第五話  偽装心理


 結局昨日の晩は、直視しがたいほどグラマーなお姉さんが全ページに載っているという凶悪なカタログを突きつけられ、イナキはそこから下着を選ぶハメになった。
 しかも、ダリアの過剰なスキンシップつきで。
 下着を着けていないのは反則だ。いつもの感触ならやり過ごせると思ったのに、柔らかい布越しの体はどうしても意識せずにはいられなくて――たぶん、真っ赤になっていただろう。
 ダリアがあれほど上機嫌になっていたという事は、まず間違いなく平静を装えなかった証拠だ。
 唯一救われたのは、カタログの女性が爽やかな笑顔を振りまく女性ばかりで、なまめかしさの欠片もなかったという事ぐらい。
 適当に選ぶなと釘を刺されてしまったので、イナキはカタログを何度か行き来して、そしてその中から五点を選んだ。
 蛍光ペンで印を付けたそれらを嬉しそうに眺めながら、ダリアはようやくイナキを解放した。
 その後、彼女の運んできたサンドウィッチに手を付けたのだが、その味はあまり記憶に残っていない。
 イナキは小さな溜め息と共に、教壇に立つダリアを見た。
 傲慢さの片鱗すら見せない、どこかおっとりとした人のいい表情で、彼女は理科の教科書を朗読して黒板に向かった。
 ダリアに相談するべき事がある。
 彼女と距離を置くための、とても大切な話が。
 背中に突き刺さるような女子の視線を感じながら、イナキはその相談をついにできなかった事を悔やんでいた。
 恋人同士というセリゼウスの言葉を、小雪たちは完全に信用してはいないはずだ。
 ダリアの態度はかなり怪しいが、対するイナキは全くいつものペースを崩さずに行動しているから、セリゼウスの言葉は信憑性には欠けるだろう。
 実際に付き合っているわけではないし、言い訳をする必要がないと思う心もある。
 しかし、互いに好意を抱いているのは確かで、それが何かの拍子に知られてしまえば、下世話な噂は瞬く間に広がるだろう。
 それだけは避けて通りたい。
 他人の記憶を操作するダリアの能力は心強いが、それには頼りたくない。
 記憶を操作するのがいかに不自然であるかを感じ取り、イナキは小さな結論に辿り着く。
 事態が悪化しないように、自分≠ェとるべき行動。
 それがダリアのためにもなると、そう願って彼は教壇の彼女を見た。
「この数字を――」
 穏やかな声で授業を進め、ゆっくりと教室全体を見渡していたダリアの視線がイナキの席で止まった。
 いつもなら自然に受け止めるそれを無視するように、イナキは教科書に視線を落とした。
 ダリアの語調が乱れる。それはイナキだけが聞き取ることのできる、動揺という名の小さな変化。
 心の奥で何かがつかえるように苦しくなって、イナキが浅く息を吸った。
 きっと不安になっているに違いない。
 いつもと違う態度が彼女に大きな影響を及ぼすことを、少年はすでに知っていた。
 その意味も、ちゃんと理解している。
 それが嬉しいと素直にそう思う自分の心にも気付いてしまったから、これからも一緒にいるための嘘をつこう。
 高く響くチャイムを耳にして、少年は双眸を閉ざす。
 無粋な音と共に立ち上がる級友と一緒に、イナキはダリアと視線を交わすことなく号令にあわせて軽く頭を下げた。
 顔を見ると決意が鈍りそうになる。
 椅子を蹴り倒す勢いで教室を出て行く級友たちすら視界に入れず、イナキは椅子に座りなおした。
 二時間目のあとの休憩は普通の休憩より時間が長く、通称20分休み≠ニ呼ばれている。
 どの休み時間にも元気に校庭に飛び出す生徒たちだが、この休みは時間が長い事もあって、皆が呆れるほど生き生きとサッカーボールを追いかけるのが恒例である。
 例に漏れず、すぐに校庭からは元気な声が響いてきた。
 気楽でいいなと、イナキは思う。
 いつからか、彼は皆と遊ぶことをやめた。
 確か両親が隠し持っていた通帳を目にしてからだったと思う。現実はそんなに甘くないのだと、自分だけが笑っているわけにはいかないのだと、そんな事をぼんやりと考えたのを今でも覚えている。
 マスコットキャラクターの印刷されていた通帳には、見た事もない桁の数字が並んでいて、そこには小さなマイナスもついていた。
