第四話 異界入門


 しまったと思った直後、大気が唐突に変化する。それは、淫魔として魔界と人間界をあてもなく行き来してきたときに感じたのとまったく同じ種のもの――ひずみか、と判断したときには全身を包む浮遊感は消え、重力とは違う重みがのしかかってきた。
「いや、ひずみではないな。あれは魔界と人間界を一時的に繋ぐ時空の歪みだ」
 他者の意が介入する余地などない自然が創りだしたゆらぎ≠ヘ、規模は小さいながらも魔王ですら制御できない代物だ。
「さて、介在したのは――」
 上手くバランスが取れずに膝をついたダリアは、粘つく大気に柳眉を寄せながら顔を上げ、そして目を見開いた。眼前には砂地が広がっている。それが唐突に途切れ、右前方には切り立った崖が、その上には青々と茂る緑が、隣には巨大な滝が、さらに急斜面が伸びてそれが真っ白に染まっていた。雪だと気づくころには、ダリアの目は驚きでまん丸になっていた。
「なんだ?」
 不自然この上ない光景にダリアは首を傾げる。間近にあったはずの校舎が消え失せたことは異空間に紛れた直後に理解できたが、雑多を通りこしたこの光景は、さすがの魔界でもありえないものだった。
 出口は、と考え視線を彷徨わせたとき、目の前を何かが通り過ぎる。ダリアははっとして首をひねり、あんぐりと口を開いた。
 そこには全長三十センチ、人というにはどうにもコメディータッチの生き物が、巨大なクレヨンもどきを抱えて走っていた。前進するたびにふさになった白い髪がゆさゆさと揺れ、地面に引きずるほど長いスカートが大げさに動く。
「そ、そこの! なんだ? 人か? 小人か? 魔族か?」
 呼びかけながら伸ばした手を中途半端に止めて、ダリアは言葉を探した。いまだ未知の生命があふれている魔界であれば、あるいは気にもとめないモノであったに違いないが、魔界というには瘴気の濃度が薄すぎるここでは見逃すことのできない生き物だった。
「先住民か!!」
 いい言葉を思い出したと思って手を打つと、直立で移動するちいさな生き物はくるりと振り返った。丸い顔に丸い瞳、ちいさな鼻に線を引いただけのような薄い唇、直径十五センチはありそうなクレヨンを抱える腕は妙に太くて短く、その先には指がなく――。
「……生き物ではないのか? いやしかし、気配が……?」
 するだろう、気配が――ダリアは自問自答して言葉を失った。生物であるとダリアに伝えてくる確たるものがその人形ひとがたからただよってくるにも関わらず、人どころか生命体であるかも疑わしい容姿なのだ。どちらかというなら人形にんぎょうと表現するにふさわしい形をしている。
 まぶたすらない真っ黒な瞳がダリアを見上げる。少女をしたそれはダリアをじっと見て、表情の乏しい顔に明らかな敵意をにじませて抱きかかえていたクレヨンを持ち直した。
 服と同じ闇色のクレヨンを地面に垂直に突き立てて、それは軽やかに駆け出す。
「ま、待て!」
 止める声を振り切って、それは軽く地面を蹴った。闇色のドレスがふわりと大気を孕み、次の瞬間、ちいさな体は右手に広がる断崖絶壁に身を躍らせていた。
 唖然としたダリアは、ようやく自分が崖の上にいることに気づく。眼下には葉をつけることなく枝を広げた大樹が数え切れないほど生え、荒涼とした大地を刺々しく覆っていた。遠くに見える隆起は山なのだろうが、そこにも緑は見あたらなかった。
 それは荒野と呼ぶべき光景である。
 前方には不自然ながらも砂漠や緑や滝があるというのに、後方は荒れ放題だ。先刻の正体不明なモノがそこに落ちたのが妙に引っかかり、ダリアはそろりそろりと崖の先端に近づく。
「先生、ストップ!!」
 さらに一歩進んだところで愛しい少年の声が響いた。ダリアが瞳を輝かせて辺りを見渡すと、ごうごうと音をたてて水を生み出しながら水を吸い込む奇妙な滝の奥に黒い小さな影が現れ、瞬く間に大きくなった。
 水の流れが変わった瞬間、水圧の強い滝を掻き分けるようにしてイナキが現れた。彼はそのまま、ぐっしょりと濡れながらも息を弾ませて駆け寄ってくる。
「水もしたたるいい男だな、イナキ!」
 もう一回、「グッジョブ」と上機嫌で覚えたての言葉を口にすると、彼は思いきり眉をしかめてダリアを睨んだ。この一件に巻き込まれたらしい海斗が笑いながらついてくると、イナキは背後にいた彼も軽く睨み、ダリアに手を差し述べる。
「落ち着いてこっちに来て」
 切迫した声に疑問を覚えながらもダリアは足を踏み出し、それから、ああ、と声を上げる。
