【4】


 食器がぶつかりあって小さな音が生まれる。
 居間からはテレビから流れるバラエティー番組の司会者の声と、弾けるような笑い声が絶え間なく続き、時折、武蔵家の住人たちの笑い声も混じった。
「ごめんなさいね」
 武蔵母――清美が、食器に視線を落としたままダリアにそう声をかけた。
「食事は女の仕事なのだろう?」
 ダリアは水切りされた食器を丁寧に拭きながら清美に言葉を返す。
「いえいえ、あの子――イナキ。ちょっと、難しい年頃で」
「ああ……いや、可愛いものだ」
 部屋に篭ったきり出てこないイナキに、ダリアは小さく笑った。怒りを素直にぶつけずその内に留めるのはきっと苦痛だろうに、彼はいつも肝心な言葉を押し殺す。
 彼が感情的になるのは些細なことばかりだ。本当に言いたい言葉はその幼い心で伝えるべきか否かを判断され、そしてほとんどが心の奥に沈められていく。
 その心は稚拙ではあるが、短慮ではない。
「いつも怒られてばかりなんです」
 清美はそう言って苦笑する。
「あの子、とてもしっかりしていて。勉強もよく――」
「ああ、できるな。頭の回転も速い。将来は――弁護士か医者か政治家になりたいとか」
 以前生徒たちが書いた作文の中にイナキのものを見つけ、まるで読み書きの手本かと思うほど整然と並んだ字がそんな堅苦しい希望を連ねていたことを思い出す。
 野球選手やサッカー選手、パイロット、先生、公務員という様々な希望の中で、彼の上げた三点はさほど珍しくもなかったが、なぜかダリアはその作文が気になった。
 友人が少ないわけでもないのに、学校以外の多くの時間を自室と図書館で過ごす少年。
「味気ない人生だ……」
 思わず漏れた言葉に、
「あの子、学校でも?」
 と、不安げに清美がダリアに視線を向けた。
「――いや、学校では……よく遊んでいるよ。校庭で……サッカーをしていた」
「そうですか」
 清美がホッと胸をなでおろす。その姿を盗み見して、ダリアは眉根を寄せる。
 本当は、遊んでなどいない。
 いつも教室の片隅で図書館から借りた本を読んでいる。それは中学生向けの参考書だったり専門書だったり様々だが、彼が休みの時間をそうやって過ごすことを知っている級友は、誰一人彼に声をかけようとはしなかった。
 それが悪い事というわけではない。
 ただ、それではあまりに寂しい気がしてならなかった。
「先生は――」
 不意にかけられた声に、ダリアは皿を拭く手を止めた。
「変わった話し方をするんですね」
「ああ、これか? ……まぁ、直せとは――言われてるんだがな」
 側仕えのヴェルモンダールに口うるさく言われているが、はいそうですかと二つ返事で正せるものではない。これは長い間に身に染みてしまったものだ。さすがに、学校にいる時はできるだけ自然≠ノ女性らしく振舞うように気をつけてはいるが、いつその仮面が剥がれても何の不思議もなかった。
 ダリアの持つ知識の多くは、イナキのクラスの前担任から拝借したものだ。他人の知識を吸収し消化するのは、そう容易くはない。
「先生に日本語を教えてくれた人は、ずいぶん渋い人だったんですね」
「渋い――?」
「大阪人に言葉教えてもらうと、大阪弁が標準語だと勘違いしてしまったとか――ほら、なんていうタレントさんだったかしら? あら、京都だったかしら?」
 電子ジャーのフタを開けながら、清美は小さく笑っている。
「私は……まだ、ここに来て日が浅いからな……」
 どう答えていいものか困り果て、ダリアは視線を彷徨わせる。すると、イナキを苛立たせた原因の一つが視界に飛び込んできた。
 彼女は拭き終わった皿を食器棚にしまい、コンロのわきに置かれている小さな袋を手に取った。
「これ……」
「ああ、宝くじですよ」
「宝くじ?」
「ええ。え〜っと……お金が当たるクジみたいな物です」
「当たるのか?」
 ダリアは袋を蛍光灯にかざす。
「当たりませんねぇ」
 清美は苦笑しながら濡れた手に塩をつけ、ご飯をその手に乗せた。
「……当たらないのか?」
「小さな金額はちょこちょこ当たるんですけど、大金は当たったことないんですよ。だから――イナキによく怒られるんです。お金の無駄だって」
 薄っぺらな封筒には、何枚かの紙が入っているらしい。ダリアは珍しそうに小首を傾げてベタベタ触っている。
「でも、こういうのは楽しみみたいなもんですから。当たらなくてもそれでいいかなって。でも、イナキは違うんですよ」
「……」
「あの子は結果を欲しがる。目に見えないものは信用しない」
 小さな樽型のおにぎりをいくつも作り、彼女はそれに海苔をまいていく。ダリアは手際よく作られていく新しい形の食べ物と彼女を交互に見た。
「子供らしくして欲しいと思うんです。こんな――親ですけど」
 疲れたような横顔に滲むのは、苦笑とは言いがたい淡い笑みだった。居間の笑い声がひどく遠い。
「今からあんなにギスギスしてたら、大切な時間をダメにしてしまう」
 零れ落ちた本心に、ダリアは返す言葉を失っていた。
 すれ違った心は空回りし続ける。一度できてしまった溝は簡単に埋まることなく、確実に大きくなっていく。
「あの、ダリア先生」
