【5】
目を開けると、真っ白な天井が視界を覆った。
初めて見る部屋に状況が把握できない。
「もうそろそろ起きる頃だと思った」
ダリアの声が聞こえる。イナキは彷徨っていた視線を声のするほうへ向けた。
女の後ろ姿が見える。背格好はダリアそのものなのに、その後ろ姿にはあの美しかった黒髪がない。腰まであった濡れるような髪は、肩の上で綺麗に切りそろえられていた。
「……ダリア……?」
茫洋とした声で呼びかけると、女が振り返った。
髪型はすっかり変わっているが、振り返った顔は今まで散々電波系だと思っていたダリアのもので――なぜか、ホッとした。
「オレ……?」
「ん? ああ……すまん、三日間昏睡してた」
「昏睡?」
それで何故ダリアが謝るのだと、イナキは首を傾げる。真っ白な見知らぬ部屋は、どうやら病院の病室らしい。
何があってこんな事になったのか、よく思い出せない。
確か、あのキスのあと――ダリアが消えて、その一分後には家族が目の前に現れた。
その後は、覚えていない。気付いたら、今だった。
「……何があった……?」
釈然としない面持ちでダリアに問いかけると、彼女は丁寧にむいたリンゴを皿の上に乗せておぼつかない足取りで運んできた。
「う〜ん、それが……」
一瞬だけ言葉を濁し、キャスターの上に皿を置いて、ちょこんと丸椅子の上に腰掛けてから小さく息を吸った。
「その、誓約のキスのつもりが、少し深くしすぎてお前の生気まで取ってしまって」
「……」
「た、倒れてるイナキを見たら、こっちのほうが倒れそうになった」
「…………」
もともとは淫魔だと言っていたのだから――もう、あの奇跡を目の前にしたらどこまで信用していいのかもよくわからなかったが、ダリアは普通の人間じゃないという事だけはわかったから――だから、これも信用することにした。
なんとなく自暴自棄な気もするが、いちいち突っぱねているわけにもいかない。
ダリアは本当にキス一つで願いを叶えてくれたのだ。
大切な家族を救ってくれたのだ。
初めてのキスがあそこまでディープなのもどうかという気もするが、ひとまずそれは横に置いておこう。
「……髪」
せっかく綺麗な黒髪だったのにと、イナキは言葉にせず手を伸ばした。
「うん、さすがに焦げた。――変か?」
不安げな表情でダリアが問いかけてくる。その顔が妙に子供っぽくておかしかった。魔王がこんなんじゃ、きっと魔界とやらは大変だろう。
「いいんじゃない?」
短くなった髪を梳きながら言うと、ダリアが照れたように笑っている。
「そ、そうか! う、うんとな、それで!! あ〜……ああ!」
必死で間をもたせようとするダリアの姿が可愛らしく見えて、イナキが小さく笑った。
「う……なんだ? その笑い方は?」
「別に。で、何?」
「……あの痴漢、捕まったぞ。ストーカーというヤツらしくて……拒絶されたから火をつけたとか……ワケがわからん。元々イラついてて放火も繰り返していた常習犯らしかったが、危うく大惨事になるところだった。あの外道、丁寧にも出入り口全部塞いでから火をつけたらしい」
「……」
「…………それで、その……」
「先生のせいじゃないでしょ、それは」
そう言うと、ダリアの顔が泣きそうに歪んでいた。
「皆、同じ事を言ってくれるんだな」
きっと家族にも同じ事を言われたに違いないダリアは、泣きそうな顔のまま笑っていた。
それが本当に可愛く見えたから、イナキは髪に触れていた手をそっと移動させ、彼女を引き寄せた。
驚いたような彼女をそのまま引き寄せて、触れるだけの優しいキスをする。
「……無理は――しなくていい。契約は結ばれた。だが、強引に魔界に連れて行ったりはしない」
真っ赤になりながら、ダリアは視線をそらして口早にそう告げる。
「私はお前が望んだときに、魔界へ連れて行く。いつまでも待つ」
「先生……」
「たとえ百年でも二百年でも!」
「――先生、そんなに待たれたらミイラだよ、オレは」
「…………何ィ!?」
ダリアが本気で目をむいている。
さすがは魔界の住人、一般常識がかなり欠落しているようだ。いや、彼女だから抜けているのかもしれない。
苦笑して彼女に触れていた手を離した。
その瞬間を見計らったかのように、病室のドアが開いた。
「お加減はいかかでしょうかな、イナキ殿」
ロマンスグレーの口髭紳士、ヴェルモンダールがにこやかに入ってくる。ダリアが普通の人間でないとなると、彼もやはり普通ではないのだろう。ウインクする紳士は、まるで病室を覗いていたかのような完璧なタイミングで入ってきたのだ。
本当に見られていた気がして、イナキの苦笑が深くなる。
「ケーキ買ってきたよ〜!!」
老紳士の肩に、白い箱がちょこんと乗っかっている。
「目ぇ覚めたか〜?」
「あらあら、本当に起きてるわ」
「おはよう、眠り姫!」
