第五話 人形遊戯


 濡れた服を指でつまんでイナキは眉をひそめる。学校の屋上、その床からせり上がってきた闇に呑まれたのはつい先刻のできごとだ。不快な空間に引きずりこまれたイナキと海斗は、気づけば洞窟の中に放り込まれていた。
「はめられた」
 イナキは我知らずうめいていた。脳裏に浮かんだのは自称魔将軍≠フセリゼウスの姿だった。あのカボチャパンツが中学校に来た時点でトラブルは必至だったのだが、こうも見事に罠にかかった自分が情けなくて腹を立てる気にもならなかった。
「結界系かなあ。ひとまず服、なんとかしないと」
 声につられて隣を見ると、濡れた髪を鬱陶しそうにはらう海斗の姿があった。気候がよかったお陰で学ランの上着は脱いでいたためそれだけは被害をまぬがれていたが、濡れたワイシャツが肌に張り付くさまは扇情的で目のやり場に困る。小柄なイナキは、すでに少年から青年へと変化をはじめている友人から視線を外し、睡眠が足りないのか食事のバランスが悪いのかと首をひねりながらボタンに指をひっかけた。
 そして、二つ目を外した時点で動きを止める。
 服を脱ぐことには抵抗がない。体育の着替えの際に多少からかわれるものの、仕方がないことなのだとそれなりにあきらめていた。
 しかし、期待をこめた眼差しで見守られては脱ぎにくい。
 イナキは三つ目のボタンを外したところで中学教師であり恋人でもあるダリアへと向き直った。彼女は華奢でしなやかな指をしっかりと組み、目を潤ませてじっとイナキを見つめている。すでに教職者としての威厳は皆無だ。
「先生」
「なんだ!?」
 ああ、完全に素が出てるなと肩を落としたイナキは、興奮気味に頬を染めるダリアを見てさらに脱力し、溜め息の合間に言葉を発した。
「ちょっとあっち向いててくれませんか」
「なぜだ!?」
「服が濡れて気持ち悪いんです」
「ああ、すぐに脱いだほういがいい。風邪をひくといけない、もう今すぐ、一糸まとわず脱げ!!」
 鼻息荒く命じる恋人に眩暈すら覚えたイナキは、ダリアの傍らにきょとんとした表情で立っている大久保を盗み見て項垂れた。人の記憶に歪みを作ることは本来避けたいのだが、こんな状況ではそうも言っていられない。事件が無事に解決したら、ここでの記憶を大久保の中から消す必要があるだろう。
「ダリア先生」
 渋い顔で考察していたイナキの耳に大久保の声が困惑気味に響いた。
「は! はい!?」
「言いにくいんですが……あまり見つめては生徒も脱ぎにくそうで」
「ええ! ……そうですね」
 ダリアは大久保の存在で我に返ったらしく、頬に朱を散らしたまま小さく咳払いをして抗議のために開かれた唇を閉じる。見回りませんかと提案されたダリアは辺りを見渡し、今ようやく異常に気づいたとでも言いたげなほどわざとらしく驚いて見せてからうなずいた。
「そうですね。ここがどこなのか、他の生徒もいるかもしれませんし」
 ダリアはいつの間にか教師の顔になって大久保を見た。おっとりとした雰囲気はそのままだが、緊張しているのがわかる。
「少し見てきます」
 イナキたちに言葉をかけ、ダリアと大久保は言葉を交わしながら遠ざかっていく。眼前は断崖絶壁、わずかな逡巡ののちに二人は右手に広がる雪の斜面へと歩き出した。二人の背中をしばらく目で追い、イナキはようやくボタンを外しだす。
「美女と野獣だな」
「ん?」
「ダリア様と大久保」
「生徒のあいだでは噂になってるよ」
「付き合ってるって?」
「……まあ、そんなとこ」
「ダリア様の態度見てればわかりそうなもんだけどなあ。イナキのときと全然違う」
「そんなことでばれちゃ困るだろ」