 清美は小さなおにぎりの乗った皿とお茶の入ったグラスをお盆に乗せた。
「ああ、それを持っていけばいいのか?」
 問いかけると、清美は小さく苦笑して頷いた。
 躊躇いがちに伸ばされたお盆を受け取ると、ダリアはイナキの部屋に向かう。魔城の一室にすっぽり入ってしまうほど小さな家には小さな部屋がいくつもあり、それをさらに区切って使っている。
 しかし、狭苦しいこの場所で真に一人になることは難しい。
 その中で、イナキだけが孤立≠オている。
 簡単に説明を受けているし、毎日窓の外から覗いていたから彼の部屋はすぐにわかった。
 ダリアは一応引き戸をノックする。
 しばらく待って返事かないことに首を傾げながら、彼女は滑りの悪い引き戸を小さく開けて中を窺った。
「……」
 イナキは机に突っ伏したまま眠っている。間仕切りで囲われた小さな部屋にはデスクライトがポツンと一つ点いたままだ。
 薄暗いともいえる一室で、兄弟の楽しそうな笑い声を聞きながら勉強机に向かう少年。今は眠っている彼にそっと近付き、ダリアは畳にお盆を置くと、その後方から小さな背中を包み込むように抱きしめる。
「お前の心に触れたいよ」
 耳元で囁くと、少年の体が小さく揺れた。
「ん……?」
 わずかに身じろいだ時、少年と机の間に隙間ができた。ダリアはその隙間に腕を差し込んで、小さな体を強く抱きしめる。
「え……!?」
 ぎょっとしたように、イナキが振り返った。
「な、何やってるんですか!?」
 腕にさらに力を込めると、少年の顔が見る見る赤くなっていく。
「……ふむ。鼻の下を伸ばさないあたり、まだ十分に子供らしいな」
「はぁ!?」
 真っ赤になったまま、怪訝そうに睨みつけてくる。子供だてらにずいぶんと気の強い瞳の輝きだった。
「なぁイナキ、悪魔を信じるか?」
「……先生、やっぱり電波系!!」
 ボソリとそう言いながら、イナキが思い切り抵抗を始めた。小さな体でダリアを押しのけようとしている。
「悪魔は契約を交わす」
「命代償に願い叶えるとかって黒ミサ話!? オレ興味ないから!! ってゆーか、放してくれませんか!?」
「命を取るのは下等な悪魔だよ。所有する魔力が強い悪魔は、その力を発動させるための契約に小さな代償を受け取ればいい。代償が大きければ発動させる魔力も大きくなる――まぁ、惑星一つを救えだの壊せだのという願いなら、いくら私とて、命をもらわなければならなくなるが」
「ワケわかんない! あんたの言ってる意味、さっぱりわかんない!!」
「つまり、お前が望む未来を私が与えてやれると言ってるんだよ」
「先生、絶対電波系!!」
「電波電波と連呼するな。どうだ、キス一つで望む未来をやるぞ?」
 にっこり微笑むと、イナキはぴたりと動きを止めた。
「政治家でも弁護士でも医者でも、お前が望む未来を用意してやる」
「……先生、頭大丈夫か?」
 思い切り同情するような目で見詰められると、ダリアは苦笑するほかない。いきなりこんな突飛な話をして信用する人間などいない事はわかっている。
 それでも、もしそれでこの少年の心が晴れるなら。
 少しでもその歳の子供のように振舞ってくれるのなら、こんな形の契約もありだと思った。
「嘘だと思うなら試してみればいい――ただし、一度契約が結ばれた命はその悪魔の物になる。以降はその悪魔の支配下にのみ存在する」
「先生、そんなくだらないこと覚えないで、マナーとか言葉遣いの勉強しろよ。悪魔なんていないし、黒魔術も黒ミサもナンセンスだ。そのうち警察に通報されるよ――児童猥褻で」
「……そうなのか?」
「決まってるだろ!!」
 真っ赤になりながら、イナキは低く唸っている。
「通報されるとどうなるんだ?」
「――先生のいた国では、警察なかった訳?」
 どこか呆れたようにイナキがそう言うので、ダリアは魔界のことを思い浮かべる。――悪人の巣窟のようなあの世界では、誰かが誰かを処罰するという考えは皆無である。一応ダリアは、イナキのクラスの前担任から知識を吸収しているからおぼろげにでも警察≠ニいう機関が何をする場所なのかは理解してはいるものの――だからどうした、が、ダリアの最終的な意見であった。
 しかし、その警察というものに行くのはあまり気が進まない。
 入らなければ入らないに越したことはないというのが、前任教師の知識からはじき出された答えだった。
「わかったら放してくれよ!」
「う〜む」
 理由はわかったものの、ここでイナキを放すのは物凄くもったいない気がしてダリアは渋っている。真っ赤になっている彼が可愛くて仕方がないのだ。
 豊満な胸を押し付けウンウン唸っていると、腕の中のイナキが大きく息を吸った。
「――放せ、ダリア」
 小さな低い囁きが鼓膜を震わせる。
 その命令で、ダリアは散々渋っていた腕を無意識のうちにあっさりとはずしてしまった。
「……――ッ」
 薄闇の中でふわりと向き直った少年の目が、ゾクゾクするほど強く澄んだ輝きを宿している。
 魔界の王と並んでも遜色のない命――それが、確かにダリアの目の前にあった。

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