 すぐにはそのマイナスの意味がわからなかった。
 知るのにたいして時間など必要なかったけれど、知らなければよかったと何度思ったのかも忘れてしまった。
 自分が焦ってどうにかなる物ではないと知りつつも、結局は無駄にもがいて過ごした日々が、今の彼を形成している。
 その莫大な借金は、ダリアがあっさり返してくれた。
 ダリアには言っていないが、実は武蔵家の借金の額はかなり半端ではなかったらしい。一冊だと思っていた通帳はまだまだ隠されていたのだ。何を担保に入れて借りたのかを問いかけたくなる借金の山と、焼失してしまった武蔵家を建て直して会社にどうしても必要だった機器を買い揃え、そして滞っていた従業員の給料を払ったら巨額の賞金はあっという間に底をついた。
 小さな会社を経営している両親は、そして今でもまともに家に帰ってこない生活を繰り返している。
 それを見ていると、なんとなくイナキも皆に混じって遊ぶ気にはなれなかった。彼は変わらず教室に残り、時間があれば本を読んだ。
「――武蔵君」
 教室からほとんどの人間が出て行ったことを気配だけで判断し、イナキはゆっくりと瞳を開く。
 残された気配が、そろそろ行動に移る事もなんとなくわかっていた。
「昨日の話しなんだけど」
「うん」
 声のするほうに顔を向け、イナキが小首を傾げた。
 昨日いた女生徒が残っていると思ったのだ。しかし、今教室にいるのはイナキと小雪の二人だけだった。
「あれ……皆は?」
 思わず問いかけると、小雪はとたんに不機嫌そうに唇を尖らせた。してはならない問いかけだったようだ。
「昨日の変なおじさんの話がバカバカしいって言って、サッカーしに行っちゃった」
 セリゼウスの発言はあまりに突飛で受け入れがたかったらしい。確かに、どこにでもいるような普通の小学生と美貌の女教師では、あまりに不釣合いだ。彼女たちがそう考えるのも無理はないだろう。
 しかしそのわりに小雪の表情は不満げだった。
「バカバカしい?」
「って、皆言った」
 小雪はイナキに近付きながら、まるで言葉を探すように間をあける。
「あの変なおじさん、武蔵君と――ダリア先生が恋人同士だって言ったよね」
「そうだった?」
 取って付けたようにイナキが問いかけると、小雪は怒ったように睨み付けてきた。
「私はちゃんと聞いたもん」
 小雪が昨日と同じような場所に立つので、彼も同じように彼女を見上げた。
「そんなはずないだろ」
 あまり露骨にならないよう気を付けながら、興味なさげにイナキはそう返す。動揺を押し隠して細心の注意を払い、彼は日常の自分をなぞるように机に手を突っ込んで読みかけの本を引っぱり出した。
 こんなことを言われて動じない小学生もどうかと少しは考えたが、普段の自分の行動を考える限りは取り合わないのが正しい答えのような気がする。
 イナキは本を開いた。
 しかし、その本はすぐに少女の手によって閉じられる。
「武蔵君! 話聞いてよ!」
「……聞いてるけど」
 やりにくい。
 最近ダリアばかりを相手にしていた事を思い出して、イナキは我知らず苦笑する。
 彼女は言葉の駆け引きがとにかく苦手で、いつも感情をそのままぶつけてくる。好きというほんの単純な言葉でさえ、全身で訴えかけてくる。
 あとが怖いからそれに答えた事はないが、焦れる彼女の姿はなかなか見ものなのだ。
「武蔵君」
 不意にかけられた言葉に、イナキは再び顔をあげた。
「おじさんに聞いたんだから」
「……はい?」
 急に何を言い出すんだ、とイナキは眉根を寄せた。セリゼウスが皆の前で言った内容はイナキの耳にも入っている。止める間もなく語ったのは、イナキとダリアが恋人同士であるという言葉だ。
 上手くダリアとの関係をうやむやにできるかと期待したイナキにとっては、迷惑この上ない発言である。
 セリゼウスは煙のある所に火を起こすタイプだ。
 しかもとびきりの業火らしい。
 目の前の少女にもしっかり飛び火しているようで、拳を握ったままイナキに詰め寄ってきた。
「ダリア先生が魔界の王で、武藤君がそのお婿さんだって!」
「……は?」
「せっちゃんに聞いたんだから!」
 せっちゃんって誰だ。
