第ニ話  問題発生


 校庭の片隅でイナキを見つけたとき、彼は晴れ渡った春の空を静かに見つめていた。うららかな日のうららかな一幕――彼の恋人であり同じ学校で教員として働いている現魔界統治者は、ほのぼのとした光景とは反して煩悩全開で廊下を闊歩した。
 写生大会なるものの趣旨は、新入生により学校に親しんでもらうこと、および生徒同士の交流、ついでに先生も生徒と仲良くできたら一石三鳥なんじゃないかな、ということらしい。
 毎年恒例のこの行事に、諸先生方はしかたないとぼやいて重い腰を上げた。校長はやる気満々だが、揉め事を起こしたくない教師は授業のほうが有り難いらしい。
 しかし、物珍しいことにはとりあえず首を突っ込む迷惑な習性もつダリアは、校長と同じく平素と違う空気に生き生きとしている。
 教室以外でイナキに会えるのも嬉しいし、普通に会話ができるチャンスもあるとなれば、あとは行動にうつすのみだ。
「ダリア先生!」
 それとなくイナキのもとに向かおうとしたダリアを呼び止めるいつもの声に、彼女は顔面を硬直させた。
「絶好の写生大会日和ですね!」
 何かにつけて接触を図ってくる男は、ほんの二週間前は傀儡子に操られて小学校の先生から中学校の先生に変わった遍歴を持つ。背後でのしっと小山が動いた。
「いっしょに見回りますか?」
 トラブルが起こらないように、教師たちは定期的に巡回を義務付けられている。持ち場や巡回方法にこれといった決まりはないので単体で動く者がおおく、それにならってダリアも一人で行動していた。彼女は振り返って作り笑いを男に向けた。
 白い歯を見せている大久保は、以前と変わらず親しげである。
 傀儡子に操られた記憶をそのまま残しておくわけにはいかず、ダリア手ずから彼の記憶は操作され、それによって、彼の中ではさまざまな事象が細切れに繋がっていることだろう。生活に密接した思い出すら欠落した状況だから、気味悪がって思い悩んでもいいはずだ。
 しかし、本当に何一つ変わらない。もともと細部は気にしないタイプなのかと、ダリアは悶々と考え込んだ。
 はからずしも大久保を見つめていると、彼の笑顔が照れ笑いになる。頭をガシガシかいていた彼の視線が宙を彷徨い始めた。
 不審な奴だと疑問符を浮かべるダリアは、いまだに大久保の好意さえ気づかない。彼は大きく咳払いをし、
「実家に帰ってから体調を崩されてたでしょう? 一人はよくないですよ」
 真剣にそう口にした。
「ああ、あれは――」
 くぐり糸が意外に優秀で死滅させるのに時間がかかったからだ。魔力の消耗と体力の消耗が激しく、おまけに皮膚にはくっきりと紫色の痣が残り、それを消すのにも時間がかかった。
 まだしばらく安静にしていたほうがいいと告げるヴェルモンダールの言葉を無視し、ダリアは職員として復帰した。
 どうやら純粋に心配してくれているらしい。
 だが、イナキのそばに行きたくてうずうずしている彼女からしてみれば、彼の申し出は有り難いものではない。どう断ろうかと考えていると、
「大久保先生」
 なじんだ声が男を呼んだ。
「すみません、向こうで喧嘩が」
 口調や行動は焦っているが、瞳には探るような色がある。目配せしたヴェルモンダールに、ダリアは会心の笑みを向けてから大久保を見た。
「生徒が怪我をしたら……」
「どちらですか!?」
 根はまっとうなのだろう男は、ダリアの言葉半ばでヴェルモンダールに駆け寄った。連れ立って歩く二つの背を見送って、ダリアは目的地に向かって歩き出す。
「うーむ。良心が痛むな」
 あれほど素直に信用されると騙すほうも申し訳なく思ってしまう。しつこく絡んでくるのが好意から来ているとは思いもしないダリアは、困った顔のまま校庭へ出て柔らかな風に足を止めた。
 なるほど絶好の日和だ。
 機嫌よく三歩歩いたところで彼女は生徒に呼び止められた。親しげに話しかけてくる生徒にいつもどおり返答をしてにこやかに離れると、すぐにまた別の生徒から声をかけられる。丁寧に一人ずつに声をかけ、激励までおくって歩けば、同じように呼び止められて立ち止まるハメになる。
「……なぜだ」
 イナキは見えるのに、そこまで辿り着けないのが怪奇現象に思えてくる。わざわざ遠くから名を呼ぶ生徒もいて、近づくどころか遠ざかる始末だ。
 容姿が目立つダリアは、目立たない≠謔、に極力おっとりとした性格の人当たりのいい教師を演じている。それで逆に注目されているなど、本人はまったく気づきもしない。さらに、大久保の誘いをのらりくらりとかわす姿が話題になっているなど毛ほども知らない彼女はこの状況にひたすら焦った。
