【3】


 年代物のちゃぶ台にこれでもかといわんばかりの皿が並んでいる。その上には山盛りになった、色気の欠片もない料理がある。
 基本の味付けは醤油が多い。たまに塩だったりソースだったり、どこで手に入れてきたのかも疑わしいような味噌だったりするのだが、食材が違っても味付けが同じなら、何を食べてもさほど変わりはないだろう――と言うのが、イナキの見解である。
 極貧一家である武蔵家の食卓は、いつも質より量の一本勝負だ。
「…………」
 しかし、そんな色気もそっけもないはずの食卓が、今日に限って、妙に神々しい――いや、禍々まがまがしいと言うか。
「何をしている、夕飯だぞ」
 しゃもじ片手に、三笠ダリアがペシャンコになった座布団を顎でさした。
 唖然とダリアの顔を凝視する。誰もいない教室で彼女と向き合ってから数時間後の怪異である。
「イナキちゃん、また図書館行ってたんでしょ? ほら、ランドセル部屋に置いてご飯にしましょ」
 次女であるなぎさがポニーテールを揺らしながらイナキを見上げる。ダリアの存在に全く気を払った様子もない。
 イナキは姉を凝視し、それからダリアに視線を向けた。
 どこか挑発気味に笑う女は、恐ろしく自然に家族の中に溶け込んでいるかのような錯覚をイナキに与える。
「ダリア先生、おかわり!」
 若干鼻の下を伸ばしながら茶碗を差し出す三男翼は、高校で所属している野球部の練習用のユニフォームのまま、食卓についている。
「あ、あたしも〜!」
 四女蛍もご飯粒のべったりついた茶碗をダリアに差し出した。
「よく食べるなぁ。大きくなるぞ?」
 楽しそうに笑いながら、ダリアが翼の茶碗を受け取り、ご飯をよそっていた。
「………」
 イナキはいまだに状況が把握できず、茫然と笑顔のあふれる食卓を見ていた。
 蛍のご飯もよそい、ダリアがようやく顔をあげる。その玲瓏とした顔に、見惚れるほど綺麗な笑みが浮かんだ。
「喰うものがなくなるぞ、イナキ」
 言葉はぞんざいである。たぶん、これが本来の彼女の口調なのだろう。教師として教壇に立つ彼女に違和感を覚えたことはないが、なぜかこの傲慢なしゃべり方のほうがしっくりくる。
 イナキはじっとダリアを見詰め、ようやく口を開いた。
「なんで先生がここにいるんですか?」
「それがさ、イナキちゃん!」
 ダリアが答えるよりも早く、なぎさが身を乗り出すようにしゃべり始めた。
「ほら、公園近くのマンションあるじゃない? ダリア先生そこに住んでたんだけど、あそこの一棟、急に老朽化して建てかえる事になって、追い出されちゃったんだって」
「そうそう」
 なぎさの言葉に、ダリアが腕を組んでわざとらしく頷いている。
「でもここら辺、マンションってあそこしかなくて、先生荷物持ったままウロウロしてて、なんか気になって声かけちゃったんだよね〜」
「いやぁ、まさかイナキ――クンの、お姉さんだとは」
 ははは、と、取ってつけたようなダリアの笑いが、なんだか異様なほど嘘臭い。まるで狙っていたかのような周到さに、イナキの背がゾッとした。
 それでなくても、教室で身の危険を感じて飛び出したのだ。自意識過剰かと図書館で己の行動を恥じたが、どうも――どうやら、それは思い過ごしではなかったような。
「でぇ、ほら、先生の住む場所決まるまで、ここにいてもいいよって――」
「ちょっと待て!!」
 なんだか話がおかしな方向にいっている。なぎさの楽観的な考えや話し方がいちいち癪にさわるが、今はそれよりもっと大きな問題があった。
「まさか泊める気じゃないだろうな!?」
「え〜、だって、先生困ってるじゃない」
 困るのはこっちだと、イナキは心の中だけで絶叫する。こんないかがわしい人間と一つ屋根の下で暮らすなんて、どう考えたってまともな神経の持ち主の発想ではない。
 絶対電波系だ。
 しかも、先回りが上手く、周到な変質者の要素もあるに違いない。
 あからさまな色目を小学生に向けるのは、どう考えたって、変態のやることだ。
 イナキの中で、彼女の位置づけが確定しつつある。
「オレは反対だ。だいたい皆だって――」
「オレいいけど」
 と、イナキの言葉をさえぎるように、翼がご飯を掻き込みながらボソリと言った。
「弥生もいいよ〜」
 取り皿の上の魚をグチャグチャに引っ掻き回し、弥生があっさり翼に続く。
「あたしも〜! ダリアちゃん、美人お姉さん〜!!」
 蛍は、餌付けが完了しているらしい。
「私はそれOKで連れてきたから……」
 引きつるイナキの顔を申し訳なさそうに見上げて、なぎさはそう口にする。
「ダリア先生、イナキちゃんの担任ってのもあるけど、何か、ほっとけなくて」
 ここにいる人間は、すっかりダリアの外見に騙されているらしい。確かに黙って立っていれば、その美貌で皆の目は釘付けになるだろうし、困っているそぶりを見せれば思わず声をかけてしまうかもしれない。
 しかし、騙されてはいけない。
 この女は絶対に変だ。イナキの本能がそう告げている。
 こんなのと一緒にいたら、この先どうなるかわかったもんじゃない。
「反対だ、絶対! 父さんや母さんだって――」
「あ、それはもう連絡して」
 イナキが最後まで言い終わらぬうちに、なぎさが再びすまなそうに口を開いた。
「お父さんもお母さんも、いいよって」
「な――」
 どう伝えればいいだろう。この女の怪しさを。
