第三話  乙女推理


 チョークを置くと、イナキはちらりと隣に立つ女教師を見た。
 現実離れしているほど美しい女は、これまた現実離れしている見事なプロポーションの持ち主である。姿勢もよく、ただ黙って立っているだけでも無駄に人目を引く。
 国籍不明の彼女は、ハーフという事になっていた。
 黒髪に紫の瞳という組み合わせの人間が、果たして現実世界に存在するのかどうか。
 ひとまずイナキはそんな容姿の人間を記憶してはいなかった。
「正解です。模範的な回答をありがとう」
 満足げに微笑む女教師の頬はほんのり赤みを帯び、その美しい瞳も心なしか潤んでいる。少し理性の欠けた男なら、間違いなく物陰に引きずり込みたい衝動に駆られる表情である。
 最近、所かまわず熱い視線を贈られ、イナキは気が気ではなかった。
 彼が小さく咳払いをすると、ハッとしたようにダリアは教室を見渡した。
「あ……席に戻ってください」
 戸惑ったように瞬きして、彼女はようやくそう告げた。
 学校にいるときの彼女は、家にいる時とはまるで別人である。
 校内の彼女は何処かおっとりとした人当たりのいい先生を演じている。確かに家にいる時のような傲慢な態度や言葉使いは、小学校の教員向けではない。
 それはダリアも理解しているようで、仕事とプライベートは完全に切り分けていて、その事自体に無理をしているような雰囲気はない。
 難点をあげるなら、時々その仮面が外れかける事くらいなものだ。
 しかも、セクハラをしようとする男には容赦がない。
 自分は平気で人に抱きついてくるくせに、他人には一切触れさせない。触れたと思った瞬間には見事な一本背負いが披露される。
 そして彼女は不動の地位を築きあげ、それをさらにしっかりと根付かせた。
 今では教師一同からは色々な意味で一目を置かれている。
 教科書片手に黒板に向かう彼女を、イナキは一生徒として見ていた。
 黒板に白い文字が並んでゆく。
 不意に振り返った彼女と視線が合うと、彼女は淡い微笑を浮かべた。
 ドキリとした。
 ごく稀に向けられるようになったその表情に、ダリア本人は気付いてはいないだろう。
 イナキはノートに視線を落とす。
 好きとか嫌いとか、そんな答えを出すにはまだ早すぎる。彼女と一緒に彼女の望む場所に行くかどうかなんて事も、まだ全く考えてはいない。
 ただ、一緒にいたいとは思う。
 傍にある温もりを手放したくないという、ひどく我が儘な欲求は確かに胸の内にくすぶっている。
 鳴り響くチャイムの音に、ダリアは教科書を閉じた。
 変声期前のボーイソプラノの号令と共に立ち上がる生徒。
 イナキは立ち上がったまま、次の号令にも微動だにせず教壇のダリアを見詰めた。それに気付いた彼女の頬がふわりと朱に染まる。
 着席の合図と共に生徒たちが腰掛けると、ダリアは慌てたように教室から飛び出した。
「あーゆうトコは……可愛いと、思う」
 ポツリと呟きながら、イナキも腰を下ろす。短い休み時間を有効に使おうと、級友たちが机の上の教科書やノートさえまともに片付けず、大慌てで走っていく。
 最近サッカーが流行らしい。
 少子化の波にあおられてどんどん在校生が減っているこの小学校では、球技やその他の遊びは総て、参加したい人間は全員乱入≠ェ鉄則である。
 校庭では明らかにウエイトの違う生徒たちが仲良くボールを追いかけ始めていた。
 イナキはその光景を少し眺め、そして机から本を一冊取り出す。店頭などで、有名な賞を取ったと平積みにされていた著書である。運良く図書館で入荷したばかりのそれを見つけ、彼は毎日黙々と読み進めていた。
「武蔵君」
