【2】


「だ、ダリア様!!」
「ん?」
 困惑気味に辺りを見渡す少年が、ようやく我に返ったように小走りで帰路につく。その小さな後ろ姿をマンションの影から見詰め、ダリアは焦りを含んだ呼びかけに気のない返事をした。
「わざわざこのような場所に降りずとも!!」
「別によいではないか。夫となる者に会いたかったのだよ」
「子供でしょう!!」
「ああ。あれがああなるのかと思うと、今から楽しみだ」
 喉の奥で低く笑う女帝に、壮年の男は呆れたように溜め息をつく。
「あのひねくれっぷりも好ましい。どう調教してくれようか」
 低く笑う女に、男は唖然と言葉を失う。今何か、とんでもないことを口にしたぞと言いたげな表情だった。
「忠犬ではつまらんからな。魔王の夫となる男だ、それ相応、骨のある男でないとなぁ。水晶の見立てでも、あまりに味気なくてはでる気にもならん」
 ようやく降りた神託にあまり乗り気ではなかったが、だがしかし、あの少年が相手というのならなかなか面白いかもしれない。
 そう考えてニヤニヤ笑っていると、その心を読んだかのようにヴェルモンダールの顔が引きつり始める。
「拝顔したのですから、ひとまず魔界へ――」
 勘のいい男は、裏返り気味の声でそう進言した。
「なぁ、ヴェルモンダール。人間の男はどれぐらい育てば食べごろだろうか」
「って、ダリア様〜!」
「う〜む、よいよい。あのピチピチの肌も、実に捨てがたい。しかしここで事に至るには、いささか先を急ぎすぎている。愛玩具はいらぬからな。はて、いつまで待てばよいのやら」
 顎に手をやって、鋭い紫水晶の瞳をすうっと細めて女は真剣にそう呟いている。
「ダリア様――!!」
 あからさまによからぬ事を考えている女主人に、ヴェルモンダールは悲鳴をあげた。
 ぬばたまの黒髪、紫水晶のごとき瞳、陶器を思わせる滑らかな肌を持つ絶世の美女、魔王ダリア――魔界始まって以来の女帝。
 その見事な美貌と肢体、恐ろしく堂に入った雄弁な姿であっさりと魔将軍たちをまとめてしまった手腕は、たぶん伝説となるだろう。
 その側仕えとしていつも彼女の傍に控えているのが、ヴェルモンダール。
 過去に魔将軍たちを統率した剣豪にして、策士――今ではロマンスグレーになった髪を一時間かけてセッティングするのが趣味という、口髭の生えた気のいいオヤジである。
「だ、ダリア様! ひとまず魔界へ! とにかく魔界へ!!」
「ヴェルモンダール、愛とは勝ち取るものか?」
「――奪うものでしょう」
「そうか、略奪愛も一興だな!」
 嬉々としたダリアに、ヴェルモンダールはハッと我に返る。思わず余計なことを口走ってしまったと、その表情が雄弁に彼の心を語った。
「今のは無しです! 今のは!!」
「あれはなかなか手強そうだが、なに、問題ない。奪いつくしてくれる」
「ダリア様――!!」
 目を爛々と輝かせ、すっかり変質者のように妖しく笑いながらダリアは隠れていたマンションの壁から離れた。

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