第三章  魔王との盟約
      【1】


 奇妙な生活が続いている。
 突然転がり込んできた就任間もない担任は、すっかり武蔵家の一員のように、小さくてゴミゴミした空間に馴染んでいた。
 毎日締まりのない顔で過ごしている三男の翼の頭を軽く引っぱたき、イナキはぎゃあぎゃあわめく兄を余所見に、さっさと部屋に引き上げる。
 日課のようにランドセルから教科書を取り出し、学校帰りに図書館で借りた参考書を開いた。
 ――リクエストしてみるもんだと思う。最近マメに図書館に行っては必ず入荷希望書簡のリクエスト欄に参考書の名を連ねていったが、まさか本当にそれらが入る日が来るとは思ってもみなかった。
 入ったばかりの参考書には、真新しいラベルが貼られていた。
「楽しそうだな」
 笑いを含む声が前触れもなく真後ろから聞こえた。続くのは香水の甘い香りと、柔らかな胸の感触。
「……いちいち抱きつく必要があるんですか?」
 三笠ダリアの過剰なスキンシップにも最近慣れてしまった。ぬっと突き出される色あせたお盆には、チーズケーキと紅茶が乗っている。
 これを勉強机に置きたいのなら、横に回ればいい。そっちのほうが後ろからから貼り付くよりもはるかに安全だ。
 しかし、ダリアは毎回毎回音もなく現れては、べったり貼りつきながら差し入れを机の上に移動させる。
 初めは散々動揺したが、途中からバカらしくなってやめた。
 遊ばれる自分に嫌気がさしたのもあるし――実際、これがなかなか悪い気はしないもので。
 むしろ、美女に擦り寄られて嫌な顔をする男は少ないだろう。豊満な胸の感触も、大げさに拒絶するほど嫌悪を感じるものではなく、それは逆に心地良いほどだった。
「――つまらんな」
 イナキの反応が予想と違ったかのように、ダリアはがっかりした声を出す。それでも、机の上にケーキ皿とマグカップを移動し終わってすぐに部屋から出て行く気がないことを主張するかのように、その腕はしっかりとイナキの体に回されている。
「……先生、教師としての自覚ありますか?」
「ん? 別に、教師でなくともよかったんだ。お前が学校に行っているのが悪い」
 ダリアの言っている意味がわからず首をひねると、本当に残念そうに、ダリアがイナキの肩に顔を埋めていた。
「お前の傍に行くには先生が一番いいと思ったんだが――目算を誤ったかもしれん。……いや、これはこれでいいか」
 白い腕にわずかに力がこもると、柔らかい感触が背中を通じて全身に伝わる。自分より年上で大きくて、態度も言葉遣いも散々な女だが――もしかして、甘えられているのかもしれない。
 ふと、そんなふうに感じた。
 イナキは天井を見上げる。
 こんな関係も――
「なぁ、イナキ。契約しないか?」
 パッと顔をあげたダリアが、思い出したかのように口を開いた。
「契約?」
 嫌な予感に眉を寄せて問い返すと、ダリアの目がキラキラ輝いていた。
「そうだ! 悪魔と契約!! キス一発でなんでも思いのままだぞ! 政治家だって大会社の大社長だって思いのまま!!」
「……まだ言ってんの、あんた」
「お前が望めば魔に属する者にできるんだ! お前は私の夫だぞ!?」
「…………」
 やっぱり電波系だ。
 これはもう、どう考えたって電波系だ。しかも無自覚というより洗脳に近い――自分が言っている事がおかしいかもしれないという感覚すらない、ハイレベルな人間だ。
 関わりあうのを避ける期間はとうに過ぎている。
 イナキは小さく溜め息をついて、全身の力を抜く。
 こんな女が教壇に立つのだから――世の中、どうかしている。
 授業内容は問題ないが、人間性にはかなり問題がある。あれこれ画策する女を横目で見ながら、イナキはもう一度小さく溜め息をついた。

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