【4】


 隣を見ると、今まで文句一つ口にしなかったイナキもさすがに疲れたような顔をしていた。
 イナキが実年齢より大人びていたため、警察のほうも気兼ねなく事情聴取につき合せていたらしい。もっと早く帰してもいいような物を、担当の刑事が饒舌だったのと、どうやら最近かなり警察の頭を悩ませていた犯行が重なっていたため、聴取に通常より長い時間がかかったようだ。
 遅くなったついでだから現場検証もしようか、と言い出した刑事にいやな顔一つせず付き合ったイナキは、また後日出頭してくれと言う刑事の言葉にも快く応じていた。
「イナキも疲れたか?」
「ん……少し」
「明日が休みでよかったな。もう午前様だろ?」
「……どうしてそういう言葉は知ってるんだ?」
 微苦笑でイナキが小首を傾げる。人様からいただいた知識に新しいものを追加して、自分なりに解釈しながら日常会話を成立させる――なかなか高度な技法だが、一瞬だけでも疲れを忘れたように笑う彼を見て、ダリアも小さく笑った。
 言葉自体はあまり上手く扱えていないかもしれないが、それでもいいと思う。
 澄んだ夜空を仰いで、ダリアは大きく背伸びをする。
「いい星空だな」
 澱んだ魔界の空とは違う。肌にまとわりつくようなあの不快な空気も慣れてしまえば悪くはないが、この世界の、まるで夜空さえも洗い流してしまいそうな爽やかな空気も悪くないと思った。
 慣れないそれが心地よいと感じるのは、きっとイナキが傍にいるからだろう。
「うん、明日も晴れみたいだね」
 イナキも空を仰ぐ。風が緩やかに柔らかそうな髪を撫でていく。
「……」
 触りたい、と素直に思った時には、手が勝手に伸びていた。
「……なに?」
 思わずぐりぐり触っていると、イナキが怪訝そうに顔を向けてきた。
「魔界に来る気はないか!? 結婚前提で付き合ってくれ!!」
 真顔で口説くと、少年は呆れたような表情で溜め息をつく。それがまた妙に大人びた顔で、本当に心臓に悪い。
「あのね、先生。それは小学生に言う言葉じゃないし、第一、魔界ってどこですか?」
 相手にされていない。
 本当にことごとく、これほど真面目に言っているのに全く毛ほども相手にされていない。それがありありとわかる口調で、イナキはまっすぐにダリアに言葉を投げかける。
「魔界とこことは次元が違っていて、移動方法は座標固定なんだ!! 最近上手くなった! お前を連れて魔界まで行く――には、もうちょっと練習がいるが!!」
 引いている。
 イナキが思い切り、引いている。
「お前は私の夫なんだ!!」
「だから、なんでそうなるの?」
「水晶の見立てなんだ!!」
 初めはそれだけの理由でイナキに近付いた。まさか――まさか本当に好きになるなんて思ってもみなかったから。
 共にいて、己の力を高めるためだけに選ばれた者だと割り切っていたから、そのためにイナキが必要なのだと、それだけの理由だと思っていたから――
 なのに。
「――その水晶の見立てがなければ、オレの前にはいなかったって事?」
 的を射た言葉を返され、ダリアは息をのむ。
 たぶん、水晶が神託≠下さなければ一生会うことはなかったと思う。
 けれど、出会って好きだと自覚してしまった。
 あの水晶が見せたように、未来の彼の傍にいるのが自分であって欲しいと、そう思ってしまった。
 その心は嘘ではなかった。
「イナキ――私のどこが気に入らない!?」
「……いや、そういうレベルの問題じゃ……」
「ヤマトナデシコが好きなのか!?」
「……だから、なんでそんな言葉知ってるんだよ……」
「悪いところは直す!! だから私の夫になれ!!」
 イナキの顔がどんどん困ったような表情に変わっていく。
「でかい女は嫌いか!?」
「う〜ん。それ以前に、魔界の王とか言ってることが――」
「わかった!!」
 ダリアは握り拳で頷いた。
「王位はヴェルモンダールに譲る! だから一緒になれ!!」
「………本当にわかってないでしょ?」
「違うのか――!?」
 何がいけないのだろう。イナキが嫌がるなら王位なんていらない。もともとなりたくてなったわけではないし、確かに魔界に争いのない今の状況はいいことだが、イナキが傍にいてくれないのなら、こんな平和は守るに値しない。
 だから王位を捨てようと言っているのに――何かが違うらしい。
「あのね、先生……」
 言いかけたイナキが、ふと視線をダリアから外した。
「どうした?」
 不審に思ってダリアも彼の視線をたどり、そして小さく声をあげる。
 人気のない薄暗い道で、不自然にひょろ長い影がポツリと立っている。それはゆらゆら揺れながら、何かを窺うようにわずかに上下していた。
 その影が、ゆっくりと何かに気付いたようにこちらに顔を向けた。
「痴漢だ!!」
 ダリアが叫ぶ。
 細い体にボーダーシャツ、色落ちしたアーミーパンツ、そしてボサボサの長い髪を隠すように目深にかぶられた野球帽――それは数時間前にダリアの体に触れようとした不届き者の姿だった。
 男は青白い顔をイナキとダリアから外し、脱兎のごとく反対方向へ走り出した。
「待て貴様、よくも私に触ろうとしたな!? 私はイナキのものだ――!!」
「先生、先生、なんで確定してんだよ!?」
