【3】


 イナキは受話器に耳を当て、何度も小さく頷いた。
「ん……大丈夫、オレも先生も怪我ないし。それより、夕飯――」
 受話器から飛び出す高めの声に、イナキは苦笑した。
「うん、ゴメン。事情聴取まだかかるみたいだから――なんか、モンタージュの作成も手伝って欲しいって言われて。ん――? うん、ご飯さき食べてて?」
 言葉が終わらないうちに、ふわりと背中が柔らかく包まれる。
「うん、寝ちゃってていいよ。明日話す」
 首に回された白い腕をあやすように軽く叩いてから、イナキは受話器を戻した。豊かな黒髪が彼の頬をくすぐる。
「疲れたの?」
「う〜……」
 相当にまいっているらしいダリアに、イナキは苦笑する。時計を見たら、10時をとうに過ぎていた。
「モンタージュまだでしょ?」
「モンタージュ?」
「似顔絵。犯人見てるの先生だけなんだから」
 あまり奇麗とはいえない廊下を忙しそうに歩く人たちが、ぎょっとしたように小学生と、それに抱きついている美女を見る。イナキはそんな彼らに愛想笑いを振りまきながら、ちらりとダリアを見た。
 ほんの一瞬離れたすきの出来事だった。
 大量に買い込んだ食材をいったんダリアにあずけて、数分間本屋に行ったのは――たぶん、7時少し前だったと思う。
 外から聞こえてきた声にイナキが驚いて本屋から飛び出すと、そこにはケロリとしたダリアと、彼女を囲む人垣があった。
 人垣と騒ぎの原因を聞くと、
 おかしなヤツが胸を触ろうとしたから投げ飛ばした。
 と、笑顔で返した。
 最近、痴漢が多発している。まさか数分で遭遇するとは思っていなかったイナキは、本を買うことも忘れて本屋を後にした。そしてその途中、街灯もまばらな薄暗い道で今度はひったくりに出会ったのだ。
 二人組みの彼らは、一人は絶妙なハンドルさばきでバイクをダリアの真横につけ、後部座席のもう一人がバッグを盗むというありきたりな手口で犯行に及んだ。
 痴漢のときは見事に取り逃がしてしまったダリアは、このひったくり犯に激昂、イナキが持っていた2リットルのペットボトルが四本入った袋を奪うやいなや、彼らに思い切り手加減無しで投げつけた。
 ――怪力の持ち主だと思う。
 8リットルをあの細腕で軽々と投げるのは――やはり、怪力ゆえだと思う。
 バイクはその衝撃で真横の壁にぶつかり、後頭部を強打した後部座席のひったくり男は昏倒し、ハンドルさばきが絶妙だった運転手はそのまま逃走。
 しかし、犯人は十分後にダリアに捕まりさらに十分後にはパトカーに押し込められた。
 もちろんこんな状況なので警察に同行するハメになり、イナキは野次馬の中に兄弟を発見すると買い込んだ食材を押し付け、簡単な事情を説明してダリアと共にパトカーに乗り込んだ。そして警察では担当の刑事がいないとかで待たされ、もう帰ろうと立ち上がったところで担当刑事が登場、事情聴取が始まったのである。
 その一件で終わっていたら、九時には解放されていたと思う。
 痴漢の件をダリアが口にしなければ。
 さらに、彼女がその痴漢に見覚えがあると言い出さなければ――とっくに、家についていたと思う。
「で、その痴漢、先生の知り合いなんですか?」
「知らんよ。もともと、私に知り合いなどいない。私を知るのはヴェルモンダールだけだ」
 ヴェルモンダール――下僕だの召使いだのと言われた、スマートな初老の男。あわや笑いを取れそうなアイテムと化す口髭さえも似合ってしまう、不思議な雰囲気の男性だった。
 温厚そうな彼の顔を思い浮かべ、ダリアに話を合わせるのは大変だろうと同情した。
 彼女は時々おかしなことを口走る。最近は恐ろしいことにその戯言に慣れてきた自分がいて、これがなかなか笑えない状況だ。
「この頃視線を感じて――見ると、その男がいる。別に声をかけるわけでもなく、ただじっと見ているのだ。おかしいとは思わんか? それが今日になって手を出すとは――全くもって、理解できん」
「…………」
 それはたぶんストーカーというヤツで、そして、ダリアが一人になったときを見計らって痴漢したと言う事なのではないのか。
 ダリアのこの鈍さも並大抵のものではない気がする。ストーカーは色々と世間を騒がせる犯罪でもある。ひと頃よりは人々の話題に上ることも少なくなったが、それでもその被害者が減ることはないだろう。
 気付かぬうちに被害者になっている場合もあるだろうし、ダリアのように、知っていても気付かない人間もいるに違いない。
