第八話  恋人宣言


 声が聞こえた。
 最近では毎日耳にする少し高めの少年の声。
 それは窓ガラスさえ震わせるほどの大音量で各教室に設置されたスピーカーから流れ、呆れるほど短くたった一つの命令をくだした。
来い≠ニ、ただ一言だけ。
「――イナキ殿?」
 とっさに両耳を押さえ、ヴェルモンダールが呻くように誰ともなく問いかける。散々割れた声だが、イナキのものに間違いないだろう。
 ダリアは無意識に椅子から立ち上がり、身を低くした。
「いけません!」
 叫んだ側仕えの顔を視界に留めながら彼女は床を蹴った。
 拒絶の言葉の後には別れの言葉が続くのだろうと、そんな思いが切なく胸を焼く。
 それでも、そのまま魔界へ帰るよりもう一度だけでもいいからイナキに会いたいのだと、素直にそう願って。
 最後に名を呼んでくれた愛しい人のめいにダリアは素直に従った。
 驚愕するヴェルモンダールはすぐに消え、次に目の前に現れたのは、両手をいっぱいに広げているイナキの姿だった。
「……え?」
 何かいつもと様子が違うとダリアがそう思った瞬間、少年はその腕の中に彼女を抱き寄せていた。
「イナキ?」
 体勢をやや崩していたダリアはそのままイナキの胸に顔をうずめる形になっていた。
 何が起こっているのかわからず、彼女は茫然としている。ただその瞳からは、悲しみではなく別の涙が零れ落ちていて――
「ごめん」
 なんに対してかもよくわからない謝罪の言葉がイナキの口から伝えられた時、失意で塞ぎかけていた心が軽くなったような気がした。
「一緒にいられる方法、二人で考えよう」
 優しく囁く言葉の意味がわからずに見上げると、イナキが微苦笑していた。恐る恐る回した腕をはらう事もなく、彼はそっとダリアの頬に手を添えて涙を拭ってくれている。
 その手はやはり小さくて、本当にまだまだ子供のそれなのに。
「傍にいてもいいのか……?」
 とても、暖かい。
「うん」
 言葉や眼差しと同じで、穏やかで暖かい。
「邪魔じゃないか? 鬱陶しいと思わないか? お前の平穏を、私はいつも乱し続けている。私がいなくなればお前は今まで通りの生活に戻れる」
「うん、そうかも」
 あっさりと頷くイナキのつれない姿に、ダリアの顔が再び泣きそうに歪む。
 否定して欲しかったのだ。
 それがありありとわかるダリアの表情に、イナキは優しい笑みを深くした。
「でも、もう決めた」
 ゆっくりと身をかがめて、彼は言葉を続けた。
「手放すくらいなら、一緒に堕ちたほうがいい」
「――イナキ?」
 唖然とするダリアの唇に柔らかく口付けて、少年は微笑む。
「こういう事だから」
 触れるだけのキスの後、彼はダリアを胸に抱き寄せて放送室の出入り口にそんな言葉を投げかけた。
 意味を解さずダリアはイナキの視線の先を追い、そして全身をこわばらせる。
 そこには、溜め息をつきながら苦笑するヴェルモンダールと、あんぐりと顎が外れんばかりに口を開けたセリゼウス、そして真っ青になって立ち尽くす少女が一人。
「それ、それって……!」
 少女は震える指を二人に向けて、必死で言葉を探している。
 彼女はダリアが担任を務めるクラスでリーダーシップをとるほど活発な少女で、いつも必ずクラスの中心にいる。
 名は、里見小雪。
「き、記憶を……!!」
 消さないとまずい。
 ダリアは混乱したまま青ざめる小雪を見詰めた。
 スピーカーから流れたイナキの声を聞く者の記憶も一人残らず探し出して消さなければ、またイナキが苦労するハメになる。ダリアはようやくその事実にも気付いた。
 慌ててイナキから離れようとすると、彼はしっかりと両手を固定してダリアを再び胸に抱き寄せる。
「イナキ!?」
「いいよ、消さなくても」
「しかし!」
「消さなくてもいい。そういうのは不自然だ」
 過去に家族の記憶の一部に手を加えたことによって、わずかな歪みが生じていることは確かだった。
 自然に忘れるのと無理に消去するのでは勝手が違う。
 人格に多大な影響を及ぼすことこそないが、本当に必要な時以外はあまり使うべきでないということは、ダリアも承知している。
 しかし状況が状況だ。
 不安材料となるのならやるしかないと、ダリアは本気で考えていた。
 だが、そんな彼女の考えを知ってか知らずか、イナキが再び口を開いた。
「それにね、ダリアのこと忘れさせるのは嫌だ」
 囁く言葉の意味を理解した瞬間、ダリアは真っ赤になった。
 今まで明らかに保身にまわり彼女の行動を抑制する立場にあったイナキが、全く違った行動をとり言葉をくれる。
 何があったのかはわからないが、その腕が妙に頼もしく思える。
「里見さん、先生はオレの恋人なんだ」
「――うそ……」
「本当だよ。もう誤魔化すのはやめる」
 クスリと笑って、イナキは小雪以上にその言葉に驚いているダリアを包む腕に力を込める。
「結婚するんだよね?」
 確認するようなイナキの言葉に、ダリアは勢いよく頷いた。
 水晶が映し出した未来はかなり先――それでも、唯一彼女が求め、望んだものだった。嬉しそうに笑顔を絶やさない自分と、そしてその傍にいる青年。
