第三話 陥穽始動かんせいしどう


 イナキは立ち止まり、窓の外を見た。しかし、争う声は聞こえてきても目を背けたくなるほど奇抜な服装の人物は発見できなかった。
「どこだ、あのカボチャパンツ」
 真っ赤なマントは以前見たときよりさらに光沢を増し、緑の上着にカボチャパンツ、白タイツに羽のついたベレー帽の巨大版をのっしりとかぶったあの姿は、世情からして確実に通報されるレベルだ。本人はいたってとぼけた男で無害に見えがちだが、悪びれなくイナキとダリアの関係を公言したり、自己中心的な思考で周りを巻き込んだりと、危機感を与えるには充分な相手だった。
 早く見つけ出して、とっとと始末を――否、強制送還でもなんでもいいから、とにかくここから遠ざける必要がある。話がしたいなら、それからゆっくりすればいいのだ。
 イナキはふたたび歩き出す。
「だから、それはオレがもらったんだって!」
「なに言ってんのよ! 返してったら」
「いい加減にしろ」
 苛立つ学生の声に教師のものが加わる。野太い特徴のあるそれは大久保のものだった。階段を上がろうとしていたイナキが、考えるように向きを変えて声のする方へと歩くと、声はいっそう明朗になった。
「授業中だぞ。いったい何を騒いでるんだ」
「だって先生、あたしがもらったのに……!!」
「オレだ! 嘘つくなよ」
「落ち着け。どうしたんだ」
 制する大久保の声には困惑の色が濃い。現場が見える場所まで行くと、イナキはそこに人だかりと声の主である大久保の姿、さらにヴェルモンダールの姿を見つけて首を傾げた。魔将軍まで首を突っ込んで何をやっているんだと不審に思って眺めていると、視線に気づいたのかヴェルモンダールが顔をあげ、眉をしかめてから近づいてきた。
 イナキは窓の鍵を開け、そっと開いてから人だかりを見る。
「なに?」
「イナキ殿……それが――」
「……なんか変な感じがするな」
「あ、本当だ」
 口ごもったヴェルモンダールにイナキが意見すると背後から友人の声がかかった。
「魔力の欠片だな。ってことは、なんか持ってる?」
 続けた声に驚いて横を向くと、いつの間にか海斗がイナキの隣に並んで外を凝視していた。彼はイナキの顔をのぞき込んで少しだけ声のトーンを落とす。
「イナキ、体調どうした?」
「仮病」
「……仮病って」
「ちょっと問題のあるやつが校内に紛れ込んでて……誰も巻き込みたくなくて離れたんだけど」
「いまさら遠慮するなよ」
「危険なヤツじゃないんだけど、鬱陶しいから」
 これじゃあ離れた意味がないなと溜め息をつくと、海斗はイナキに肩をすくめて見せた。
「それで、わかるの?」
「わかるさ。完璧に隠されたら難しいけど、淫魔ってのは弱い生き物だからそういうのには敏感。保身の一環だけどね」
 さらりと返された海斗の言葉は普通なら納得しがたいものだが、すでにどっぷり妙な世界に足を突っ込んでしまっているイナキにとっては驚くほどの内容でもなかった。ふうんと軽く答えて争いの中心へ目を向け――そして、首を傾げた。
「取り合ってるのって、あれ?」
「はい。クレヨンというものです」
「……確かにクレヨンだね」
 ヴェルモンダールの真面目な返答にイナキはただ繰り返す。クレヨン一個で大騒ぎなんて平和この上ないなと思いかけ、いや待てよと目をすがめた。男子生徒の手に持たれているのは赤いクレヨン一本だけだ。幼い子供がそれを奪い合うならともかく、ある程度分別も備わっている中学生が、写生大会とはいえ授業中になりふり構わず取り合うのはどう考えても妙だ。それに、画材は水彩絵の具だけと決められている状況でクレヨンが出てくるはずはない。
 消えない違和感に気が重くなった。
「まさか、あれって」