 やっぱり、夜道は危険だと思う。
 離れていたわずかの時間にそんな危険な人間と二人きりにしてしまったことに反省し、イナキはまだ少年といっても十分差し支えない手で、ダリアの腕に手を添えた。
 自分が傍にいたときには何もしてこなかったという事は、少なくともその存在が相手にとっての障害となっているに違いない。
 ならば、傍にいればいい。
 たぶん一人で痴漢も通り魔も、ひったくりと同じように撃退してしまうのだろうが、その行為自体が危険であることには変わりなかった。
 女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
 例えそれが――
「イナキ」
 背後からセクハラする痴女だったとしても。
「……先生、苦しんですけど?」
 何を思ったのかキュウキュウ腕に力を入れてくるダリアに、イナキは静かに現状を伝える。首がかなり絞まってきているし、警察の廊下で生徒と先生がスキンシップにいそしむのは――かなり、目立つ。
「私は家に帰りたいのだ」
 図体がでかいくせに、涙声でそんなことを言いながら駄々をこねている。
「お前もいないし、もう嫌だ」
 教師のクセに、年上のクセに、ダリアはひどく子供っぽい仕草をするときがある。
 別にそれは、嫌いではないけれど。
「オレもモンタージュ手伝うから、早く終わらせて家に帰ろう」
 苦笑を隠してそう提案すると、ダリアの腕がパッと離れた。
「本当か!?」
 嬉しそうな笑顔と共に顔を覗き込む。こうなると、もう嫌とは言えない自分がいる。
「家、帰りたいんだろ?」
 そう問いかけると、大きく頷いてダリアはイナキの手を取る。先刻とは打って変わって、妙に足取りが軽い。
 家へ。
 まるで自然に漏れた言葉に違和感がない。ほんの数週間前は見ず知らずの、全く接点のない人間だったと言うのに、今は誰よりもイナキの近くにいる女。
「――先生、魔界って何?」
 職員室での会話を思い出し、イナキはそう問いかけた。近くにいるのに、そういえばあまり彼女の事をよく知らない気がする。
 彼女のおかしな話に合わせる気はないが、一通り色々聞いておいたほうが今後の対策が立てやすいのではないかと安易に考えて、イナキは口を開いた。
 しかし。
「魔界は魔界だよ。悪魔のいるところ。ゴミゴミしていて汚らしくて、粗野でバカなヤツばかりだが、私は好きだ」
「…………」
 聞くんじゃなかった、こんな話。
 イナキは出端からそう思った。
「私はもともとサキュバスだが、ヴェルモンダールが王に選んでくれた。玉座は好かんが、感謝はしている」
 ――サキュバス。
 それは、淫魔というヤツではないのか。フェロモン垂れ流しの美女を横目で見て、その作り話に内心呆れた。
 魔界の王ということは、魔王。魔王はサタンだろうとか、そもそもなんで女が魔王なんだとか、そこら辺の質問は、あまりに馬鹿馬鹿しくてする気にもなれなかった。
 いったいどんな環境にいればこんな夢物語を真顔で話す人間になるのか、むしろそっちのほうが謎だ。
 あのヴェルモンダールとかいう初老の男にちゃんと話をつけて、この空想癖を直してもらったほうが世のためのような気がする。かなり世間知らずでもあるし、これから生きていく上で必要な知識は保身の意味を含め、しっかり身につけてもらわないと困る。
「それで、サキュバスも契約できるわけ?」
 なんとなく引っかかって問いかけると、
「サキュバスはできないが、悪魔はできる。今の私は淫魔ではなく、魔界の王――悪魔の頂点なのだ。相応の力は持ってるよ。まぁ、戴冠で手に入れたものだから、正確には私の魔力ではないのだが」
 もっともらしく返してきた。
 自分の中でしっかりと世界を作っているらしい。空想癖というより、妄想癖ではなかろうかと思いながら、イナキは自分の腕を引く女を見詰めた。
 どうせ出身地を聞けば魔界≠ニ答えるに違いない。
 先が思いやられる。
 サキュバスが痴漢にあって警察に来るなど、普通に考えたっておかしいだろうに――ダリアは、イナキの一言に機嫌をよくして妙に楽しそうだった。
「いいけどね……」
 その無邪気とも思える横顔を見て、イナキは呆れたように――けれど優しく、微笑んでいた。

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