 未来のイナキ。
「イナキは私の夫だ!」
 力一杯断言すると、かすかな悲鳴がダリアの耳に届いた。
 驚いて見詰めた先には、さらに真っ青になってヴェルモンダールに支えられている小雪の姿があった。
 確かに、片膝をついたまま小学生に抱きつき告白する女教師というのは衝撃的なシチュエーションだろう。
 的外れなことを考え、ダリアは無言のまま大きく一つ頷いた。
「……ダリア、それ違うから」
 妙な考えに走っているダリアの心を読むように、イナキが小さく訂正を入れる。
「危険な情事というヤツだろ?」
「飛躍しすぎ」
 溜め息と共に微苦笑するその瞳が穏やかで、胸の奥が温かくなる。触れてもいいのだと、無言のままに伝えてくれるのが嬉しくて、ダリアが微笑んだ。
 それに変わらず苦笑を返したイナキが、ふっと視線をあげる。
 遠くから階段を駆け上がる幾つもの足音が響いてきた。何かを叫ぶその声を耳にし、イナキの視線がヴェルモンダールに向く。
 彼がわずかに瞳を細めると、ヴェルモンダールは頷いて小雪を抱きかかえた。
「や! 何!?」
 驚いて暴れ始めた少女ごと、ヴェルモンダールの姿が掻き消える。
「行くぞ、ダリア」
 耳に届くのは心地よい少年の声。
「はい」
 状況の呑み込めないセリゼウス一人を残し、ダリアはイナキの体を抱きしめたまま床を蹴った。
 ふわりと浮いた体は、体勢を保てずにあっという間に崩れ落ちた。
 穏やかな風が全身を包んだ時、ダリアは心から「しまった」と思った。
「……どこに行く気だったの?」
「……」
「ダリア?」
「……家」
 バツが悪そうに答えると、イナキが思いきり溜め息をついてダリアを抱きしめたままその場に座り込んだ。いつもより少し近い空を見上げ、彼女の背に回していた腕の力を緩める。
「家に帰ってどうするんだよ」
 そんな事は決まっている。
 家に帰ったら部屋にしけこんで、仲良く将来を語り合う。
 ついでに手なんか握ったり。
 肩なんか抱いてみたり。
「――ダリア」
「イチャイチャしたかったんだ!!」
 不安で不安で仕方なかったあの時間を、きっちり埋めてもらわないと気がすまない。
 それなのに、やっと想いが通じ合ったのかと思うとそれだけで興奮してしまって、見事に座標が狂った。
 最近では座標固定と呼ばれる移動術自体はかなり上手くなりミスの回数も減った。
 だが、イナキを魔界に連れて行くときに失敗していては意味がない。
 ヴェルモンダールに頼む事もできるが、手に手を取って魔界へ行くことをひそかに夢見ているダリアにとって今回のミスは致命的ともいえた。
 壁の中や土の中に移動しなかっただけ幸運なのだが、目下の悩みはそこではなくて。
「これじゃ当分魔界には行けないな」
「そ、そんな……!!」
 もっともらしく頷く彼の意見に強く言い返せず、ダリアは焦れている。
「だったらイチャイチャ!!」
「……ここで?」
 そう問いかけて、イナキはぐるりと辺りを見渡した。
 そこはちょうど放送室の真上にあたる場所だった。普段は施錠されていてめったに来ることはできないが、四階の上は屋上になっており、今日は天候もよく絶好の行楽日和である。
 フェンスを張り巡らせ壁を作るその場所には、貯水タンクと何かの機材が収納されているらしい施錠されたボックスしかない。
 校舎の内部に通じるドアは封鎖されたままでダリアにとっては好都合な条件であるが、先刻の放送を耳にした生徒たちの声が校庭から聞こえてくる状態ではイナキのほうが落ち着かないのだろう。
 彼は微かに眉根を寄せた。
「イチャイチャならもうしてるだろ」
 イナキは少しだけ間をあけてそう言い、抱きしめあったままのダリアの額にキスを落とす。
 ダリアのほうが絶対年上なはずなのに、時々それがわからなくなるほどイナキは大人びた雰囲気を持つ。
 もともと大人びているが、今日は格別にその色が濃いようだ。
 しかし、勿論それで納得できるわけはない。
 抱き合って額にキスなんて、いまどき保育園児でもしているぞと、ダリアは中途半端に肥大した知識でむくれた。
「キス!」
「はいはい」
「違う、キス〜!!」
 額とか頬じゃなくて、もっと恋人らしいものが欲しい。
「キス! そこじゃなくて、頬でもなくて、口――!!」
 もしかしたら物凄く間抜けなことをねだっている様な気がしないでもないが、イナキがあまりにさらりと流すので、そんなことすら気付けない。
 真っ赤になって必死で訴えると、少し考えるような仕草をしたイナキがダリアの頬をそっと包み込んだ。
「じゃぁ一つだけ約束して」
 ゆっくりと降りてくる唇が、小さく言葉をつむぐ。
「なんだ!?」
 勢い込んで問い返すと、イナキが苦笑した。
「キスはオレからする」
「了解した!!」
 啄ばむように触れた唇が囁くその言葉の意味をダリアが理解し、そして激しく後悔するのは――
 もう少し、あとの話。

=end=

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