第四話  思想交差


 小さな溜め息をついて、イナキは箸を置いた。
「ご馳走様」
 普段のイナキは大食漢ではないが、成長盛りというのもあってそれなりの量を食べる。その彼が溜め息と共にそう言って、あっさりと腰を上げた。
「あたしもご馳走様〜」
「蛍も!」
 せわしなく箸と茶碗を置いて、二人の少女も席を立った。もうすぐ大好きなテレビの放送時間で、少女たちは慌てて廊下を移動する。
 ほとんど箸の動かなかったイナキに驚いて、ダリアは廊下に出てしまった彼を呼び止めようと立ち上がった。その彼女の前に、茶碗がぬっと差し出される。
「ダリア先生、おかわり」
 夕飯時までしっかり部活をしてきたらしい翼が、野球部の練習用ユニフォームを着たまま腕をのばした。
「や〜! 翼ちゃん、砂が落ちた!!」
 なぎさが悲鳴をあげる。テーブルの上を横断する翼の腕は、確かに泥まみれだ。
「砂食ったぐらいじゃ死なねーよ。先生、おかわり」
「あ……ああ」
 ダリアが翼から茶碗を受け取る。彼の茶碗は他の物よりもひとまわり大きいが、いつも最低三杯はおかわりをする。その食欲をイナキも見習って欲しいものだ。
 でなければ、いつまでたっても小さいままな気がする。
 小柄な彼も可愛らしくて好きだが、水晶が見せた未来の彼は、長身のダリアと並んでも見劣りする事ない青年だった。
 水晶は気紛れだ。
 真実を映す時もあれば、偽りだけを見せる時もある。
 今の状況を冷静に分析すれば、水晶の神託は偽りのそれと錯覚してしまいそうになる。
 イナキは小さいし、ちっとも相手をしてくれないし。
 しかし、何かの拍子に彼が向けるその眼差しは、他者に向けるものとは違って――ひどく穏やかで、優しいのだ。
 その歳の少年が持つには不釣合いなその視線を向けられるたびに、ダリアは気が動転してしまう。
 それは自分だけに向けられるものなのか、それとも別の者にも等しく注がれるものなのか、子供であるはずのイナキに問い詰めたくなってしまう。
「――ダリア先生」
 悶々と考え込んでいると、翼の声が聞こえた。
 ダリアが慌てて顔をあげると、
「ご飯で餅作る気?」
 と、至極真面目な顔で言われた。
「え?」
 翼が苦笑しながらダリアの手元を指差すので、彼女は不思議そうに視線を移動させ、そしてぎょっとした。
 ふっくらと炊けたはずのご飯は、茶碗の中でぐちゃぐちゃに潰されている。もち米でないから餅にはなりようがないのだが、その潰され加減はたいしたものだ。
 かなり力一杯しゃもじを茶碗に押し付けていたらしい。
「す、すまん!」
「いいよ、どーせ食べるんだし!」
 ダリアが慌てて謝ると、なぎさがすかさずそう答えて、彼女から茶碗を受け取って湯気のたち続けているご飯をその上にちょこんと乗っけた。
「はい、翼ちゃん」
「………なぎさ」
「翼ちゃん、もういらないの?」
「………いる。」
 眉をしかめながらも翼はなぎさから茶碗を受け取った。
「私が代わりにそれを食べる! 新しいのを――」
「先生、もうお腹いっぱいなんじゃないの?」
「う……」
 ダリアの前にはきちんと箸がそろえて置かれている。後片付けのために残っていた彼女は、最後に残っている翼が食べ終わるのを待っていたのだ。
「あ、ダリア先生、今日は私が片付けるからもう部屋に戻ってもいいよ」
 突然かけられた言葉に、ダリアはパッと顔をあげた。
「いいのか!?」
 武蔵家は育ち盛りの子供が多い。とくに翼は人の三倍は食べているのだが、一回の食事のあとに洗う皿は大きめの流し台を完全に占拠する有り様だ。
 食器洗い機を導入する話も出たのだが、そのあまりの量に断念したのはつい最近の出来事だ。
「だが、洗い物が……」
 いつもかなり多いが、今日はまた格別に多い。積まれた皿は油でギトギト光り、フライパンや鍋は無造作に流しに突っ込んだままになっていた。まな板も使ったなり放置されている。
「今日は翼ちゃんに手伝ってもらうの」
「えぇ〜!」
「男の子もそうゆー事しないとダメなんだよ!」
