第六話
彼が何を言ったのか、その言葉の意味を理解するのに少し時間が必要だった。
休み時間に教室に残るのはイナキくらいなものだから、授業中のそっけない彼の行動に動揺したダリアはその意味を聞くためにイナキ以外は誰もいないと思っていた教室に入り、そこに女子児童の姿を発見した。
真剣に話し合っているようだから、すぐに退散するつもりだった。
その内容を、耳にするまでは。
欲しかった問いの答えがこんな形で得られるとは思っていなかった。
確かに自分は不穏分子で、彼の中ではただの邪魔なだけの女かもしれない。平穏だった彼の生活の一部を狂わせてしまっている自覚は十分にある。
だから必死だった。
彼の負担にならないように、人前では精一杯普通≠フ顔をして、けれどその仮面がはずれた時は、彼を困らせる一方で。
ただ、心のどこかで嫌われてはいないのではないかという、確証もない思いだけが息づいていた。
その
好きでもない女に言い寄られて、
水晶の神託は気紛れで、見せた未来は定まりなく変わっていく。
過去にイナキとは契約を結んでいる。それを盾に魔界へ引きずり込むことはできる。だが、そうやって得た未来はあの水晶が見せたものとは違うのだ。
幸せそうに笑う自分の隣には、それを穏やかに見詰める彼がいた。
それを初めて見たときはどんな
イナキを無理に連れて行ったのでは、決して得ることのできない未来。
温かいだけの人形はいらない。
彼の意志が伴わないなら、そんな日常は幸せとは呼ばない。
初めは力を高めるためだけの相手だと思っていた。それ以外の相手など必要なく、そして自身も他者に愛情を向けることを知らなかった。
それなのに今は――
「ダリア」
少年の声が静かに響く。
校庭から聞こえる生徒たちの声はあまりにも遠く、彼女の耳には届かなかった。
イナキと対峙していた少女が首を傾げながらダリアを見て、そして目を見開いたのがわかった。
けれど総てがぼやけている。
好きで好きで、心から愛しいと思う少年の姿も奇妙にぼやけて見えて、その理由すらわからずダリアは棒立ちになっていた。
何かを言わなければ変に思われる。
だが、口を開けば漏れるのは言葉ではなく
「ダリア様!?」
廊下で誰かにぶつかりそうになる。
ダリアはとっさに踏みとどまって、障害物のない場所を走った。
あそこに居続けたら、取り返しのつかないことを口走ってしまう。泣きながらみっともなくすがって、今以上に彼に迷惑をかけ――そして、嫌われてしまうから。
離れたほうがいい。
せめて迷惑のかからない場所まで。
ダリアは廊下を疾走し、図書館の前で足をとめた。こんな状態でも、イナキの好きな場所に来てしまう自分が本当に女々しくて嫌になる。
ごしごし目をこすって、彼女はドアを開けた。
この空間ぐらい彼に好かれていればいいのにと思うと、その考えが情けなくて止めどもなく涙がこぼれる。
初めから好かれていなかったのだ。
必死で言葉をつむいでも、彼から一度としてその答えが返ってきた事はない。いつも聞き流されるかはぐらかされて、結局一人で焦れているのが常だった。
好きでもない相手に言い寄られていた彼は、さぞ迷惑に思っただろう。
嫌な顔をしなかっただけ、彼は寛容だった。
イナキがよく使っている机に歩み寄って、ダリアはそこをそっと撫ぜる。椅子を引いて腰掛け、そのまま突っ伏した。
「……ダリア様」
不意に気配が生まれ、遠慮がちに呼びかけてきた。よく知るその気配は、しばらく魔界へ帰ると言ったきり鳴りを潜めていた男のものだった。
「……うるさい、どこかに行け」
全身で一人にさせろと訴えたが、その気配は動くことなくそこにあった。
「イナキ殿と何か?」
「うるさいと言ってるんだ、一生黙らせるぞ。だいたい貴様、肝心な時にいなくて何をやっている?」
八つ当たりだとわかっていても、問わずにはいられない。
声の主は側仕えのヴェルモンダール――イナキがダリアの伴侶であることを伝え、水晶を彼女に見せた張本人なのだ。
そして彼と彼女が上手くいくように色々家族にも根回しをしていた経緯がある。
その彼が、こんな大切な時にいなかった。
魔界で色々揉め事があるのは知っていたが、彼がいてくれればあんな言葉は聞かずにすんだかもしれないのに――
そう思うと、ふつふつ怒りが湧いてきた。
「貴様が全部悪い!!」
「……順をおって話して頂きませんと」
「うるさい! 貴様が悪いんだ! イナキは私の伴侶だと言っておきながら! 言って……」
そして実際には見事に玉砕で。
せっかく止まりかけた涙も、顔を上げた瞬間ボロボロと零れ落ちた。
あの言葉が聞き間違いだったらどんなにいいか。
そうは思うものの、イナキの視線はまっすぐにダリアを捉え、そして告げられた言葉は確かに彼女に向かっていた。
「私が悪いのか? どうすればいい? 何をしたら――」
何を直したら、好きだと言ってもらえるだろう。
抱きつくのを止めればいいのなら、一生だって我慢する。話し方が気に入らないのなら、ちゃんと勉強して直してみせる。
だが、彼からの言葉は何もない。
要求も要望も、何一つくれない。
それが余計に悲しかった。
「ヴェル、私は魔界に帰ったほうがいいのか? イナキの傍にはいないほうがいいのか?」
ボロボロに泣き崩れてそう問いかけると、ヴェルモンダールは困ったように笑った。
「サキュバスがここまで他者に惹かれるのは稀でしょうな」
ぽつりと小さく言って、
「一度戻っていただいたほうがいいかもしれません」
すぐに真剣な表情になってそう続けた。
「イナキ殿には私からお伝えします。魔界も――貴女がいなくては、どうやら上手く機能しないようで」
ヴェルモンダールの言葉を聞いて、ダリアの肩がかすかに震える。否定して欲しかった言葉を彼が肯定したのだ。
いつものように苦笑しながらも手助けや助言をくれるだろうと思っていた彼が、今回はそうではない。
それでは、やはり神託は変わったということか。
水晶はいつも気紛れで――あまりにも気紛れで、たった一つ望んだ未来さえ彼女には与えてはくれなかった。