 実害がないから下手に大げさなことは言えない。教室に残されたのだって、勉強をみてやっていたのだとダリアが言えば、それがきっと真実になってしまう。
 まさか「未来の夫」だなどと言われたなんて、誰も信じたりはしないだろう。それがいったい何の意味を持つ言葉なのかはわからないが、出会って一週間の、しかも小学生に言う言葉でないことは確かだ。
 しかし、実際にそう言われただけで、それ以外の害はなかった。
 そしてたぶん、あの言葉だけで終わっていたら、イナキもそんなに気にとめはしなかった。
 この女がここにいなければ、あれは何かの間違いだと端的な結論に至っていたはずだ。
 けれど、女はここにいる。
 初めて会ったときは風のように現れて去り、そして担任となって小学校へ赴任、さらにおかしな告白の後に急な老朽化でマンションから追い出され、家まで押しかける有り様――
 どう考えたって、おかしいだろう。
 これがただの偶然なら、奇跡なんてどこにも存在しないに違いない。
「お、オレは反対だ」
 恐ろしすぎる、この女。
 イナキは一歩後退る。出会って数日の人間がどんな神業を使えば、プライベートにここまで自然≠ノ足を踏み入れることができるのだろうか。
 にっこり微笑むダリアの顔は、教室で振りまく笑顔とは異質なものだ。爽やか系の美人教師ではなく、どこか危険な香りをまとう妖艶たる表情。それは、まっすぐイナキに向けられている。
「バカだな、イナキ。先生が近くにいるなら、勉強教えてもらえるだろ?」
 翼が箸を銜えたままモグモグ提言する。
 その魅惑的な言葉にイナキは一瞬ハッとしたようにダリアを凝視し、すぐに思いなおして彼女を睨みつけた。
「勉強は自力でやる。せ――先生の手は借りない」
 イナキの言葉を聞いて、ダリアが笑んだ。
 先刻とは違う、優しく穏やかな表情で。それは、見惚れてしまいそうなぐらい柔らかな笑顔だった。
 イナキは言葉に詰まる。
 何かを言おうと口を開き、玄関を開ける無粋な音で我に返った。
「ただいま〜!」
 覇気のない声ではあるが、それは武蔵家に響き渡った。
 イナキはとっさに居間から廊下に飛び出す。ぎしぎし悲鳴をあげる板張りの廊下の向こうには、くたびれた格好の父と母の姿があった。
「おお、イナキ〜久しぶり〜」
 ヘロリと笑いながら片手をあげ、父があまり洒落にならない言葉をかけてくる。
「お夕飯食べた?」
 父の後ろから、母が覗き込みながら問いかける。
「そ、そんなことより――!!」
 ダリアの処遇について問いただそうとしたイナキは、しかし、意外なものを目にして一気に理性がぶっ飛んだ。
「あんたまた何拾ってきたんだよ!?」
 親に向けるにはあんまりな言葉遣いだったが、イナキは父親に向かって思いきり怒鳴りつけていた。
 その怒声に驚いて父は肩をすくめ、母は苦笑し、後方からは驚いたような兄弟とダリアが顔を覗かせる。
「いや、イナキ、これ使えそうだったんで」
 父はヘラヘラ笑いながらボロボロの椅子を自分の影に隠すように移動させた。
「そう言って片っ端から拾ってくるなよ! 使えたためしないだろ!? 粗大ゴミ回収の費用も考えろ!!」
「いや――こ、今度こそ使える様にするから……」
 自信無げに笑う父をイナキはきつく睨みつける。なんでも拾ってくる悪いクセを持つ父のおかげで、庭には粗大ゴミがあふれている。総て彼が「使えるから」と言って拾ってきた物だが、結局使えた物はほとんどなかった。
「まぁまぁイナキ、お父さんも頑張る気で――」
 そう庇おうとした母の手に、嫌になるぐらい見慣れた小さな袋を発見し、イナキの怒りは頂点に達した。
「母さん! 宝くじ買うなって言ってるだろ! 当たった事ないくせに――!!」
 りもせず。
 本当に懲りもせず、この夫婦は毎回同じことをしてくれる。
 使えないものを拾ってきては庭に放置し、小さなそこをゴミ溜めと変化させ、当たりもしない宝くじをこっそり購入しては肩を落とす。
 あきれるぐらい進歩のない大人たち。
「こ、これ」
 母は慌てて小袋を隠した。
「ほら、いつも連番買ってハズれるから、今回はバラを買ってみたの」
「そういう問題じゃない!!」
 下手したら三百円も当たらない計算になる――宝くじのシステムを知らないイナキはそう思い込んでいた。連番なら確実に手に入る金額も、母の機転をきかせた行動ですべて水の泡だ。
 父は小さな会社の経営者だった。従業員は母と近所のおじさん二人という、どうしようもなく小さな会社だ。
 その会社は、潰れかけている。
 以前こっそり見た通帳には目を覆いたくなる数のゼロと、マイナスの記号が小さく印刷されていた。
 無駄なことに金を使っている場合じゃないだろう。
 もっと色々やらなければならない事がたくさん――そう、たくさんあるはずなのだ。
 こんなくだらない事に時間や労力、金を費やしている場合じゃない。
 喉元まで出かかった言葉を、イナキは理性で押しとどめる。
 借金の額は知らない事になっているのだ。努めて明るく振舞う両親に気を使っているわけではないが、知らないふりをし続けるのも時として必要な行為だと思う。
 イナキは踵を返し、自室へ向かった。
「ご飯は〜?」
 能天気な姉の声に、怒りとも憤りともつかない感情があふれる。
「――いらない」
 少年は小さくそう答えると、空気のこごる部屋の引き戸をぴしゃりと閉めた。

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