第七話
走り去ったダリアの顔は、胸に突き刺さるほど鮮明に脳裏に焼きついた。
距離を置いたほうがいい。
それは、イナキの心の中にある想い。
ダリアにはまだきちんと説明してはいないが、もしかしたら説明しないほうがお互いの為になるのかもしれない。
「せ――先生、泣いてなかった!?」
「……そう?」
「泣いてたよね!?」
「さぁ」
ドアを凝視して固まっていた小雪は、勢いよく振り返ってそう問いかけてきた。
イナキは彼女から視線をそらすように机の上を見詰める。
自分で決めたことなのに、こうする事が必要だとそう思ったのに、自責の念にかられてしまう。
追いかけて違うのだと訂正したくなる。
「――武蔵君」
ぐっと拳に力を込めると小雪が真剣な声で呼びかけてきた。
見上げると、どこか難しい顔をした顔が飛び込んできて――
「どうしてそんな顔するの?」
彼女の言っている意味がわからずに、イナキは言葉を失う。いつも通りにしているつもりなのに、まるでそうではないような口調だった。
「なにが……?」
「どっか痛いの?」
「別に」
答えに窮して、短くそう返した。
勘が鋭すぎるのは困る。上手い理由をつけて立ち上がる事もできないのだ。
だが、ダリアのあとを追ったところでどう言葉をかけていいのかもわからず、イナキは少女に向けていた視線を再び机の上に戻した。
追うべきじゃない。
そう彼の中では答えが出ている。
今でさえ、イナキがそんなそぶりさえ見せていないのに、疑われているのだ。誤解を招くような行動をとってはいけないと、少年は自分の心にそう言い続ける。
距離を置いたほうがいい。
それは、何度も繰り返される思い。
物理的な隔たりができれば、それを取り除くことがどんなに困難かを少年は直感で知っていた。
一緒にいたくてもいられない状況なんていくらでもある。
それを彼は家庭内で嫌というほど体験してきていた。
自宅の場合は目を疑うような借金が理由だった。それがあるばかりに両親は馬車馬のごとく働き、ほとんど顔をあわせることのない生活が続いている。
そして、ダリアとは道徳という観念で壁ができるだろう。
世間に知られたら間違いなくダリアのほうが悪く言われる。
それを回避するために人の記憶を操作するという選択肢はある。
しかし。
「それは、嫌だ」
絶対に、と心の中で小さく続けた。
真実を捻じ曲げて得た平穏はどこか不自然だし、なにより――
「武蔵君?」
少年の様子がおかしいと感じ取ったかのように、少女は身をかがめる。
「どうしたの? 気分悪いの?」
問い詰めていた途中であるにもかかわらず、小雪は心配そうにイナキの顔を覗き込んだ。子供っぽいとは思いつつ、イナキはその視線から逃げるように顔をそむけた。
イライラしても仕方ない。
小雪が悪いわけじゃない。
ちゃんと気を配れなかったのが悪いのだと自分自身に言い聞かせ、彼は級友に向かいかける怒りを鎮める。
誰にも知られないように――本当に今の生活を守りたいのなら、ダリアがいるあの空間を守りたいのなら、しっかりしなければいけない。
「大丈夫だから。とにかく……」
早く話を終わらせるためにイナキはそむけた顔を小雪に戻そうとした。けれど、その視線は途中で嫌なものを発見して、彼女のもとに行く前にピタリと止まった。
すりガラス越しに個性的なシルエットが映っている。
それはガラスに両手をつけ、耳をべったりと貼り付けて静止していた。
――脳ミソが足りていないのか。
イナキの沈みがちな思考回路でも、そんなツッコミが即座に出てきた。
脳ミソどころか色んな物が足りていなさそうなその影は、派手なパッチワークまがいのゆったりとしたベレー帽のようなものをかぶり、ピンと上を向いた髭をゆらゆら揺らしている。
「……触覚」
あれは紛れもなく昆虫類だ。
ダリアのことで散々悩んでいたイナキは、元凶とも言える男の名を呼ぶことなく、苛ついたような声を発した。
ピクリと髭が揺れた。
そして、おもむろにすりガラスから体を離し、勢いよく開ける。
「このチャーミングな髭が羨ましいか、小僧!!」
どうやら小僧っ子から進化しているらしいが、結局総ての呼び名が気に入らないイナキは冷めた目で魔将軍を一瞥した。
「全然」
「照れるな!」
皺だらけの顔を皺くちゃにして、元凶であるセリゼウスが廊下から窓に足をかけた。そのまま勢いよく乗り上げ、勢いあまって見事に天井にぶつかり机の海に沈む。
「せっちゃん!?」
見事に机の下敷きになったセリゼウスに小雪は悲鳴をあげながら駆け寄っていく。
