第二話 恋愛模様
突然現れた男セリゼウスは、大げさだと呆れてしまうほど長時間固まっていた。
彼の前に立っていたイナキはしばらくそのままの姿勢で待機し、やがて部屋から出て行った。
数分後に戻ってきたイナキの手には武蔵父の服があり、彼はそれをセリゼウスに押し付けながら着替えるように言って、速やかに部屋から追い出した。
小さく溜め息をつくその顔は厄介ごとが増えたと言わんばかりの表情だが、すぐにセリゼウスを追い出す気はないようだった。そんなところに彼の優しさがあるのだろう。
「……すまん。早急に帰らせる」
自分もあまり常識のあるほうではないが、セリゼウスもそうに違いない。側近のヴェルモンダールは一見常識人のようだが、どこまでそれが人間に通用するかは、はなはだ疑わしい限りだ。
あまりイナキの負担を増やしたくない。
それに、あんなのばかりがいる魔界には行きたくないと言われると――非常に困る。
「別にいいよ」
苦笑して、彼は机に向かった。
「先生を心配してきたんでしょ? だったら追い返すことない」
教科書を開き、視線を落とす。ごく自然にかけてくれる言葉が優しくてダリアは小さく微笑んだ。
まだまだ子供だというのに、身長も体格も他の者に比べれば幾分小さいというのに、とても大人びた雰囲気を持つ少年。
水晶が選んだ未来の夫。
魔王と並んでもなんら遜色のない命を持つ者。
旧武蔵家が全焼した事件の後、少しいい雰囲気になれたと思った。あのまま一気に恋人同士になって魔界へ連れて行こうと期待に胸膨らませていたのに、新武蔵家に移った瞬間、彼の態度は一変して以前と同様≠フ一先生、一生徒の関係に戻ってしまった。
しかもなんだか、前より一層相手にされていない気がする。
「イナキ」
呼びかけに、少年が小さく返事だけをする。
「……勉強、もうしないんじゃないのか?」
彼の未来にある枷は取り除いたはずだ。彼が必死で勉学にいそしんでいた理由を知るダリアは、その枷がすでに外れている事も知っている。
けれど彼は相変わらず勉強
本の虫でもないクセにいつもそれを片手にしているし、時間があれば参考書を開いている。
中学は近くにある無難な場所に行くはずなのに、まるで受験勉強でもしているかのような執心ぶりだ。
先生としては嬉しいことだが、恋人として認められたいダリアにとって、歯痒いばかりの現状である。
「私の相手はしてくれないのか?」
迷惑はかけたくないし、邪魔もしたくない。
だが、相手にされないのは寂しすぎる。
「……勉強って、嫌いじゃないんだけど」
音もなく近付いて包み込むように抱きしめると、イナキが溜め息混じりでそう告げる。
勿論それは言われなくてもよくわかる。学校には勉強より遊びが好きな子供もたくさんいるが、イナキのように学ぶ事の楽しさを知っている子供もいる。
今の状態は、彼の向学心に水をさしているようなものだ。
相手にして欲しいと駄々をこね部屋に押し入るなど間違っている。
「……恋人にしてくれたら離れる」
「先生」
「愛人でもいいぞ!!」
「無茶言わないでよ」
空気に溶けるような溜め息をついて、イナキはそっとダリアの腕に触れる。呆れたような顔をしているに違いないと思い、彼の首元に埋めた顔をあげる事ができなかった。
イナキの手が、あやすようにダリアの腕を軽く叩く。
「――私ではダメか?」
否定されて引き下がれるわけもなかったが、それでも聞かずにはいられなかった。
「それは……」
考えるような間の後、彼が深く息を吸うのがわかった。
何か答えをくれるかもしれない。
思わず腕に力を込める。