「そりゃそうだけど。せめて先生と生徒でなきゃよかったんじゃないのか?」
「どのみち犯罪」
 外見が二十代半ばのダリアと、下手をするなら小学生と間違われるイナキが付き合っていると知れ渡れば警察沙汰になることは確実だ。立場だけを重視していたのではだめなのだ。
 シャツをきつく絞って奇妙にねじ曲がった木の枝に引っかけると、同じようにシャツを枝に引っかけた海斗がイナキに視線を投げた。そして当然のごとく口を開く。
「ばれたら魔界に行けばいいじゃん」
「そういう打算的な考えは好きじゃない」
「……本当に」
「優等生?」
 問うと海斗は大げさに肩をすくめた。ダリアには結婚できる年齢まで待てと伝えてあるが、それは法律云々よりも、それだけの年数があれば多少は見劣りしない人間になれるのではないかという期待を込めての言葉だった。トラブルが起って逃げ出したのでは余計に体面が悪い。
 魔界に行くことが家族との別離に繋がることをおぼろげに悟っている少年は、脳裏によぎったいくつもの顔に微苦笑を浮かべた。
「まだ早いんだよな」
 ぽつりとこぼしてズボンもきつく絞り、しわを伸ばしてから枝にかける。今のイナキには身長以上に威厳のというものが欠落し、これでダリアの伴侶として魔界に行けば批難を浴びることは必至――過去に一例を目にしてしまったイナキは、毎日期待に充ち満ちた眼差しを向けてくるダリアに気づかないふりをするしかなかった。
 溜息をつきながら下着をつまんでみるとそれもぐっしょりと濡れている。だが、さすがにこれは脱ぐ気にはなれなくて、つまめる部分だけを軽く絞ってあきらめた。
「……海斗」
「うわ、パンツまでっ」
 海斗は悠長に全裸で下着を絞って、笑い声を上げている。
「誰か来たらどうするんだよ」
「大丈夫大丈夫。どーせここにいるのオレらだけだし? 術者介入の結界っていうのは部外者が巻き込まれにくい」
「術者って、まさか」
「魔界にしては瘴気が薄い、人間界にしちゃ歪みすぎだ。ってことは、元凶の術者を掴まえて結界を解けば戻れる。楽勝ー」
「……大久保先生が巻き込まれてるだろ」
「たまたまなんじゃないの?」
「そのたまたまがいっぱいいたら、どう――」
 言いかけたイナキは木陰から飛び出したちいさな人影に言葉を失った。丸く柔らかそうな腕で大きなクレヨンをかかえ持ち、よろよろと近づいてくる。
「あれ、は」
「……人形? に、見えるよな、イナキ」
「オレに訊くな。変な生き物ってダリアが言ってたけど、あれがそうなのか?」
「どうかなー。生き物かどうかも怪しいけど」
 丸い瞳はプラスチックのように鈍い光を放ちながらイナキと海斗に向けられていた。生き物と呼ぶには生気がなさ過ぎる。
「術で人形を操ってるとか」
「そういうのが得意なのが傀儡子くぐつしだ。肉体も精神も無数の糸で絡め取って生き人形を作り出す――あれは、そういう類じゃない」
 海斗は顎で人形をさす。よろめくそれは、毛糸でできた金色の髪を揺らしながら近づき、上げた視線をゆっくりと下に落として真一文字の口を歪め≠ス。
「海斗、見てる」
「ん?」
「あれって女の子じゃない?」
「スカートはいてるな。女かも」
 茶色のクレヨンと同じ色の服を着た人形は、表情が乏しいながらも明らかな動揺を見せ、抱きしめていた巨大クレヨンを持ち直して大地に下ろした。そのまま勢いよく駆け出すと大地には人形が書いた茶色い線がくっきりと残る。
 なんだ、と海斗が身を乗り出した直後、茶色の線が生き物のように身じろぎした。
「は……!?」
 線の輪郭が滲んで大地に溶け、ついで「とぷり」と水をはじく音を響かせながら線の一部が大地に消えた。
「今のは?」