「いま変な生き物が崖を飛び降りたんだが、追った方がいいと思うか?」
「追わなくてもいいから、とにかくこっちに来て」
 イナキは崖の途中で足を止めてしとどに濡れる手で手招きする。さてこれからどうしようかと呑気に考えながら数歩イナキに近づいたところで、ダリアは足下が小さく揺れていることに気づいて視線を地上へと落とした。
「線だ」
 ダリアは間抜けな一言を発する。数種の雑草が生える大地にはクレヨンで描かれた黒い線がくっきりと残り、それが瞬く間に濃度を増して真の黒へと転じ、さらに濃く深く変わっていき――。
「ダリア!!」
 イナキの声に正気づいた直後、体が大きく揺れた。クレヨンの線が亀裂≠ノなったのだと知ったのは大地とともに体が降下する最中だった。息を呑む。とっさに魔力を使おうと思ったが、おかしな感覚だけが胸の内に広がってうまくいかない。高度を測るために視線を巡らせたダリアは、迫ってきた壁にぎょっとして目をつぶった。
「い、意外と……っ」
 頭上から海斗の声が聞こえると腕に強烈な痛みが走る。
「タッパがあるんだよ。ダリア、暴れないで」
 続いて聞こえたのはイナキの声だ。顔を上げ、ダリアは自分の両手が少年二人によって支えられていることを知った。
「魔力、使えないみたいだから! って、崩れる……っ」
 イナキの足下から崖の一部が崩れ、途中で何度も鋭い岩肌に当たり、大きく弾みながら足下に広がる荒野に落ちていった。魔族である以上そう簡単に死にはしないだろうが、魔力が使えないまま落ちれば無傷ではいられない高さである。しかし、このままイナキと海斗に支えられてこんな足場の悪いところで揺れているわけにもいかない。
 細い少年の腕で引き上げることができるほど、残念ながらダリアは軽くないのだ。
「ダイエットは必須だな」
 ぼつりと口にして、ダリアは笑みを浮かべた。
「とりあえず放せ」
「え?」
「手を放せ。死ぬことはない」
 できるだけ平静を装って告げると、驚いたイナキの顔はすぐに不機嫌なそれに変わった。見殺しにしろと言っているつもりはなく、逆にイナキたちを巻き込まないための配慮なのだが、そんなことは彼には通用しないのだろう。
「イナキ、ダリア様の言ってることは正しい。足場、かなりヤバいぞ」
 状況を的確に判断した海斗はちらりと視線を走らせてからイナキを見た。汗で手が滑るのがわかる。痛みを予期して全身に緊張が走ったが、完全に魔に属していないイナキが巻き込まれるよりはマシと判断してダリアは無理に笑って見せた。
 だが、二人の手から力が抜ける様子がない。
 イナキは海斗を見て「放せば?」と冷ややかな声で吐き捨てる。それを聞いて海斗は苦笑を漏らした。
「放せるかって。オレが生きてるのも、ダリア様のお陰なんだから」
「ま、待て! 引き上げるのは無理だ。このままでは三人仲良く落ちるぞ!?」
 淫魔である海斗はそこそこ力があるが、まず足場が悪すぎる。音をたてて崖が崩れるたびに体が確実に降下して、込める必要がある力が上手く込められずに分散していく状況だ。このまま一気に足場が崩れれば、本当に三人仲良く落下しかねない。しかし、それを阻止するために腕を振り払ったら、それでバランスを崩してやはり三人仲良く落下する可能性がある。
「い、イナキ――!!」
 懇願が悲鳴に混じる。その刹那、少年二人の背後に影ができ、太い腕が差しのばされてダリアの手をしっかりと掴んだ。確実に降下していた体が一瞬で上昇し、驚くほどの力で崖へと引き戻される。
 両足が地面に触れたとき、さすがに安堵の溜め息が漏れた。
「大丈夫ですか、ダリア先生!!」
 しかし、安心ばかりはしていられない。太い腕同様に野太い声がおろおろとダリアにそう声をかけたのを耳にして、彼女はこっそりとイナキの顔を盗み見た。彼と、さらにその隣にいた海斗は、声の主を茫然と見上げすぐに顔を引きつらせた。
「お怪我は!?」
「……ありません」
 大きく一つ息を吸ってからダリアはいつものように¥ホみを浮かべて顔を上げた。
「ありがとうございます、助かりました」
「よかった」
 目の前にいる男は胸を撫で下ろしている。
「ところでダリア先生、ここはどこでしょうか」
 日々、ダリアに熱烈なラブコールを送って見事に無視されまくっている男・大久保が、心底困惑したように常軌を逸した世界を見渡した。

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