人を誘惑して虜にし、相手を思うさま嬲りものにする性を持つ淫魔であるはずのダリアが、今では年端もいかない子供に翻弄されている。
イナキの一挙一動がどれだけダリアに影響を与えているのかを彼が理解しているかどうか。
「……先生、苦しい」
ボソリとイナキが呟く。
「あ、ああ、すまん!! で、で、あの、答えは……!!」
慌てて彼の首を解放し、顔を覗き込もうと身を乗り出した。
「こんな服を着ろというのか、小僧っ子!!」
イナキが口を開く前に、部屋のドアが轟音をたてる。
どうやら小童から若干格上げされたようだ。
「…………」
格上げされたが、それはどうでもいい。
問題は、このあまりにタイミングの悪い魔将軍セリゼウスの存在そのものだ。ヴェルモンダールは気を利かせて現れる時間をずらしたりするが、この男はその逆にわざわざしゃしゃり出てきそうな予感がする。
ダリアはドアに体を向ける。そこには、白いシャツと濃紺のスラックスを穿いた皺だらけの冴えない男がいた。ピンと立ち上がった見事な髭に、ワンレングスの髪を顎のラインで綺麗に切りそろえ耳にかけているその姿は、ダリアの目から見てもかなり妙だった。
始末しておくか。
ダリアの中で結論が出る。
邪魔な芽は小さなうちに刈り取っておいたほうが被害が少なくてすむ。
「貴様、死出の準備は万端か?」
ダリアは微笑みながら単刀直入に問いかけた。
「は!? まだあと千年はかかるかと!!」
「ではすぐ済ませろ。盛大に送ってやる」
どう表現したらいいのかもわからない怒りに肩を揺らして、ダリアが低く命令する。
その肩に、そっと触れる手があった。
「ダリア、よせ」
振り向くと微苦笑で少年が囁きかける。
時々、彼はダリアを名前で呼ぶ。緊急時、とっさに口をつくのが呼び慣れた先生≠ナはなくダリア≠ナあることが、嬉しかった。
この時の命令に反する事はできないと思う。
「イナキに免じて見逃す」
我知らず顔をほころばせて、ダリアはイナキに頷いてみせた。
「小僧っ子!! ダリア様を呼び捨てにするとは何事か!?」
和みかけた空気を性懲りもなくセリゼウスがかき回す。彼は顔を真っ赤にして、失礼な事にイナキを指差しながら怒鳴った。
「……黙らせてはダメか?」
ダリアがセリゼウスを睨んでイナキに問いかけると、
「ダメ」
と、彼から小さな返事がきた。
永久に黙らせる気があるダリアは、イナキの答えにがっくりと肩を落とす。
邪魔くさい。
どうせ当分魔界へ帰る気はないのだから、この男をなんとか送り返す手段を練らなければならない。
でないと、イナキとの仲も進展しない。
セリゼウスはどうやらイナキに反感を持っているらしい。将来の魔王の伴侶に逆らうなど愚かな事だが、水晶の見立ては完全ではない。
彼は絶対に水晶の見立てが間違っていると思っているだろう。
ダリアは鬱陶しくなって溜め息をついた。イナキの見ていない間にこっそり座標固定で追い返すのが最良だ。転送に失敗したら万々歳。
彼女は非道な答えに辿り着く。
一人納得していると、
「ダリア様!!」
セリゼウスがズカズカ歩み寄り、ダリアに黒い布を手渡した。
光沢のある軽い布である。しかもかなり伸縮性がありよく伸びる。
ダリアは小首を傾げた。
「何だ?」
「貴女様の服です!!」
「………ああ、謁見用の」
肩のラインからざっくり開いたその服は、豊かな胸の谷間はおろか、腹部に達してヘソまで見えるほど大胆な作りをしている。床に引きずるほど長いスカートの裾は、腰の括れの位置近くまでスリットが入っている。彼女はこれを着て、体中を宝石で飾りたてて謁見の間に足を運ぶのだ。
