【2】
赤ペン片手にテスト用紙を睨んでいたダリアの前に影ができた。
「何か用か?」
よく知る気配に、ダリアは気のない声をかける。あからさまな社交辞令だ。
「何をしておいでです?」
「採点。うむ……この表現、なかなかに微妙なのだ。三角にでもしとくか」
頬杖をついたまま国語のテスト用紙に視線を落とし、現魔界統治者はそう呟いて赤ペンを走らせる。
かなり妙な光景である事はわかってはいるが、この生活も悪くない。なにより、イナキの傍にいつもいられるという事は大きなメリットだ。
時々ひどく大人びた表情をする少年――その瞳の輝きが、その声音が、心の奥に絡み付いて放れない。
どうかしている、という自覚はある。
相手はたかが12歳の少年だ。いくら自分が元々は淫魔の類であるとはいえ――この状況はあまりにも異様だった。
他者を惑わせるために生きてきた自分が、まさか年端もいかない子供に
しかし、この生活が気に入っているのは事実だ。
目の前の側仕えが、思い切り不機嫌な顔をしている事さえどうでもいいと切り捨ててしまえるほど、この生活に執着している。
「ダリア様」
呆れたようなヴェルモンダールの声に、ダリアがようやく顔をあげる。広い職員室に幸い人はいない。きっとヴェルモンダールが人のいない時間を見計らって訪れたか、追い払ったかしたのだろう。別に珍しいことではなかった。
「どうした?」
「……何を言っても、どうせ無駄なんでしょう」
一瞬だけ難しい顔を作って、彼はすぐに微苦笑して肩を落とした。主のことを実によく観察している男だ。
「――すまぬな、しばらく魔界を空ける。空席には誰を据えてもよい、判断はお前に任せるよ」
「そういうと思って、代わりの者を王座に据えてきましたよ。見栄えは悪いが多少は役に立ちます」
「……お前は優秀だな。私にはもったいない側近だ」
「そうお思いなら、もう少し労わって下さい」
ヴェルモンダールはそう言って肩をすくめる。心なしか、いつもきっちりセットされているロマンスグレーの髪が乱れ、顔色も悪いようだった。色々と迷惑をかけていたらしい。
「それで、ヴェルモンダールはこれから――」
途中まで言いかけ、ダリアは口を閉じた。胸の奥をチリチリと焦がす気配が近付いてくる。ヴェルモンダールが呆れ顔をむけているが、かまわずダリアは立ち上がった。
職員室のドアが開く。
「イナキ」
思わず呼びかけると、少年が驚いたように目を見開いた。
「あ……」
どうもダリアに驚いたのではなく、ヴェルモンダールを見て止まっているようだ。外見は壮年の紳士風で、別段これと言って不審な点はない男だが、学校の職員室に部外者である彼がいることが珍しかったに違いない。
「これは、私の下僕のヴェルモンダールだ」
にっこり微笑んで紹介すると、唖然としたイナキの視線がダリアとヴェルモンダールの間を行き来している。
「ご紹介にあずかりました、下僕めでございます」
胸に手をあて、爽やかな笑顔であからさまな嫌味を言うように、ヴェルモンダールはダリアの言葉を反芻した。
「……なんだ、下僕では不満か」
「せめて召使いと言っていただきたいですな」
「……ほう、召使いか。憶えておこう。魔将軍が堕ちたものだ」
「何をおっしゃいます、ダリア様。まだまだ若造になど負けはしませんよ。魔界屈指の腕前、お見せできないのが残念でなりません」
「ふん。口だけは達者だな」
「……」
「……」
微妙なやり取りのあと、お互いがしまったという顔をして、ゆっくりと職員室の出入り口で棒立ちになっていたイナキに視線を向けた。
案の定、イナキがあきれ返っている。
「――ダリア様、彼に魔界のことは……」
ヴェルモンダールが小声でダリアに問いかけてくる。彼女はイナキを見詰めたまま、有能なる召使いに小さく返した。
「悪魔の契約の話はしたが、歯牙にもかけん。色仕掛けにも慣れてきおった。――いつ魔界へ来てくれるやら……」
強引に事を進めたくないから我慢強く契約の話をするものの、まるで相手にされないのだ。座標固定でこっそり彼の後ろを取って抱きついてみても、最近では顔色一つ変えようとはしない。
逃げられるのは切ないが、相手にされないのはもっと辛い。
淫魔として生きてきたころなら相手を落とすために意地になっていただろうが、今は嫌われるのではないかと余計な危惧をしてしまう。
もともと好かれてもいないのだから、本当に余計な危惧であるとはわかっているのに。
わかっていても、そうはできなかった。
「――それで、先生、まだ仕事?」
静寂を掻き消すように、イナキがまっすぐダリアに問いかけてきた。
「え……? いや、別に……」
今日やるべきことはすでに終わっている。無人になった教室にもしばらくすれば人が帰ってくるだろうし、急ぎの仕事は何もない。ただ、この慣れない生活が意外に楽しかっただけだった。
「今日の帰り、買い物するんでしょ?」
「ああ、なぎさに頼まれて、夕飯の食材を――」
そこまで言って、ダリアは思わず体を机に乗り上げた。
「一緒に行ってくれるのか!?」
ヴェルモンダールの存在すら忘れて、ダリアは頬を紅潮させて勢いよくイナキに問いかけていた。
イナキが微苦笑している。
「荷物持ちするから。それに、最近物騒だしね」
「物騒?」
「通り魔ですかな?」
急に口を挟んだヴェルモンダールに驚きを隠さず、ダリアは彼を見た。彼はイナキとは違った苦笑を浮かべている。
「それとも、放火魔。あぁ、空き巣やひったくり、痴漢もありましたか」
「……存外と物騒なのだな」
イナキのあとを追い掛け回してばかりいたダリアは、近所で起きた大事件にはまったく関心がなかった。確かに空が赤くなったりパトカーが走り回ったり救急車のサイレンをよく耳にはしたが、彼女にとっての世界は、イナキに会ったときから彼中心に回っていたのだ。
我ながら、ずいぶん盲目だと思うほどである。
「……イナキ、私を心配してくれるのか?」
「全く必要ないように思いますが」
ボソリと付け加えられたヴェルモンダールの言葉にムッとして、ダリアは彼に近付いてその足を力いっぱい踏みにじると、うめき声を上げるロマンスグレーを尻目にさっさと机の上を片付け始めた。
「すぐ用意するから待っててくれ!」
慌てて出入り口に顔を向けてそう声をかけると、イナキは小さく笑って片手をあげた。
その自然とも思える彼の動きにすら心を乱され、ダリアは慌てて火照る顔をそらして手早くテスト用紙を集めた。
――嬉しい。
胸の奥がきゅっと締め付けられるような、不思議な感覚に襲われて、ダリアはイナキをちらりと盗み見る。
水晶が選んだ未来の夫となるはずの男。
その見立てが間違いでなければいいと、彼女は切に願う。泣きたくなるような切なさを胸に秘めたまま。