【3】


 平屋建てのボロ家屋。そこは建てつけが悪く、冬などは隙間風が際限なく室内の温度を奪っていく劣悪なる環境である。
 開かないドアもいくつかある。修理を依頼したら絶句するほどの金額を弾き出され、反対に建築業者を家から追い出したことさえあった。
「ただいま」
 イナキは不機嫌そうに小さく声をかけ、玄関の引き戸に手をかけた。
「……」
 片手で開けようとして眉をひそめる。
 どんなに力を込めても、引き戸は小さくガタガタと音をたてて揺れるだけなのだ。
 イナキは大きく溜め息をつくと、空いていたもう片方の手も添え、溜め息でからっぽになった肺に新鮮な空気を送り込むように大きく息を吸った。
 力任せに引き戸を開けようとした瞬間、大きな手がヌッと伸びてきてイナキの小さな手を包み込んだ。
「こらこら、ただ外れてるだけだよ。ちゃんと直せば簡単に開く」
「クズ兄……」
 驚いてイナキは手の主を見上げる。男は、少年を見下ろして苦笑した。
「クズはよせよ、クズは。確かに葛乃だから略せばクズだけどよ」
「――どうして帰ってきたの?」
「仕送り。近くまで来る用事あったから持参した」
 そう言って、葛乃はイナキに持っていたカバンを手渡す。これもイナキのランドセル同様、ずいぶん使い古されてボロボロだった。
 葛乃はニッと笑ってトントンとカバンを指でつついてから、玄関の引き戸のわきにある隙間に器用に手をかける。彼は木製の引き戸をそのままの状態で一度上に引き上げると、体をかがめて何かを確認するように慎重にそれを下ろした。
 葛乃は『武蔵たけくら』と表札の出たこの家の次男である。何事も人並み以上にこなしてみせるが、一つのことを掘り下げて大成することなく結局いいように使われて終わる、世に言う器用貧乏≠フ代表格のような男だ。
 彼はスムーズに開閉できるようになった玄関をイナキに見せ、自慢げに笑っている。もう少し役に立つことが得意なら素直に褒める気にもなるのだろうが、今のイナキにとって、この兄の笑顔もただ鬱陶しいだけのものだった。
「……ありがとう」
 それでも、形式的に小さく礼を述べ、イナキは玄関へと足を踏み入れる。そこには、割れたタイルの上に幾つも薄汚れた靴が並ぶ見慣れた光景があった。
「うぉ? 皆帰ってきてるか〜!?」
 イナキを追い越して乱暴に靴を脱ぎ捨て廊下を歩きだした葛乃の声に反応して、奥から見知った姿が飛び出してきた。
「おかえり、葛ちゃん!」
「クズ兄だ〜! なんだよ、なんだよ、遊んで欲しいのか!?」
「おかえり!」
「お帰りなさい、葛乃!」
 飛び交う声。弾む会話。
 取り残されたように、イナキは玄関に佇む。武蔵家は大家族で、働き蟻の様な両親をはじめ、長男えにし、次男葛乃、長女円花まどか、次女なぎさ、三男翼、そして四男にイナキ、三女弥生、四女蛍と続く。兄弟のうち上から三人はすでに自立して働いており、毎月仕送りをしている。長男から末っ子までは、確か十九歳の年の差があったはずだが――イナキは、兄弟がいくつであるかを正確に把握することをやめた。自分以外に七人の誕生日を覚えていちいち「おめでとう」の言葉を言うより、勉強をしていたほうがずっと将来のためになると判断したからだ。
 同じ年齢の子供たちは、すでに塾に通ったり家庭教師をつけたりして独自に勉強のスタイルを確立しつつある。
 イナキは、明らかに彼らとは違う世界にいる。
 壊れかけた家で、ガタガタと揺れる机に向き合ってできる事といったら、学校で学んだ勉強を精一杯消化するくらいだ。
 今はまだクラスでも上位の成績だが、中学へあがればたぶん今より上に行くことはないだろう。
 イナキは無言で靴を脱ぐ。
 彼はそのまま小さく仕切られた自室≠ヨ向かう。
 同じ部屋にいくつも間仕切りがあるその場所は、唯一他者の入ってこない彼だけに与えられたスペースだった。
 イナキは小さな木製の机の前で足を止め、ランドセルを机の上にそっと置くと無言のまま腰を下ろした。腐りかけた畳がほんの少しふわりと動く。
 彼はランドセルから教科書とノートを取り出すと、出された宿題を黙々とこなしていった。

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