 ポニーテールを揺らしながら、武蔵家の次女は逞しく笑っている。
「オレ疲れてるのに〜!」
「そっか……明日、シーフードカレーにしようと思ったんだけどな……」
 なぎさの言葉にご飯を掻き込んでいた翼の動きがぴたりと止まった。
「残念だなぁ……」
「ま、待て! 手伝う! 手伝うから!!」
 ご飯粒を飛ばしながら翼が頷いている。その光景を見ていたダリアに、なぎさが向き直った。
「ダリア先生、部屋に戻る前にお風呂どうぞ」
 追い焚きするのがもったいないから、風呂は短時間に集中して入るのが武蔵家の日常である。莫大な額の宝くじを当てたくせに、以前と変わらずセコイ暮らしが続いていた。
 そういえば、両親もいまだに仕事に明け暮れているらしい。
「じゃぁ先に……」
「うん、どうぞ」
 どうしてだろうと思いながらもいそいそと立ち上がり、ダリアはリビングを出るとそのまま浴室に突っ込んでいった。
 なんとなくイナキとの関係その物が、なぎさにバレているような気がしてならないが――気づかなかった事にしておこう。
 こんな事をイナキに相談したら、今以上にかたくなに拒絶されそうで怖い。
 まだ全く進展する兆しのない関係なのに、進展する前に破綻してしまったら元も子もない。ここは速やかに、気付かなかったフリがちょうどいい。
 よし、と一人で大きく頷いて、彼女は手早く体と髪を洗い、湯船につかる間もなく浴室を飛び出した。
 イナキは学校から帰るなり、異様に疲れきった顔で部屋に閉じこもっていた。
 食事時だって上の空で、まともに食べてもいない。
「ダリア先生!」
 台所を通り過ぎようとしたら、不意になぎさの声が聞こえた。
「イナキちゃんに、これ」
 そう言って、なぎさはサンドウィッチとオレンジジュースの乗ったお盆をダリアの前に差し出してきた。
「お夕飯ほとんど食べてなかったから」
「――ありがとう」
「うん」
 決定打だ。
 さすがにダリアもそう思いながら、微苦笑する。
 イナキとダリア、そしてヴェルモンダールの部屋は三階にあるのだが、彼女が三階にあがったあと何処に行くかなど、なぎさのあずかり知らぬ事だ。
 にもかかわらず、彼女は迷いなくダリアにイナキの食事を渡してきた。その行動や言葉に、頼むというようなニュアンスがいっさい含まれていないのは――たぶん、そうする事がごく普通だと、なぎさがそう思っているからだろう。
 普段はどこかおっとりしているように見える彼女だが、家族の事をとてもよく見ている。聡明ともいえるその観察眼に、ダリアはどこかホッとしていた。
 彼女は、自分≠認めてくれている。
「ありがとう」
 微笑む彼女にもう一度礼を言い、ダリアは慌てて階段を駆け上がった。
 些細な事だと思う。それでも、それが何よりも嬉しい。
 否定されると思っていた関係が、身近な人間に認められている。いずれイナキを魔界へ連れて行くのだからこだわる必要はないと思いながらも、それでも誰かにこうして受け入れてもらえるのは安心する。
 三階に着くと、ダリアはふと思い出したように一端自室に行き、カタログを一冊手にして床を蹴った。
 最近、ますます座標固定が上手くなった。
 確実にイナキの傍に行くためだけに練習した空間移動術は、ダリアが予想するよりもずっと早く上達している。
 これならいずれ、ダリア手ずから、胸を張ってイナキを魔界に招待できるだろう。
「……先生、だからどうやって入ってくるんですか?」
 毎度毎度のセリフを吐くイナキは、相変わらず机に向かっている。デスクライトだけを一つ点けるのは、どうやら彼の癖らしい。
「座標固定だ」
 こちらも毎度のセリフでそう返し、彼の真後ろから腕をのばしてお盆を学習机の上に移動させた。
 ダリアは机の上に何も乗っていないのを見て、柳眉を寄せる。
 いつもは教科書にノート、参考書が広げられている場所である。それが、今日に限って何もない。
「どうかしたのか?」
「……別に」
 問いかけにそう返したが、いつもよりそっけない気がした。
「イナキ」
