第一章 貪欲なる支配者の右腕
【1】
少年は無言のまま細く続く道を歩いていた。
彼の右手には、マンションを囲う色落ちし所々錆び付いたフェンスがならび、左手には背の低い植木がその奥の公園と彼を隔てるように存在する。
子供の声が聞こえる。楽しげな明るい悲鳴がそれに混じった。
「ふん、ガキはいいよな……」
ボロボロの黒いランドセルを背負いなおし、少年は小さく毒づく。公園に目を向ける気もないらしく、彼はただ、黙々と帰路を急ぐ。
この道は通いなれた通学路だ。
その途中にある公園は、小さいながらも遊具が豊富で、管理も行き届いている。マンションの経営者の孫も彼と同じ小学校に通っており、この公園で遊ぶのが日課と聞いたことがある。
可愛い孫の遊び場を、誰に頼まれるでもなく老夫婦は大切に管理している。
「も〜い〜か〜い!」
高く響くその声に、少年は小さく舌打ちした。最近ここらへんも、通り魔だの痴漢だの放火魔だのが出没して危険であるにもかかわらず、子供たちの無邪気で楽しそうな声はそんな現実を知らぬげに、高く澄んだ青空に吸い込まれていく。
彼は耳を塞ぐ代わりに歩く速度をあげた。
「っと、少年!」
凛とした声が響いた瞬間、彼は何かにぶつかって、その反動で仰け反った。
ランドセルにはぎっしりと教科書やノート、それに辞書が詰め込まれている。小柄な彼は声をあげる間もなく、不本意ではあるが眩しいほどの青空を仰ぎながらゆっくり後方へと倒れていった。
何かに掴まらなければこのまま無様に転倒する。
少年は慌てて右側にあるフェンスに手を伸ばした。
その手に、白く細い、優美な別の手が絡んできた。
「ッ!!」
「大丈夫か?」
どこまでも続く狭苦しく囲われた空に、見たこともないほど秀麗な影が突如として現れる。
少年は現状が把握できず、逆光の中でたたずむその影を茫然と見詰めた。
「怪我は――ああ、ないようだな。突然現れてすまなかったな。座標が安定しない」
張りのある女の声が口早にそうまくし立てる。
薄く紅を引いたような唇が笑みを結んだ。
顔が見えない。よくわからない。
少年は自分の腕を掴んでいる女を見ようと目を細める。それでも、その顔は要として見る事ができなかった。
「あんた、誰……? ここら辺の人?」
背の高い女だと思う。腰まである長い黒髪が風に煽られさらさらと揺れた。そのひきしまった無駄一つない肢体は、シンプルな黒いシャツとパンツで包まれてはいるが――たぶん、モデルとしても通用するだろう。
開いた胸元から覗く白い谷間に、少年は思わず目をそらした。
「私はダリアだよ、イナキ。お前を迎えに来た。水晶の見立て、感謝せねばな」
「え――?」
少年が怪訝そうにもう一度彼女を見る。
しかし、その影はあっけなく少年の腕を放し、その小さな肩を軽く叩いて脇を通り過ぎた。
「ちょっと、なんでオレの名前――!!」
少年――イナキは慌てて振り返る。
風が一陣、二人の間をかけぬけ、イナキはとっさに目を瞑った。
「え……?」
長く続くフェンスの反対側は、公園を囲う植木がある。すぐ隣は道路を挟んで民家だが、一瞬で移動できる距離でないことは一目瞭然だ。
今、目の前にいたはずの女。
その姿は、まるで風にさらわれたかのように、そこにはなかった。
イナキはしばらく人気のない道路を凝視し、そして腕に視線を落とす。
そこにはくっきりと赤い跡が残っていた。