第二章 真実と偽りの狭間
【1】
武蔵イナキは不機嫌そうな顔を目の前の女に向けた。
場所は市立大里山南小学校の6年2組の教室である。担任教師の名は、
少なくとも、イナキはそう思っている。
吸い付いていきそうなオッサン連中をいとも簡単に投げ飛ばして力で捻じ伏せ、彼女は転任一週間でなぜか不動の地位を築きあげた。
化け物というほかないだろう。
自分の容姿は至って平凡なものだ。不細工ではないが、格好いいと言われる事もほとんどない。バレンタインの時は「落ち着いてていい」と、何を勘違いしたのかわからないが、女子から数個の義理チョコを受け取る――彼自身は義理と思いこんでいる――そんな、平凡な、何の変哲もない一生徒であるはずだった。
それが。
「だから、貴方は私の旦那様なの」
ニコニコ微笑みながら、目の前の担任はさっぱり意味不明のことを言っている。
「先生、疲れてませんか?」
脳みそが湧いているのだろうかと、イナキは恐ろしいことを冷静に考えながら淡々とダリアに質問する。
「疲れてないわよ。嘘ついてないもの。私の未来の夫が貴方なの」
「……小学生をおちょくらないでください。用がないならもう帰ります」
イナキはさっさと
生徒と仲良くしたがる先生は多いし、そのためにわざとぞんざいな言葉遣いで自己をアピールしてくるのも鬱陶しいが、遠巻きに意味不明な言葉を吐かれるのも、はっきり言って迷惑だ。
「――イナキ」
背にかけられた声に、イナキはハッとして息をのんだ。
聞いた記憶のある、低く囁くような硬質な声。
イナキはゆっくり振り返る。
あれは、確か――マンションの隣、公園を通り過ぎた瞬間に起こった、白昼夢のような奇妙な出来事。
彼女が転任してくる少し前に、女に出会った。
背の高い、見事な肢体の――たぶん、すごく美人な女だったと思う。顔はよく見えなかった。見ようと努力したが、まるで記憶に残っていない。
記憶の中におぼろげに残る女の容姿とは別に、その声だけは恐ろしくはっきりと鼓膜に刻まれている。
忘れるはずもない。
その唇が語った内容よりも、その独特の声音が少年の心をかき乱すのだ。
ひどく危険で魅惑的な、硬質な中にも甘い響きを含む独特の音色。
しかしそれは、目の前の担任の声と重なったことはない。優しく緩やかな声と、あの時の声は――全く違うはずだ。違うと思っていた。
容姿の酷似は錯覚だと思った。
あの時の自分は、その女をよく見てはいなかったから。
だから、違うはずなのだ。
「名前が同じという時点で気付いて欲しいものだが。ふむ。上手く演じすぎるのも問題か」
「あ――?」
「まさか忘れたわけではあるまいな? 一応、無様に転倒しそうなところを助けてやったのだぞ」
「あれはあんたが急に目の前来たからだろ!?」
反射的に怒鳴って、イナキはぎょっとして口を押さえた。
「そうか、忘れていたわけではなかったか――安心した」
椅子に座ったまま、彼女が大きく足を組みかえる。短めのタイトスカートから伸びる見惚れるほど見事な足から慌てて視線を外し、イナキは大きく深呼吸した。
「あの時の、先生ですか」
なんとか声を絞り出したが、視線は床を睨み据えたままだった。
「ああ、あそこに出るつもりはなかったのだがな――座標固定が難しい」
この女の言っている意味がさっぱりわからない。第一、なんでこんなに言葉遣いが違うのだ。
話し方や仕草まで、さっきとはまるで別人のようだ。おっとりとした雰囲気の人のいい担任の仮面はすっかり外れてしまったらしい。
今イナキの目の前にいるのは、小悪魔のような微笑を浮かべ、挑発するように己の魅力を曝け出す――単なる野蛮人だ。
危険極まりない変質者である。
しかも、自覚の欠片もない。
小学生を誘惑する時点で、教員免許を剥奪されてもおかしくないだろう――そもそも、その教員免許だって本物かどうか。
鋭くその疑問に突き当たり、イナキは再び踵を返して自分の机に向かった。
彼はランドセルを持つなり、ちらりとダリアに視線を向ける。
すでに生徒は下校している。そんな教室でこの女と一緒にいることに身の危険を感じた彼は、担任である彼女からなるべく離れるように教室のドアに突進し、振り向きざまに、
「さようなら」
の言葉だけを残して廊下に飛び出した。
――冗談じゃない、あんな電波系。
それがダリアに持った、一番強烈な印象だった。