「――吸い込まれた」
「あの線が? ……どこに」
「やばいぞ、なんか来る」
 叫ぶなり海斗はイナキと自分の靴を掴み、あいた手でイナキの腕を取って後退した。
 ぞ、と足元から奇妙な音が響く。地鳴りだと判断するより先に地表が大きく波打ち、間近にあった木が乾いた枝をきしませた。激しい揺れに体勢を崩した二人は片肘をつき、視界が暗くなったことに気づいて顔を上げる。
 目の前には双眼のない蛇のような巨大な生き物がいた。それは鎌首をもたげ、真っ赤な口をわずかに開き、長い舌を踊らせながらイナキたちに向かって威嚇音を発している。
「すげー。大蛇はじめて見た」
「魔界の生き物?」
「いや、魔界のはもっと変な形してる。これは人間界のやつに近い」
 視線を蛇≠ノ合わせたまま二人は靴を履いて立ち上がり、後退しながら小さく言葉を交わす。確かに形状だけをあげるなら人間界にいるそれに近いのだが、何せサイズが違いすぎる。しかも、大木を思わせる胴を地中から伸ばしている辺り、すでに普通の蛇とは言いがたい生き物だった。
 イナキは視線を走らせクレヨンを持った人形を捜したが、小さな影はどこにもない。かわりにありえないサイズの茶色の蛇が一匹残されている。ふっとイナキの視線が止まる。地表に書かれた茶色の線が小刻みに揺れるのを目撃した彼は、それが消えると同時に蛇がぞろりと音をたてて地中からはい出るのを見た。
「生き物じゃないかも」
 つぶやいたその言葉が聞こえたのか、蛇の口元が鮮やかな朱に染まった。笑っている――そう確信したイナキは、海斗の腕を掴んで駆けだしていた。
「生き物じゃないって、じゃああれなんだよ!?」
「たぶん、線」
「なに!?」
 問いに答える前に大地が揺れた。肩越しに見た大地には、蛇が深々と突き刺さっていた。潜っているのだと、地中を自由に移動できるのだと理解するのに時間など必要なかった。長い胴が地面に吸い込まれた直後、イナキは海斗とともに三度目の地響きを聞く前に近くにあった岩陰へと滑り込んだ。
「ちょ、こんなところじゃ……」
 抗議する海斗の口を塞いでイナキが耳をそばだてると、大地を割り開く音に続いて蛇が地表から顔を覗かせ、体を大きくくねらせて岩を通りこしてその向こうの大地へと突進していった。どうやら本当に目は見えていないらしい。それらしき物がないから当然といえば当然なのだが――。
「言葉がわかる時点で普通じゃないよな」
 蛇はイナキの一言に反応して笑ったのだ。蛇が姿を消したあと、抜け出したはずの地面には穴どころか小石ひとつ落ちていないのを見とがめイナキは重く息を吐き出した。
 そして立ち上がって岩の向こう側を見る。
 そこにはなんの変哲もない草原が広がり、大蛇の姿は完全に消えていた。
「消えたか、……戻ったか」
 元はたった一本の線だ。それがあそこまで成長≠オたのだ。イナキは難しい顔をしてうなり声を上げ、それから背後に妙な気配があることに気づいて振り返った。
「お、音が聞こえてな? 慌てて戻ったら二人の姿がなくて――!!」
 真っ赤になって弁解するのは息を弾ませたダリアだった。いったい何の話だと問いただす前に、イナキは下着一枚で逃げ回っていた己の姿を思い出した。しかも海斗はその下着すら放り出して逃げていたのだ。
「し、しどけなくて素敵だな……!!」
 ああ、相変わらず変な言葉ばかり覚えているんだなと再確認して、イナキは項垂れる。
「……先生、あっち向いててくれませんか」
「断る――!!」
 元気な返答に、イナキは頭を抱えて溜息をついた。

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