 そうこうするうちに、イナキの隣に少年が腰をおろした。ダリアと同じく魔に属する少年の名は海斗といい、最近、イナキが一番気に入っている友人だ。
 二人は肩を並べて楽しげに語らっている――少なくとも、ダリアの目にはそう映った。
 それでさらに焦る。
 呼び止める生徒を放置して駆け出したいが、それではあまりに不自然なので彼女はじっとこらえてにこやかに返答を続ける。
 ようやくイナキのもとに辿りつくと、彼はおかしな笑顔を浮かべてダリアを見上げた。こういった顔をする時にはろくなことがない。さっきまでは普通だった彼を凝視して、ダリアは海斗に視線をやった。
 貴様のせいかと怒りをこめて目で問うと、彼は勢いよく首を振って否定した。必死の形相は嘘をついているようにも思えず、ダリアは相変わらず不気味な笑顔を見せるイナキに向き直る。
「い……武蔵くん、あまり進んでないようだけど?」
 いろいろ学習したダリアは、誰に聞かれるとも限らないのであくまで先生として問いかける。すると彼は笑顔を消し去って画用紙を見た。
「なかなか決まらなくて。――先生」
「はい」
「気持ち悪い」
 唐突な言葉にダリアの思考回路が一瞬止まった。くぐり糸のことを思い出し、ダリアはイナキの腕をとって体を支えて歩き、途中で状況が呑みこめずに座っていた海斗に視線を投げる。
「すまんがあとを頼む」
 地が出ていることさえ気づかずに彼女はイナキとともに校舎へ向かった。多少目立つのは仕方ない、それよりも早く、人目につかない場所に行かなければと考える。治療の際に何かミスをする確率を考えれば、保健室よりも自宅のほうがいい。移動後の治療方法を模索したまま校舎に入ると、突然彼はダリアの腕を引いて自主的に歩き出した。
「イナキ!? どうしたんだ!?」
 声のトーンを落として聞くと、彼は階段の脇にある小さな通路に入り、ぐっとダリアを引き寄せた。
「お、お前も二人っきりになりたかったのか!?」
 辛そうだったイナキの顔はすっかり戻っている。あまりの変わり身の速さに混乱して彼を凝視し、ようやくダリアははっとした。つまりは仮病か、やっぱりイナキも二人っきりになりたかったんだなと納得して抱きしめると、腕の中で反発するように少年が身じろいだ。
「イナキ?」
「せっちゃんがいる」
「……どちら様だ」
 イナキが親しげに「ちゃん」付けするなど前代未聞だ。真剣に言われたので真剣に問い返すと、彼は我に返ったように目を瞬いて再び口を開いた。
「魔将軍のセリゼウス」
「白タイツか――!?」
 そういえばあの男、平穏な生活を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して行方知れずになっていた。ヴェルモンダールが手をくだしたとも知らず、ダリアは怒りをあらわにしてギリギリと腕に力を込めた。
「先生!」
 くぐもった声と胸にあたる吐息で、ダリアはようやくイナキを締め上げていたことに気づく。怪力を持つ彼女は慌てて力を緩めて彼の顔を覗き込んだ。
「気配、探れない?」
「掴めん」
 問いに短く答える。学校の敷地内はダリアのテリトリーだから、集中していればすぐにでも場所は知れるはずだがそれらしいものは何もない。どうやら巧妙に魔力を隠す術を身につけたらしい。
「二手に分かれて探そう。見つけたら――」
「わかれて探すのか?」
「騒ぎになる前に見つけたほうがいい」
 セリゼウスは小学校へ不法侵入した前科を持ち、イナキがそれを危惧するのもよくわかる。なにより、ダリア自身もあの男が気に入らないから今回ばかりはイナキの意見に全面的に賛成だった。
 いっしょに行動したいが効率を考えれば致し方ないだろう。
 素直に頷くと彼の手が伸びてきて軽く引き寄せられる。驚く彼女に小さく笑んで、彼は柔らかく口づけて腕からすり抜けた。
「見つけたらどうする?」
「見つけたら?」
 離れゆく背に疑問を投げると、彼はピタリと動きをとめて振り返った。
「縛っておいて。身動き取れないくらい、きつくね?」
 にっこりと告げた。また何かしでかすと思い込んでいる彼の辞書には、珍しく優しさと言う文字が抜け落ちてしまったらしい。
 肩をいからせ遠ざかる背中をダリアが惚れ惚れと見送る。
「グッジョブ!」
「それを言うならグッドラック」
 新しい言葉を覚えた魔王様がビシッと親指を立てると、今度は振り向くことなく訂正し、肩を落として廊下の角を折れた。
「……違うのか」
 釈然としない彼女はじっと親指を見つめながら別の方角へ歩き出した。

Back  Top  Next