【2】


 一人教室に取り残されたダリアは、開け放たれたドアに苦笑した。
 ドアを閉めずに走り去ったという事は、不本意ではあるがかなり怯えさせてしまったのだろう。
「なかなかに難しい」
「まず年が離れすぎていますよ。せめてもう少し待たれたほうがいい」
 不意にかけられた男の声に、ダリアの苦笑が深くなった。
「待てぬよ。あれは――心根の優しい子かもしれない」
「そうは見えませんが」
 否定的に言った声が近付いてくる。
「貴様――座標固定が上手くなったな」
「恐れ入ります」
「私より先にマスターするとは……許せんな。しばらく使うな」
「……えぇ、よく存じ上げておりますよ、貴女がそういう方だと」
 壮年の男が、教壇の一歩手前で項垂れて立ち止まった。
 その姿に満足げに笑い、ダリアはイナキが出て行ったドアを見詰める。子供らしい感情の吐露があまり見られない少年――前任の教師の覚え書きに、そんなメモがあった。
 勉強はできるし協調性もあるが、いつもどこかで一線を引く。他人と自分とのへだたりを何かの拍子に確認しているかのような、そんな印象がある。
「それでは苦しいだろうに……」
 ここ数日、イナキをずっと見てきた。
 大人びた印象はやはり気のせいではなく、クラスの友人たちと打ち解けていないわけでもないのに、なぜか一人でポツリと佇むような姿が目に付いた。
 それは学校だけではなく、家庭でも。
 一家団欒の中にあってなお、彼だけが異質な雰囲気を持っていた。
 まるでその輪の中に入ることを躊躇うような、いや、むしろ入るべきではないと思い込んでいるような――そんな感じさえ受けた。
「ダリア様……」
「ん?」
 ドアを見詰めたまま気のない返事をすると、まるで視界をさえぎるかのようにヴェルモンダールが彼女の前に立った。
「なんだ?」
 不機嫌そうに顔をあげると、真剣な顔がずいっと近付く。
「少し熱心すぎませんか? 水晶はもとより気紛れなもの――その見立てが確かである保証はありません」
「だからなんだ?」
「貴女の伴侶が彼であると決まったわけではないと申しているのですよ。それに、彼は人間です。魔に属する者ではない」
「伴侶でなければ、伴侶にすればよい。魔族でなければ、それに準ずる者にすればよい。――心を捧げぬのなら、捧げさせればよい」
「だ――」
「水晶の見立てなどクソ喰らえだ」
 ダリアは妖艶と微笑む。
「私はあれが気に入ったのだよ。その心の奥に触れてみたい」
「子供です! 彼は!!」
「そう、子供だ。それが何を深刻に悩んでいるのやら――気になって夜も寝られず、一昼夜イナキに貼り付きたい衝動に」
「それではただのストーカーです!」
 ダリアの独り言とも取れない呟きに、間髪かんはつれずにヴェルモンダールが口を挟んだ。しかも、ずいぶんな言葉を吐いている。
「……ほう? 貴様、新しい言葉を覚えるのが得意なようだな?」
「事実でしょう」
 珍しく食い下がるヴェルモンダールに、ダリアが苦笑する。進言はするがプライベートには口を挟まないはずの男が、珍しく声を荒げている。
「何が気に入らない」
「――魔王ともあろう方が、年端もいかぬ子供に手を出し変態呼ばわりされるのは見るに忍びないだけです」
「気にするな、ヴェル。ショタコンはギリギリセーフだ」
「…………ダリア様、それはきっと使い方を間違っています」
 顔を引きつらせて、ヴェルモンダールが呟く。新しい言葉を覚えるのが得意なのはお互い様でしょう、と、実に嫌そうに彼は続けた。
「いい男になるぞ、あれは。私の誘惑に健気にも逆らっている。可愛いではないか」
 喉の奥で低く笑う悪趣味な女帝は、ヴェルモンダールにそう語りかけてから立ち上がった。
 魔城に身を置くようになってから憶えた高慢な態度で彼女は教室を出て、そのまま廊下の窓辺へ歩み寄る。小さくなっていく少年の後ろ姿を目で追っていると、別の影がわずかに視界を掠めた。
「……?」
 何かがいたようにも見えたが、その影はそれっきり鳴りを潜めている。
 ダリアは小首を傾げたが、慌てて米粒よりも小さくなった少年へ視線を戻す。かなり早足で歩いているらしく、あっという間に建ち並ぶマンションで見えなくなってしまった。
「学校とは堅苦しい場所だな。もう少し、自由に動ける庭が要る」
 優しく囁き、彼女は紫水晶の目を細めた。

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