前日侵入した変質者一人。
 教師たちは何の疑いもなくその男をダリアを追い掛け回している変質者≠ニ結論付けて、事件は声色を使ってまで彼女に接触を図ろうとした危険な人物≠警察に突き出すことにより一件落着となった。
 新聞の片隅に載った記事は、学校における犯罪を危惧するゆえに予想より若干大きく取り上げられていた。
 問題は多々あるが、真相を知るあの小雪という名の少女も、どうやら公言する気はないらしい。
「……惚れた弱みですな」
 微妙な乙女心というものだろう。
 言えばイナキに迷惑がかかり、ダリアとの仲を認めてしまうことにもなる。公言すればもっと簡単に仲を裂く事ができるが、それを実行しないところはまだまだ子供だ。
「……いや、思った以上に大人ということか」
 後先考えずに言いふらさないところを見ると、そういう発想もできる。
 人間という生き物は、実に興味深い。悪魔のように端的な損得勘定で動くことがない分、色々と面白い面を持ち合わせている。
「ふむ。実に興味深い」
 うんうんと一人で納得していると、
「あの」
 と、少女が遠慮がちに声をかけてきた。
「ああ、ですからイナキ殿ではないと」
 ヴェルモンダールは慌ててなぎさに返す。
 声の主がイナキかどうかを確認する質問であったことを思い出し、ヴェルモンダールはそう断言していた。
 なぎさは考えるように虚空を見詰め、そして小さく頷いた。
「わかりました」
 なんとなく引っかかるような言い方に、ヴェルモンダールは眉根を寄せた。
 なぎさはヴェルモンダールの顔をまっすぐ見詰め、そしてにっこり微笑んだ。
「一緒になるまで内緒ってことですね」
「は……!?」
 唖然としたヴェルモンダールの脇を彼女が軽やかにすり抜ける。
「う〜ん、でもイナキちゃん、ダリア先生と違って普通の子なんだけどな〜?」
 脇をすり抜ける時に、なぎさが独り言のように小首を傾げながら小さくそう呟いた。
 ギョッとしてヴェルモンダールは彼女の背を凝視した。
 それはダリアが普通ではないと言っているようにも聞こえる。
 ヴェルモンダールはいったん開きかけた口をわずかに強張らせ、出かかった言葉を飲み込んだ。その意味を問い詰めたい気持ちは多々あるが、下手に聞けば疑問が確信に変わる可能性がある。
 ここは様子を見たほうがいい――
 しかし。
 何かが知られている。
 それは疑いようもない事実だった。
「……人とは……侮れませんな……」
 何を知っているのかはわからないが、それを容認してくれる彼女はおそらく味方≠ニいう事だろう。
 そんな相手が身近にいてくれるのは心強い。ふと火災の時の経緯を思い出し、ヴェルモンダールは穏やかに笑みを刻んだ。
 武蔵家が火事にあったとき、ダリアが魔力を使って家人を助け出した。
 そのときの記憶はダリア自身が責任をもって消し、その事によって武蔵家の人々の記憶の一部が曖昧な物に変わってきている。
 彼らは自分たちがどうやって助かったかを知らないのだ。
 それに関して、ヴェルモンダールは一切口を挟んではいなかった。失われた記憶を繋ぎ合わせて、彼らなりの結論を出してもらうのが最善と考えたためである。
 そして、結果はダリアが彼らを運んだ≠アとになった。
「言い出したのは、確か……」
 ポニーテールを揺らしながら前を歩くなぎさをヴェルモンダールは静かに見詰めた。
 それは偶然の流れであると思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 今は真実を語ることができないが、少なくとも一人、いつかそれを語るに足る人間が目の前にいた。
 ヴェルモンダールは、振り返ってリビングのドアを見た。
「いい理解者がおりますな、イナキ殿」
 そう囁き、初老の紳士はゆっくりと廊下を歩き始めた。

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