 イナキは争いの中心を指さしてヴェルモンダールを見た。
「はい、魔具のようです」
 ニュアンスと雰囲気で、魔力が込められた何らかであることはわかる。ちらと海斗を盗み見ると、いつになく真剣な顔をクレヨン形の魔具に向けていた。
「魔具って言っても種類があるんだけど、あれってなんかおかしな感じがするな」
 ぼそりとそんなことを言う。
「ヴェル、あれってセリゼウスの仕業?」
「おそらく。大事になる前に何とかします」
「うん。オレはセリゼウスを捜すから。あ、ダリアも捜してる」
「わかりました」
 頷いて去っていくヴェルモンダールから視線をはずし、イナキは階段へと向かう。すぐ後ろからついてきた海斗は背後を気にしながらも足早にイナキの隣に並んだ。
「セリゼウスって?」
「魔将軍らしい。知らない?」
「魔将軍って言ってもピンキリだからなぁ。ヴェルモンダール様くらいいけば、魔界全土どころか人間界にいる悪魔にも認知されるんだけど」
 呑気に教職に就いているから忘れそうになるが、ダリアは魔界の王で、ヴェルモンダールはその補佐――とどのつまりは魔界の実力者二人がここにいることになっているのだ。絶対に間違ってるよなと思いながら、イナキは階段をのぼりはじめる。
「特徴は?」
「でかいベレー帽をかぶった、赤いマントにカボチャパンツと白タイツの男」
「オーケー。変態捜せばいいんだな」
 まったくその通りなので無言のまま頷いた。
「強い?」
「どっちかっていうなら姑息」
「関わりたくない相手だなぁ」
「まあね」
 顔を見合わせると溜め息がもれた。イナキは海斗とともに三階まであがり、さらに屋上へとつづく階段へ足をすすめる。当然のようにかかっていた鍵は、海斗があっさりとはずしてくれた。ここら辺は弱いといいながらも立派に人外である。
 鍵を壊さずにすんで助かったなと思いながらフェンス越しに校庭を見ると、画板を抱えた生徒たちがいたるところに散っていた。歩き回ったり写生をしたり、談笑したりとさまざまだが、目的の派手な男は見あたらない。
「こっちにはいないぞ」
 海斗はそう言ってから場所を移動して、また同じ言葉を口にした。イナキもやはり派手な男を見つけることができずに視線を彷徨わせ、そしてふと異変に気づいて注視した。写生大会はおのおのが好きな風景を好きなように描くことが基本であるにもかかわらず、あちこちに不自然な人だかりができている。校庭に四ヶ所、プール付近に二ヶ所、屋内運動場の北側に一ヶ所――イナキが振り返ると、海斗が駆け寄ってくるのは同時だった。
「おかしくないか?」
「だな。先生止めに入ってるのに全然治まらない。向こうにもあったけど、ちょっとこれってまずいかも」
「まずいって、何が」
「うん、まあとりあえず逃げとこ」
 不可解なことを言った友人はイナキの手を取ってドアに向かって走り出した。引きずられるイナキは真剣な海斗の横顔を仰ぎ見て、視界の端に映ったド派手な色彩に小さく声をあげた。
 用務員用のプレハブのドアが開き、隙間から真っ赤なマントがはためいた。全開になったドアから何食わぬ顔で出てきたのは派手なカボチャパンツの男――捜していたセリゼウス本人である。
「待て、あそこに……!!」
 言葉が途中で途切れた。ことりと音をたて、足下に黒い物体が落ちてくる。
「え?」
 黒いクレヨンだ――とっさに下を見てそう確認した矢先、それは一瞬で溶解した。声を発する間もない。液状になって溶けて広がった黒いモノの一部が隆起し、瞬きするよりも早く巨大な手の形になった。
 プレハブの前で男が笑う。
 ごぼりと粘着質な水音が耳朶に響き、すべてが暗転した。

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