 いやそれよりも、魔界の王に疑問を持て、里見小雪。
 小学生を婿呼ばわりするその世界に言いたい事はないのか。
 以上の言葉はイナキの口から漏れたものである。
 ただし、あまりの驚きに声を出すことを忘れたため、小雪には伝わらなかった。
「二人はウハウハだって聞いたんだから!!」
 ウハウハ。
 それは一体どういう意味なんだ。
 またしても、言葉にすることを忘れてイナキは心の中で問いかける。涙目で言い募る小雪は真剣そのものだが、果たして言っている内容をどこまで理解しているのだろうか。
「そんなの不潔!!」
 言葉のニュアンスでよからぬ事を想像したらしい小雪は、涙目どころか泣き出す寸前である。
 イナキは唖然としたまま小雪を見詰める。
 まずどこから突っ込むべきだろう。
 ここは無難に、魔界の王からだろうか。
 それともウハウハか。
 予定していた質問なのだが、内容がさらに掘り下げられているのはセリゼウスがどこかで入れ知恵をしたからかもしれない。
 せっちゃんがセリゼウスの愛称ならそういう考えもできる。
 騒ぎを聞きつけた先生につまみ出された魔将軍は、小雪だけに目標をさだめてどこかで接触を図っていたらしい。
 どんな目的なのかは知らないが、つくづく余計な事をしてくれる。ダリアが彼の息の根をとめようとしたのは正しい行動だったようだ。
「あの……里見さん」
「ダリア先生なんてオバサンじゃない! すぐに皺くちゃになっちゃうんだから!!」
 それはないだろうと、イナキは心の中で苦笑した。
 仮にも魔界の統治者なのだ。そんな短命では問題がある。
「ちょっとくらい胸が大きいからって何よ!」
 いや、かなり大きい。
 真顔のままイナキは心の中だけで呟く。
 毎日過剰なスキンシップであまり気にしなくなったが、それでもあれは規格外だと思う。
「ちょっとくらい美人だからって何よ〜!!」
 ――最近は可愛い表情のほうが多いんだけど。
 口に出したら間違いなくのろけ≠ニして小雪に食いつかれそうな言葉は、幸いイナキは心にのみ留められた。
 些細なことでも喜ぶ彼女は本当に可愛いと思う。
 それが自分だけに向けられる表情と知っているから、余計にそう思うのだろうが、あれを独り占めにできるのは悪くない。
 けれど。
 悪い噂はいつでもすぐに広がっていく。
 それを止めるためには早いうちから確実に手を打ったほうがいい。
「ダリア先生は親戚のお姉さんだよ。それ以上じゃない」
 イナキは小雪と自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりとそう告げる。
「でもせっちゃんが!!」
「あんな変質者信用するの?」
 ひどい言い方だと思ったが、格好がすでに十分に怪しい――それに、言葉遣いもどこか妙。変質者という言葉がしっくりと馴染むその事実に、イナキは微苦笑した。
「それにオレは――」
 カタリと小さな音が聞こえて、イナキは視線を少しだけ移動させた。
 淡い紫のブラウスが視界に入る。
 いつの間にか、教室には自分たち以外の人間がいた。
 ちょうどいい機会だと、イナキは自分自身に囁きかける。きちんと自分と彼女の立場を確認しておいたほうがいい。
 イナキは戸口で立ち尽くしていたダリアをまっすぐ見た。
「先生のこと、好きじゃないよ」
 何を言われたのかよくわかっていないかのように、ダリアは茫然としたままそこにいた。
 言葉を理解するのに数秒を要したのだろうその顔が急速に色を失う。
 大きく見開かれた目から透明の雫がこぼれ、それは彼女の頬をすべって床で弾けた。
 泣き顔まで綺麗だなんて反則だ。
 声もなく大粒の涙をこぼす女を見詰めて、イナキは痛む胸に手をあてた。
 好きだなんて言わない。
 手をのばして抱きしめてやりたいだなんて思ったりしない。
 今の生活を、失いたくない。
 けれどその代償は、彼が思っていた以上に大きかったらしい。
「――ごめん」
 囁く少年の言葉は彼女に届くことはなく、それは虚しく空気に溶けて消えていった。

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