第一話  珍客乱入


 真新しい木の香りがこもる部屋の窓を開け、武蔵イナキは夜空を見上げる。
 外の風景は今までどおり何の変哲もないのに、それでも以前とは全く違うかおを少年に見せた。
「落ち着かない……」
 ポツリと呟く。
 放火魔によって全焼した旧武蔵家は、降って湧いたような幸運で建て替えられた。建てつけが悪い傾きかけた平屋は庭を合わせるとなかなか広く、現在そこには三階建ての立派な家があり、イナキはその三階の一室を与えられた。
 今まで狭い、汚い、プライバシーゼロの生活を12年間送ってきた少年にとって、例え六畳一間とはいえ初の一人部屋はとてつもなく広く感じた。
 しかも、以前使っていた家具は火事で総て燃えてしまったため、部屋にあるのは使い慣れない物ばかりだ。
 落ち着かないのは仕方のないことだった。
 そして。
「落ち着かんのか、イナキ」
 フンフンと頷きながら、張りのある艶やかな女の声が彼の言葉を反芻する。
「……どこから入ってきたんですか、先生」
 イナキが問いかけると同時に細くしなやかな白い腕が少年の体を包み込む。不意に訪れた柔らかな感触は、確認するまでもなく彼女の肢体がもたらすものである。
 イナキは頬をくすぐる黒髪にわずかに眉根を寄せた。
「座標固定は上手くなったんだ。お前のいる所ならどこへだって行く」
 相変わらず意味のわからない事を言ってのける彼女の名は三笠みかさダリアと言う。自称魔界の王にして、驚くほどの美貌と肢体を持ち合わせた小学校教師――さらに加えて言うのなら、小学生であるイナキを口説き落とそうと画策する立派な変態である。
 彼女の過剰なスキンシップに慣れてしまったイナキは、背後からセクハラをする女教師に顔を向けた。
「魔界とかに戻らなくていいんですか?」
「行くならお前も一緒だ。祝儀が楽しみだな!」
「……」
「何だその目は!? まだ疑ってるのか! お前は私の未来の夫で、魔王の伴侶だ!!」
「――別に、疑ってはないけど」
「嘘だ!!」
 最近、勘がいいらしい。
 過去の経緯から彼女が普通の人間ではない事はよくわかった。
 しかし魔王≠ニいうのは素直に納得できないものがある。一時は信用しようかと思ったが、一緒に生活すればするほど、彼女の行動がどことなくその立場にふさわしくないように感じてしまうのだ。
「何が気に入らないのだ!?」
 絡み付けた腕に力を込め、豊満な胸を押し付けて真っ赤になっている彼女の姿はどちらかと言うならただの駄々っ子である。
 別に気に入らないというわけではないのだが、それを言うとダリアの行動がどんどん増長されそうな気がして、イナキはこの事に関しては沈黙を守り続けている。
 何かあったら警察沙汰だ。
 いくら家族が歓迎してくれているとはいえ、同じ屋根の下で教師と生徒が暮らしている現状はあまり普通とはいえない。
 その上で何か間違いがあったら、確実に紙面を飾る事だろう。
 若干常識の欠落した女教師は、生徒に色仕掛けで迫ってくる危険なタイプである。
 甘い顔をしたら最後だ。
「キスまでした仲なのにッ」
「……それは何かの間違いです」
「お前からしたんだろ!?」
「だから、間違い」
「イナキ〜!」
 ダリアが歯痒そうに唸っている。
 その子供っぽいところが可愛いなんて、決して本人に言ってはいけない。
 泣きそうな顔をしているからといって抱きしめていたのでは、どんどん道徳から外れていってしまう。
 小さく溜め息をつくと、何かを勘違いしたらしいダリアが背後からイナキを抱いていた腕にさらに力を込めた。
 イナキは瞳を細め、諦めたようにその細い腕に手を添えた。
 その、瞬間。
 何か別の気配≠感じ、イナキは視線を部屋の中へと向ける。
 そして彼は室内の異常事態に目を見張った。
 部屋の中央、何もないはずの空間に火花が散っている。
「――荒っぽい座標固定だな」
 同じ場所に目を向けたダリアが、イナキを背後から抱きしめたままそう呟いた。
「座標固定?」
「そう。一番一般的な移動手段。上手く固定できないとミンチになるのだ」
 満面の笑みで物凄い事を言ってのけたダリアの顔をイナキは思わず見上げた。
「それでオレを魔界に連れて行くんだろ?」
「ああ」
「――大丈夫なの?」
「勿論だとも! 上手くなった!!」
 ヒクリとイナキの顔が引きつる。
 上手くなったという事は、まだ完璧でないという意味にもとれる。爛々と目を輝かせている女に一般常識は微妙に通じない。
「それ、本当に大丈夫?」
「異界を繋ぐのはちょっと心配だ!」
 自信満々に不安な事を言う魔王を、イナキは半ば呆れ顔で見詰め、そして慌てて部屋の中央を見やった。
 部屋の一部が不自然に歪んでいる。
「ふむ、初めてこっちに来るヤツか? なかなか手こずっているな」
 ダリアはそう言うなりイナキを解放し、部屋の中央へと歩み寄る。