 しおりを机に置いたとき、目の前に赤いジャンパースカートが飛び込んできた。
「なに?」
 イナキはしおりを本に戻し、少女を見上げた。ゆるくパーマをかけた茶色の髪を左右にきっちり分けて結んでいる彼女の名は、里見小雪と言う。物怖ものおじせず発言し、テキパキと行動する彼女は、クラスの中でもリーダー格と言っていいだろう。
 勉強はできるが割と目立たないイナキと違い、彼女は常にクラスの中心にいる。
「校庭に行かないの?」
 イナキは不思議そうに小雪に問いかけた。
 サッカーは女子にも人気がある。ボールを蹴り損ねたら、近くにいる人間の足を無条件に蹴る事ができるからお得――と、さり気なく恐ろしい発言をしたのはどの女の子だったか。
 小雪は考えるように口をつぐみ、
「ダリア先生って、武蔵君のなに?」
 やや間をあけて、そう問いかけた。
 イナキは一瞬何を聞かれているのかわからずに小雪を茫然と見上げる。
「ダリア先生が武蔵君見る目、絶対変だよ」
 ――女は勘が鋭い。まだ小学生とはいえ、そこら辺は持って生まれた天性のものかもしれない。
 彼女以外に残っていた数人の女子が、申し合わせたかのようにイナキの机に集まってきた。
 イナキはギクリとする。
 しかしそれを表に出すのはよくない。
「意味、よくわかんないんだけど」
 ゆっくりとイナキは小雪にそう返した。動揺したら、そこからどんどんほころびが大きくなってしまう。
 家族は難なく受け入れてしまったが、今の生活が異常だとわかっている。
 下手に噂を立てられたら、心地よい今の生活がメチャクチャにされてしまう。
 それだけは、絶対避けなければならない。
「誤魔化したって無駄」
 少女は少年の前で胸を張った。
「私見ちゃったんだから。先生が武蔵君の家に入るの」
「………」
 赤の他人が一緒に暮らしているのは、確かに不自然だ。そして向けられるあの熱い視線――
 小雪の中の質問は確認の意味合いが強いかもしれない。
 小学生と先生の醜聞がないわけではない。実際に紙面をにぎわせた事もある。だからあれほど気をつけて彼女との距離をとろうと努力していたのに、当の本人はその意味を全く解すことなく熱のこもった潤んだ目で散々誘惑してくる始末。
 あの努力が全くの無駄に終わったのかと思うと、頭痛がしそうだ。
 いや、しかしまだ希望はある。
 一緒に暮らしているとはバレていないはず――
「仲良く登校するのも見たんだから!」
 ……ないか。
 小雪の言葉に、イナキはがっくりと肩を落とす。
 一緒に登校するときはかなり早い時間に家を出るのだが、それも目撃されてしまったらしい。これでは言い逃れできない。
「……あのね、里見さん」
 イナキはもしもの時のために考えておいた言葉を選びながら口にする。
「先生はオレの――」
 小さく息を吸って、
「父親の姉の旦那さんの兄の奥さんの遠縁にあたる伯母さんの弟の奥さんの妹なんだ」
 一息で言い切ってみた。
 小雪が眉を寄せる。
「……どうして、父親の姉の旦那さんの兄の奥さんの遠縁にあたる伯母さんの弟の奥さんの妹が、武蔵君の家にいるの?」
 彼女は神業的に丸暗記して、イナキに問い詰める。
「……里見さん、いい記憶力だね」
 唖然としてイナキが言うと、小雪はちょっと頬を染めた。
「ど、どうでもいいでしょ! なんでそんな他人みたいな人が武蔵君の家にいて、あんな変な目で見てるの!?」
 あの無駄に長い言葉で混乱させようとしたのだが、そうは上手くいかないらしい。確かにあそこまで並べると、言ってる本人もよくわからなくなる上に、赤の他人と同じだろう。
「……困ってたから家にいるんだ。そんな理由じゃダメ?」
 イナキが真剣に聞くと、小雪はたじろいで周りにいる女子に視線をやった。