 大声で怒鳴りながら走り出したダリアにぎょっとして、イナキも慌てて足を踏み出す。
「私が決めたんだ! 他の女には渡さん!! 絶対魔界に連れて行く!!」
「だ、だからあんた電波系なんだよ!」
「電波じゃない――!」
 男を捕まえようと走りながらも、キャンキャン怒鳴りあう。
「魔王の伴侶はお前なんだ! 水晶の見立てなんてどうでもいい! 私がお前の傍にいたいんだ! だから!!」
 ギッとダリアは前方を走る痴漢を睨んだ。
「もう私はイナキのものなんだ!!」
「勝手に決めるな!!」
 真っ赤になりながらイナキが叫んでいる。その顔もいいと思ってしまう自分はかなり重症なのだろう。
 ダリアはそう思いながら、視界にちらつくオレンジの光に動きを止めた。
「――火が……」
 先刻痴漢が見ていた先は、ダリアのよく知る場所だった。
 この世界に来て、一番心地よいと感じるようになった小さな小さな陽だまりのような場所。自分のような余所者さえ、暖かく迎え入れてくれた大切な家。
「イナキ、家が――」
 ダリアが声をかけるよりも早く、彼もまた、動きを止めていた。
 その足が、瞬時に劫火に包まれていく武蔵家に向く。
 躊躇うことなく家へ飛び込もうとするイナキの体を、ダリアはとっさに押さえつけた。
「無理だ! 火の手が早い!!」
「放せ! 中に皆が――!!」
 家屋の中から聞こえる悲鳴に、赤々と燃える炎に照らされるイナキの顔が絶望に歪んでいく。
「イナキ、助けられる。お前の望みならなんでも――私が、叶える。イナキ――」
 劫火に包まれた家を震えながら見詰めていたイナキは、ダリアの言葉に体を硬直させ、弾かれるように彼女に向き直るとその体を強引とも思える力で引き寄せた。
 射るような眼差しが近付いてくる。わずかに触れ合った唇が誓約の言葉よりも早く、短く命令を下した。
「だったら助けろ、ダリア」
 間近にある体を、ダリアは抱きしめる。
「――うん。お前の望みなら、なんでも叶える」
 抱きしめてそのまま、ダリアは深く口付けた。腕の中の小さな体がピクリと反応する。歯列を割って差し込んだ舌を彼のものに絡めても、彼は抵抗することなくそれを受け止めた。
 ダリアは瞳を閉じる。
 優しい想いが流れ込んでくる。
 家族を大切に――とても大事に思う、イナキの心。自分の未来を捨てて、夢さえ捧げて、彼は彼なりの方法で家族を守ろうとしている。
 一人部屋に閉じこもって必死で勉強する意味も、家族と孤立したいからではなく、少しでも知識を自分の中に詰め込もうとしているからだった。
 今の自分を殺してまで、未来の自分に家族を託そうとする少年。
 窮地にある両親を助けるために、家族がバラバラにならなくてもいいように、彼の未来は彼の望みの上に存在し続けている。
 ダリアは優しく微笑んで、イナキを解放した。
「待ってて。すぐに助ける」
 そう残して、ダリアは地を蹴った。茫然とするイナキは一瞬で目の前から消え、次の瞬間、彼女の目の前には轟音をたてて燃え盛る炎の柱が立ち並んだ。
 全身を熱気が包む。
「先生!?」
 突如として現れたダリアに、なぎさが声をあげる。振り向くと、寄り添うようにして一家が集まっていた。
「他には――いないな!?」
「う、うん! ど、どうやって入ってきたの!? ドア、みんな開かなくて――!!」
 ボロボロ泣きながら、なぎさがダリアにしがみつく。
 熱くなったその肩を軽く叩いて、ダリアは微笑した。
「少し記憶をいじらせてもらうが、許せ」
「え……?」
「イナキが待ってる。最近、座標固定が上手くなったんだ。毎日イナキに触りたいばかりに頑張ってきたが、これはなかなか役に立つ」
 なぎさを家族の元に導いて、ダリアは寄り添う彼らを包み込むように両手をひろげた。
「未来にイナキをもらっていくよ。彼は私の大切な――大切な人なんだ」
 驚いたように見詰めるそれぞれの視線をまっすぐ受け止め、ダリアが微笑む。その微笑をたたえたまま、大きく広げた手に力を込めた。
 寄り添うように集まっていた体がぶれ、瞬く間に姿を消した。
 本当に、座標固定が上手くなった。魔界での座標固定はその空気に混ざる瘴気によって大きくずれてしまってかなりのリスクを伴うが、この世界にはその瘴気が存在しない。
 座標固定は魔界より楽にできるはずだった。
 しかし、生来そんなものとは無縁の生活を続けていたダリアにとって、座標固定は難易度の高いもので――イナキがいなかったら、ここまで必死に練習することはなかったように思う。
 こんな所で役に立ったと伝えれば、きっと彼には呆れられてしまうだろうが、それで彼の大切な者が守れたのだから悪くない結果だった。
 ダリアは立ち上がり、ふと台所を見る。
「……宝くじ」
 目に付いた小袋を手にするために、彼女は火の中に飛び込んだ。
「お前の望む未来をあげる。だから、イナキ――」
 すすけた小袋を掴んで、それにそっと唇を当てた。劫火が視界を奪う。
 ダリアは過去に思いをせながら、優しかった空間を見渡しゆっくりと床を蹴った。

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