 むうっと口を引き結んで、ダリアは両腕をイナキの体に回した。
 次の瞬間、彼の体が硬直したのがわかった。
「イナキ?」
「せ……先生!!」
 押し殺した声は、動揺がありありと伝わるほど震えている。最近では珍しい彼の反応だ。
「なんだ?」
「下着……!!」
「――ああ」
 そういえば、風呂から出たばかりでパジャマの下は何もつけていない。
「……そうか。これならまだいけるか!」
 嬉しそうに声を弾ませたあとは、その腕をがっちり固定した。
「先生! ちょっと!!」
 彼自身もパジャマ一枚なのだ。いつもより相手の体温が感じられる分、動揺も大きいらしい。そして必要以上に密着した体は、逆に服がある分だけ余計に刺激が強いかもしれない。
「そうかそうか、ノーブラなら意識してくれるか!」
 必死でもがく小学生をしっかりと抱きしめて、魔王様は上機嫌である。見た目はかなりの犯罪者だが、本人はこれで満足しているのだから困りものだ。
「先生!」
「これでダメなら、次は全裸だな! 裸族と言うのを聞いた事があるぞ、イナキ! 自然体でいよう!!」
「先生! そんな一族いないし、それやったら警察に捕まる!!」
「裸族はいかんのか!?」
「ワイセツ物陳列!!」
 イナキの言葉に少し考え、ダリアはにっこり笑い、そして、
「気にするな!」
 一蹴した。
 いまいち羞恥心が欠けているダリアは、さほど気にせず服を脱ぎ捨てる事ができる。元々が淫魔の類で、淫魔は服を着ないのが普通だからなのかもしれないが――ひとまず、イナキ的には青ざめる場面である。
「先生!」
「……そんなに私といるのが嫌か?」
「そんなこと言ってないだろ! とりあえず放してよ!」
「う〜」
「ダリア」
「うぅ〜」
 久しぶりに意識されたのだ。そう簡単に自由にするのは惜しい。
「……そうだ」
 ダリアはカタログの存在を思い出し、それを机の上に置いた。
「この中から好きなのを5点選んだら放してやる」
 嬉々としてそう提案すると、視線を巡らせたイナキが再び硬直した。
「――先生」
「ん?」
「これ……」
 抵抗する事も忘れたイナキの目は、カタログに釘付けである。そこには笑顔を振りまく外国人が下着姿で立っていた。
 グラマーな彼女は、赤い下着に赤いカウボーイハット、そしてガーターベルトに編みタイツ、赤いピンヒールという出で立ちである。
 凄まじくズレている。
 表紙には、下着カタログと明記されていた。
「五点。イナキの好みのを選んだら許してやる」
「な、なんで下着……!」
「市販のだとサイズが合わんのだ。海外ブランド取り寄せで、せっかくだから好みのものを選べと――試着して合わなかったら返品可。良心的だな!」
「って、なんでそれをオレが選ぶんだ!?」
「未来の夫の趣味を今から把握しておきたい。なぁ、どれがいい?」
 きゅっと体を擦り付けるとイナキが盛大に溜め息をついた。平常を装っているようだが、顔が真っ赤になっているのは態度で誤魔化せるはずもない。
「五点選べばいいんだな?」
 確認するイナキに、
「お前の好みのものをな? 適当に選ぶなよ」
 そう、ダリアが返す。浮かれまくったその声が、自分でも呆れるぐらいに弾んでいる。
「そういえば、何を深刻に悩んでいた?」
 仕方なくカタログをめくり始めたイナキに、ダリアは小首を傾げながら問いかけた。
 すると彼は、小さく小さく溜め息をつく。
 食事も喉を通らないほど深刻に悩んでいたのだから、きっと重要な事なのだろうと思ったが、意外にもイナキは微苦笑で口を開いた。
「何か悩むの、バカらしくなった」
「……そんなもんか?」
「うん」
 頷いて笑うその顔は、とても穏やかで。
「イナキ……」
「なに?」
「いつか裸の付き合いをしような!!」
「――先生、それ使い方違う」
「違うのか!?」
 相変わらず頓珍漢とんちんかんなことを言う彼女に、少年は再び小さく笑った。

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