「先生がいたアパートが老朽化して――」
「それ! つつがない荘でしょ!?」
 奇怪な名前をあげて、小雪が身を乗り出した。
「つつがない?」
「先生がいたアパート! 一棟だけ急に老朽化して、大騒ぎだったとこ」
 どうやらダリアは、本当にアパート一棟を強引に破壊して武蔵家に転がり込んできたらしい。やる事が極端だ。
「先生って、なんか変なの! 普通じゃないよ!」
 イナキはその言葉を聞いて押し黙った。
 人間に見えるように振舞っていても、どこかに違和感がある。それは些細な引っ掛かりのようなものだが、何かの拍子にその歪みを見つけてしまう人間はいるだろう。
 目の前の少女のように。
「大久保先生投げ飛ばしたのだって、絶対変だし!」
 その男は、100キロ近い体重を自慢するような筋骨隆々の先生である。ひとまず誰の目から見ても、女の細腕で投げ飛ばせるサイズでないことは確かだ。
 しかし、ダリアは過去にそれをやってのけている。
「それに変なおじさんも時々先生の近くにいるの! 先生、絶対秘密があるよ! 武蔵君狙われてるんだよ!」
「……誰に」
「宇宙人――!!」
 当たらずしも遠からず。
 イナキは心の中だけで拍手を贈った。確かに普通魔王≠ネんて言葉は出てこないだろうが、だけど宇宙人という発想もいかがな物か。
だましてさらう気なんだよ! ねぇ聞いてるの、武蔵君!!」
 教室に残っている女子は全員、彼女の意見に賛成らしい。
 うんうん頷くその姿を、イナキは軽い眩暈を覚えながら見渡した。
 どう弁解すべきだろう。
 いや、これは放置しておいたほうが害がないかもしれない。
 イナキは冷静に考える。
 途中までは、考えていた。
 教室の廊下に、見たくないシルエットが映し出されるまでは。
 すりガラス越しの影はせかせかと移動して教室のドアの前に立つ。そしていきなり開けた。
「……かぼちゃパンツ」
 人間、とっさの場合は一番印象に強い事を思い出してしまうらしい。
 イナキの妙な言葉とその釘付けになった視線の先を、少女たちがいっせいに辿った。
 そこにいたのは派手な柄シャツに白いパンツを穿き、あの個性的なたっぷり布を使ったベレー帽巨大版をかぶったセリゼウスがいた。
 ピンと上を向いた細い髭が触角のように揺れている。
「ここにおったか小僧っ子!!」
 セリゼウスが土足のまま教室に入ってくる。
「おじさん、部外者立ち入り禁止です!」
 一番初めに正気に戻った小雪が慌ててセリゼウスに駆け寄る。
「出て行ってください! 先生呼びますよ!!」
「うるさいぞ、小娘」
 皺だらけの顔が小雪に向く。
「出て行って! いま大事な話してるんだから!!」
「こっちも急用で参ったのだ!!」
「私が先よ!!」
 途中で会話がおかしな方向に流れたようだが、イナキは二人のやり取りを遠目で眺めながらホッと息を吐いた。
 これで今日はあれこれ聞かれなくて済む。
「私はダリア先生と武蔵君の関係を聞いてるのよ――!!」
 唐突に耳に飛び込んできた言葉にイナキはぎょっとした。いきなり話が飛んでしまったらしい。この場合は元に戻ったと言えなくもないが、しかし、内容が悪すぎる。
 しかも、その相手は最悪だ。
「ダリア様と小僧っ子の関係!?」
「セリゼウス、ストップ!!」
 とっさに叫んだが、イナキのその声は男には届かなかったらしい。
 セリゼウスは鼻息も荒く言い切った。
「恋人同士に決まっておる!!」
 ダリアがこの男を消したいと本気で思っていた意味が、ようやく理解できた。

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