小雪に余計な事を吹き込んだのは、やはりこの男だったらしい。
呻き声をあげる男に同情する気もなく、イナキはなおも冷めた目で腰や足をさするその姿を見ていた。
ダリアではないが、本当にどうにかしてやりたくなる。
セリゼウスが現れなくても、ダリアの行動に不審を抱いた人間がいずれ真相を知る時がくる可能性はあった。
だが、それはずっと未来の話であるはずだった。
この男が余計な事を小雪に吹き込まなければ、あんな風にダリアを泣かせなくてもよかったのではないか――もっと事前に対処でき、うまくごまかす事もできたのではないのか。
そう思うと、怒りが込み上げてくる。
「それで、今日は何?」
昨日学校からつまみ出されたにもかかわらず、また今日も忍び込むとは呆れた根性だ。警察に突き出されなかっただけ有り難いと思って、普通は連日忍び込んだりはしないだろう。
しかし、魔界の住人はイナキが考える常識の範疇からははみ出しまくっていた。
「聞きたいか!?」
嬉々とした表情でセリゼウスが立ち上がる。やや下を向いてしまった触覚を指で整え、彼は背筋をただした。
「今の、社交辞令だから」
「聞きたいのだな!!」
人の言葉を理解する能力も少し足りていないらしい。
少年の顔が引きつる事にも気付かず、セリゼウスは大きく頷いた。
「
自分で華麗≠ニ言ってる辺りがどうかという気もする。
呆れたような顔をセリゼウスに向けていたイナキは、次の彼の言葉を聞いて目を見開いた。
「魔界に流れる情報を操作した。ヴェルモンダール殿は策士としても有能な御仁ゆえ、見逃すことのできない情報を少々」
ニヤリと笑う男は、その声のトーンを微妙に変える。
「それを治めるにはダリア様のお力添えがいると、そう判断せざるを得ないものを」
「――え?」
「人の界でいつまでも遊んでおられては困るのだ。水晶の神託など所詮
セリゼウスはそう言って髭を揺らす。その瞳には狡猾ともいえる光が宿っていた。
「機をみて事に及ばせてもらった。あの方は魔界へ帰る。そして、界と界を繋ぐ道を塞ぐ手筈は整っている。――二度と、ダリア様は人の界には来られないのだ」
「情報操作……? 界を塞ぐって……」
立ち上がったイナキを見詰め、セリゼウスは優雅に一礼した。
「言葉通りだ、小僧。ヴェルモンダール殿は某の望む答えのままに、ダリア様を魔界へ導いてくださる」
「待て! どういう――」
「貴様は二度とダリア様に会う事はない、そう言っているのだ」
その言葉を聞いた瞬間教室を飛び出したイナキの背に、セリゼウスが言葉を投げる。
「今更遅い。座標固定は一瞬で終わる。人間風情が探し、止められるものか」
イナキはその言葉を振り払うように走り出した。後方から小雪の声が聞こえるが、そんな事に気を払うゆとりもない。
ダリアとは一定の距離をおきたいだけだった。
出会いがあまりに早すぎたから、ダリアとの関係が自然であると皆が認めてくれるだけの時間が欲しかっただけだ。
永遠の時間を望んでいたわけではないのだ。
「ダリア――」
辺りを見渡す。
あの状態なら、職員室には帰っていないだろう。
もっと人気のない場所にいるに違いないのだが、とっさに彼女の行きそうな場所が思い浮かばない。
ダリアはいつも教室か職員室ばかりにいて、それ以外で姿を見たことがないのだ。
そう、いつもいつも呆れるぐらい、ダリアはイナキの傍にいた。
それが自然であると思うほど、彼女は生活の一部として彼の中に溶け込んでいたのだ。
彼女のいない生活などもう想像することすらできない。
だから、手放すぐらいなら――
イナキは体の向きを変え、今いる三階から四階へ続く階段を駆け上がった。
手放すぐらいなら、一緒に堕ちるほうがいい。
四方の壁を防音材でしっかりガードされた一室のドアを乱暴に開き、彼はその中に飛び込む。ずらりと並んだ機械を一瞥し、マイクの隣についているスイッチに指をのばした。
その部屋の前には黒いプレートが掲げてあり、そこには白い文字で放送室≠ニ書かれている。
イナキは深呼吸してスイッチを入れる。
「ダリア、来い――!!」
校舎を震わせる勢いで響いた声に笑みを浮かべて、彼はスイッチを切った。
お前のいる所ならどこへだって行くと、そうダリアはイナキに言った。
ダリアの言葉はいつもまっすぐで、その言葉が上辺だけの物でないことをイナキは誰よりも知っている。
だから。
「ここに来い、ダリア」
イナキはゆっくりと両手を広げた。