毎日毎日、気鬱な作業だった。
入れ替わり立ち代わりで訪れる悪魔たちはダリアに平伏してその美しさに忠誠を誓い、魔界は奇妙な形の平穏を手に入れた。
「ダリア様の衣裳部屋から一枚拝借してまいりました」
セリゼウスの言葉に、ダリアが眉根を寄せた。
「どうやって持ってきたの?」
確か来るときは手ぶらだったはずと考えたとき、同じ疑問を抱いたらしいイナキがそう問いかけた。
「某のパン――」
セリゼウスが下半身を指差しそこまで言った瞬間、ダリアが服を投げ捨てた。どうりで生暖かいはずだ。そう考えると鳥肌が立つ。
「……凄い服」
ダリアが全身に鳥肌をたてていると、イナキは大きく広がって床に落ちた服を見詰めて呆れたように呟いていた。確かに冷静になってみれば、こんな服を着て歩いていたら立派な露出狂だ。
ただ魔界ではこれが当たり前だっただけで。
「もっと凄いのを着た事もあるぞ」
苦笑して、ダリアがそう返す。
時にはほとんど全裸で宝石だけを着て♂y見に望んだ事もあった。
「サキュバスは元々服を着ないからな。――少し、見くびられていたのだろう」
「……服……」
「ああ、淫魔はな、体毛が濃いのが多くてどちらかというなら獣の部類なんだよ。尾があったりツノがあったり耳がとがってたり。サキュバスはとくに母親の容姿を継ぐから、多様なんだ」
「先生の母親って、人間と同じ姿?」
「いや――たぶん、普通の淫魔だ。私は少し容姿が違う。出来損ないというヤツでな」
「そんな事はございません!!」
イナキとダリアの会話に、セリゼウスがすかさず口を挟んだ。
「その美しい容姿!! 歴戦の猛者を束ねたその魅力!! 非の打ち所がございません!!」
興奮気味に語る男の声が虚しく響く。
以前はいやいやとはいえ謁見の間に足を運んでいた。向けられる賛辞は聞き飽きて代わり映えもなくつまらない物だったが、それでも悪い気はしなかった。
地の底を這うような生活に比べれば、綺麗に着飾り褒め称えられるあの生活は夢のようだった。
けれど、何かが違っていた。
何一つ満たされなかった。
「是非今一度魔界へお戻りください!! 魔将軍たちも貴女様の帰城を今か今かと……!!」
「――待ってくれない?」
熱弁を披露するように大きく開かれたセリゼウスの口が、妙な形で止まった。
「そんな事にダリアが必要なの?」
一瞬、静かな問いかけが誰のものかもわからず、ダリアは視線を彷徨わせた。
「そんなくだらない事に」
視線が止まる。
そこには、ゆっくり自分とセリゼウスの間に入るイナキの背があった。
「くだらないだと!? 謁見は魔界平定の大切な行事だ!! それをくだらないとは何か!?」
目をむいてセリゼウスが怒鳴っている。イナキはその姿を静かに見詰め、口を開いた。
「黙れ。くだらないと言ってるんだ。魔王を娼婦のように扱うのが魔将軍の仕事か?」
静かな言葉。
ダリアの心臓が大きく一つ、鼓動する。
その瞳を覗き込まなくても、ダリアは覚えている。この静かで冷徹な空気を纏ったときの彼の瞳がいかに強く、魅惑的であるかを。
「イナキ」
泣きたくなるほど嬉しくなる。
彼が何に怒りを向けているのか、その理由を知るだけで。
同情でもいい、哀れみでもいい。
少しでも深く、彼の心に食い込みたい。水晶の神託が間違いだったとき、それを凌駕出来るほどの絆が欲しい。
ダリアはゆっくりと身をかがめる。
「悪いがセリゼウス、私は戻る気はない。戻るならイナキを夫に迎え入れるときだ」
愛しい命を胸に抱き寄せ、現魔界統治者は艶然と微笑んだ。