明るい声と共に、ヴェルモンダールのあとからぞろぞろと入室してきた両親と兄弟を、イナキは驚いたように見詰めた。
「私達が寝込むならわかるけど、なんでイナキちゃんが寝込んでるのよ〜!」
笑顔でなぎさがそう声をかける。
その理由はとても言えないから、イナキは苦笑するに留めた。
「あの時の記憶、消してある」
寄り添うようにして、ダリアが小さくイナキに告げた。
「うん……」
たぶん、それが最良だと思う。
彼女にはとても大きな借りができてしまったが、それも別に苦痛ではなかった。
「それに比べてダリア先生かっこよかったよね! 火事場の馬鹿力ってやつ!? 皆運んじゃうんだもん! すごいよね〜!!」
「……」
「……何故かそんなことに」
「あぁ、そう」
まあ、本当に腕力はあるからあながち出来なくもないわけだが、それにしたってあの劫火の中、全員を運ぶのはいくらなんでも無茶だと思うのだが。
「それでね、イナキ」
今度は興奮して母が口を開く。
「これ!!」
すすけた小袋は、宝くじの入った見慣れたものだった。
「当たっちゃったの!!」
ぱぁあっと、母の顔が輝いている。何故か家族一同、目の輝きが異様だった。
「い、いくら当たったと思う!?」
「……さぁ」
「言ってみて、いくらだったと思う!?」
いつになく興奮している母につられて、イナキ以外の武蔵家一同は異様な鼻息で少年に詰め寄ってきた。
「わかんないけど、……一万円?」
妥当な金額を言うと、母がおかしな悲鳴をあげた。
「違うのよ!! 一等!! 前後賞!!」
母の言葉と同時に、全員が悲鳴をあげている。ジャンボ宝くじの一等前後賞というと、その金額は破格だ。
有り得ない。
絶対ありえない。
なぜなら彼女が買ったのは、バラ≠ナあって連番≠フ宝くじではないのだ。一等前後賞が当たるなんで、まず間違いなく有り得ない。
「……ダリア」
「はい」
悲鳴と奇声をあげ続ける家族を遠い目で見詰めながら、イナキは低く魔王の名を呼んだ。
「あれ、あんたの仕業?」
答えずに、ダリアがにっこり笑う。
なんて無茶苦茶な女だ。
いやその前に、浮かれすぎてバラの宝くじで一等前後賞が当たるはずはないというそんな単純なことに気付かない家族にも問題がある。せめて、確率はゼロではないが、限りなくゼロに近い事ぐらい気付いて欲しい。
「これで、イナキは自由だろう?」
小さくダリアは問いかける。
「もうお金はいらないから、これでイナキの未来はイナキのものだろう?」
「……」
どうして自分があそこまで必死に勉強を続けていたか――その理由を、ダリアには知られてしまっていたらしい。
ずっと先の未来に手に出来るかもしれない金で家族を助けたいと思っていた。助けられるはずだと信じていた。
その目標だけを胸に今まで頑張ってきて、そして今その大切な目標が失われたのに、何故か心にあるのは大きな安堵感だけだった。
本当に――参る。
彼女は偽りなく、望む未来をくれた。
家族が心から笑っていられる時間をくれた。
イナキはそっと彼女にもたれかかる。
「ありがと」
「……うん」
小さな囁きに、小さく頷く。
「でね!!」
心地よい空間を邪魔するように、なぎさが高い声を出す。
「お家焼けちゃったから、そこに新しく家建てるんだよ!!」
「ああ」
さりげなくダリアから離れながら、イナキが相槌を打つ。あの状況なら家は全焼だから、確かに建てるか借りるかしないとまずいだろう。
「で、ダリア先生も一緒に住む事になりました〜!!」
「へぇ――って、えぇ!?」
これには驚き、イナキが声をあげる。
「だって、宝くじ持ち出してくれたの先生じゃない? 先生の住む場所まだ決まってないし、ねぇ? だったら、一緒に住みましょって?」
母も満面の笑みで頷きながらそう口にした。
「大賛成〜!!」
デレデレの笑顔で翼が手を上げている。
「ダリアちゃん、一緒だもんね〜!!」
弥生と蛍が両手を合わせて同じように小首を傾げて笑っている。
すでに決定事項らしい。
「――イナキの部屋の隣がいい」
ダリアはダリアで、余計なことを言っている。
「間取り決めないといけないねぇ。ああ、執事さんもいかがです?」
父がヴェルモンダールに声をかけている。彼は嬉しそうに目じりを下げた。
「ほう、ワタクシも呼んでくださいますか?」
「そりゃもう、先生の執事さんが困っているんですから!!」
寝ている間に、何故か家族ぐるみのお付き合いを始め、ヴェルモンダールは執事という事になってしまったらしい。
これはもう、笑うしかない。
笑顔に包まれた空間を見詰めながら、イナキは双眸を閉じる。
未来なんてどうなるかわからないけれど、イナキは楽しそうに笑っているダリアの手をそっと握った。
驚いたように振り返る彼女に微笑みかけて――
彼は、このぬくもりがこれからも変わらずここにあり続ける事を願った。
=end=