「私の元へ一番に来るなら、魔将軍が一人であろうな。拝顔させてやろう」
 にんまりと笑い、彼女は歪み続ける空間に腕を差し込んだ。
「ダリア!」
 驚いてイナキが彼女の名を呼ぶ。放電し、歪み続ける空間の中に差し込まれた腕はあらぬ方向へと曲がっていた。
「心配するな」
 ダリアは微かに笑い、差し込んでいた腕を引き抜いた。
 色とりどりの布の塊が派手な音をたてて床に落ちる。しかし、イナキはその布よりも、ダリアの腕を見て顔色を変えた。
 イナキは駆け寄るとダリアの腕を取った。白い腕の一部がえぐれ、骨が見えている。薄いピンク色の肉はあっという間に血の色に染まる。
「大事無い」
「大怪我だよ! 救急車を――」
「大丈夫だ、イナキ」
 そう言うなり、ダリアはえぐれた傷口を覆うように空いている手をのせた。
「自分の体ぐらい自分で面倒をみる。――ほら」
 そう言ってはずした手の下には、傷一つない白い肌があった。
 唖然とするイナキに、ダリアは小首を傾げるように微笑んでみせる。
「これぐらいできんと、魔界では半日も生きられん。中には鋼のような肉体の者もいるがそれは稀だ。攻撃と治癒は対だからな。防御が重視されないのは謎だが」
「ダリア様!」
 彼女の言葉と重なるように、男の声が室内に響く。イナキは声の出所を探し、すぐに派手な色彩の布の塊を凝視した。
「お探しいたしました!」
 布がガバリと立ち上がる。
「……貴様は……」
 ダリアが布の塊からようやく顔を発見し、少し考えるように間をあけた。
「セリゼウスです!」
「おお、そうだった!」
 あまりにわざとらしく手を打つダリアに、イナキはしらけた視線を向ける。本気で男の名を忘れていたらしい。
「何の用件だ? くだらん内容なら叩き出すぞ」
 爽やかすぎる笑顔で人差し指を立てながらダリアがそんな事を言っている。遠路はるばる訪れた客人をねぎらう様子は微塵もない。
 ひどい女だとイナキは呆れるが、このダリアの言葉に慣れているのか、セリゼウスと名乗った派手な布の塊は全く動じた様子もなく、絵筆で描かれたようなピンと上をむいた髭を筋張った指で撫でている。
 そういえば、ダリアの召使いのヴェルモンダールという男も口髭を生やしている。彼は鼻の下に手入れされたちょび髭があるのだが、毎朝かなり念入りに整えていた。
 ――流行なのだろうか。
 心中複雑なイナキは、皺だらけの顔の男をじっと見詰める。大きな丸い弧を描く帽子は様々な布を縫い合わせた無駄に派手な色彩をしている。
 着ている服もゆったりと弧を描き、派手な色彩とあいまって異様な雰囲気を出している。そして、彼が穿いているのはツッコミを入れたくなるような派手なかぼちゃパンツ。当然白タイツは外せないアイテムだ。
 彼自身はかなり細いが、身につけている服が全体的に丸みを帯びているから非常にバランスが悪い。おまけに床に引きずるほど長いマントまで常備している。
 捕まるな、これは。
 イナキは男を見て冷静にそう判断した。
 不審者として捕まる。まず間違いなく、確実に。
 早急に着る物を用意したほうがいい。どうせダリアの知り合いなら、常識なんてあてにならない。家にある服を渡してさっさと普通のオヤジ≠ノ見えるようにしないと、家族に見付かったときにも言い訳が面倒だ。
「なんと質素なお姿で!!」
 セリゼウスがさめざめと泣いている。
 お前の格好が変なのだという言葉が喉元まで出かかったが、イナキはなんとか呑み込んだ。
「動きやすくていいぞ。で、用件は何だ?」
 平然と返し、ダリアは男を見ている。
「恐れながら申し上げます。ダリア様が若造にたぶらかされたと聞き及び、せ参じた次第であります」
「何を言う、セリゼウス。たぶらかしているのはこの私だ」
 男の言葉にイナキの頬が引きつらせると、笑顔でダリアがそう返した。
「は!? ではそれがしの情報収集能力に問題があるのですな!?」
「うむ」
「……ちょっと待て。何か会話が間違ってないか?」
 どこかずれた話に付いていけず、思わずイナキが口を挟んだ。
 突然会話に乱入したイナキを、セリゼウスが上から下まで値踏みでもするかのように不躾に見て、ダリアに向き直る。
「この小童こわっぱはなんでございましょう。下働きでございますか?」
 丁寧な嫌味に、ダリアがにっこりと笑った。
「私の未来の夫だ。つまらん冗談を言うなら二度と喋れんようにするぞ?」
 ダリアの一言に、セリゼウスがあんぐりと口を開けてイナキを凝視する。
 突き出されたセリゼウスの指がイナキを指差そうとして失敗し、ピクピクと小刻みに痙攣している。
 痛いほど彼の気持ちがわかるイナキは、なるべく表情を変えないよう努力してセリゼウスに向き直った。
「よろしく」
 真っ青になって固まる男に、少年は短く言葉をかけた。

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