第一話  珍客再見


「かったりー」
 隣に腰をおろしたクラスメイトは口癖のようにその言葉を発した。
「……かったるいって」
「だるいって意味」
「わかるけど」
 あまりいい言葉ではない。だが、彼の気持ちがよくわかるイナキは彼をたしなめることもせずに空を仰いだ。
 雲ひとつなく澄み渡った空に校内放送が響いている。のどかに小鳥がさえずる中、それだけがひどく無粋なものに思えてきた。
「何が楽しくて風景なんて描くんだろうな。別に描けなくても死ぬわけじゃないし、写真のほうが綺麗なのに」
「通知表が寂しいことになるよ」
「……イナキ」
「んー?」
「お前って、いっつも勉強主体なのな」
「学生だから」
「かーッ! この優等生!」
 画板で自分の膝をばんばん叩き海斗が呆れているのだが、イナキにとってはごく当たり前の返答でもある。学生が勉強して何が悪い、というのが彼の考えだ。そこに優等生という言葉は当てはまらず、娯楽の少ない家で、死に物狂いで働いていた両親を見て育った彼は、未来の指針を早々に決めて勉強にはげんでいた。
 いい職業に就けば収入が増える――打算的ながら、合理的な考えでもある。
 むろん世の中そううまくは回らないのだが、彼はかたくなにそう信じて勉強机に向かい、結果、模範的な生徒として周りからの信頼を得ることになる。
 しかし、まったく自覚のないイナキは画板に乗った白い画用紙を眺め、
「優等生じゃないけど」
 と小さく抗議した。そんなイナキをちらりと見て、海斗が口を開く。
「タバコ吸ったことある?」
「……いや」
「酒とか」
「興味ない」
「勉強は?」
「それは好きだけど」
「大人に反発する?」
「別に。間違ってたら文句は言う」
「……それを優等生って言うんじゃないの?」
「どこが?」
 真剣なクラスメイトに、イナキも真剣に問いた。彼にとっては当たり前のことが、海斗にとってはそうでないらしいということだけを理解して小首を傾げる。
「普通の子供は勉強より遊び優先なんだよ。ゲームとか漫画とか! ダチといるほうが楽しいじゃん?」
 普通でない大人びた子供≠フ主張にイナキは眉を寄せて考え込み、ふーんと中途半端な反応をする。
「……ふーんって、お前……お前だって興味あるだろ!? 酒とかタバコとか! 夜遊びも!!」
「そんなゆとりはない」
 きっぱりとイナキは言い放つ。今でも充分いっぱいいっぱいの武蔵家の家計は姉であるなぎさが何とかやりくりしている状態だ。多少のおこづかいは受け取っているが、文具を買えばあっという間に消える金額である。
 嗜好品に使う金などない。
「この状態で、万引きの発想がないお前ってマジで凄い」
 海斗はうなだれる。最近欲しいものは百科事典である少年は、どうしてそこまで飛躍した考えになるのかわからなくて白い画用紙を見つめ考え込んだ。
 もともと物欲は薄いほうだ。
 それに、欲しいものをちゃんと手に入れた今、それ以上は必要ないと思っている。
 ふとある種の気配を感じ、イナキは辺りを見渡した。
「あーあ、ホントかったりー。せめて学校の外に出られたらなぁ」
 イナキの変化に気づかず、隣で海斗は盛大に溜め息をついた。
 快晴の空の下で主催されたのは写生大会である。思い思いの場所に座り、生徒たちは白い紙の上に世界を切り取っておさめていく。一年生ばかりが目立つのは、二三年生にのみ校外での写生が許されているからだった。
 一日潰して下書きと着色をし、その後は各クラス、授業中に仕上げていくらしい。描いた絵は審査され、優秀作品を表彰すると校長が朝礼で言っていた。
 生徒の反応は、授業が潰れることを素直に喜んだり、海斗のように写生大会自体に難色を示したりとさまざまだ。
 だが、言われればやるのが学校というものだと割り切っているイナキはさほど気にもとめなかった。
 それに――。
「あ、ダリア先生」
 海斗がようやく彼女の姿を発見した。春らしい柔らかな色合いの服を着た彼女は、植え込みや校舎、そこから見える景色を書き写している生徒たちに声をかけて回っていた。
「相変わらず悩殺スタイルだな」
 均整のとれた体は日本人どころか人間離れまでしている。実際に人間でもない彼女は、生徒の注目を一身に集めながらもそれに気をとめた様子もなく平然としていた。学校ではどこかおっとりとした仕草を多くとる彼女は、男子生徒に話しかけられて足を止めている。
 強い風に驚いて肩をすくめる姿に、イナキは小さく笑った。
「なあイナキ」
 海斗はダリアを見ながら声をひそめる。
「あれから何にもない?」
「あれからって?」
「魔界から帰ったあとだよ。くぐり糸、完全に抜けたのか?」
「――ああ」
 あれから二週間、まるで忘れたかのように沈黙していた友人からの唐突な質問に驚きながらもイナキは言葉を続けた。
「気配はないから抜けたみたい」
 知らずに肩に視線をやってイナキは答えた。荒業で難を逃れた彼は、周りの心配をよそにけろりとして毎日を過ごしている。これはダリアを信用しているからではなく、本当に状況が把握できなかったからでもあった。体調のよしあしはあったとしても、くぐり糸のときのような感覚に悩まされることがなくなったことから、イナキは一応の解決をみたのだと判断している。
「相田先生の替わりの先生、まともそうでよかった」
 率直な感想を述べると海斗が肩をすくめる。傀儡子の最期を、イナキは一生聞くことはないだろう。見た目は穏やかだが、やはりヴェルモンダールは魔将軍と呼ばれるだけあって、魔界から帰ったあと彼の口から伝えられた事後報告はイナキが途中で辞退するほどすさまじい内容だった。
 魔界は弱肉強食の世界だと痛感する。
「人間のガキには見えないな、お前は」
 これからは気を引き締めようと心に誓ったとき、どこか呆れたように海斗が笑った。
「死ぬ直前までいったんだろ? もうちょっと怖がらないか?」
「なんで?」
「……また同じ目にあうかもしれない。今度は本当に死ぬかもよ?」
 おどけた口調とは裏腹に彼の瞳は真剣そのものだった。同じ魔に属する者として、彼にはイナキと違った危惧があるのかもしれない。そう考えて顔を彼に向ける。
「何とかなる」
 決して楽観視しているわけではないが、不安に思う要素もなくイナキはそう返す。それを見て海斗が苦笑をもらした。
「お前って大物だな」
「どこが」
「大物だよ。オレが普通の人間なら、やっぱ怖いと思うよ。自分ではどうにもならない状況なんて考えただけでもぞっとする」
「……よくある事だろ」
 むしろ日常茶飯事だ。イナキにとっては海斗の考え方のほうがよほど意外だったのだが、それは口にせず、手にしていたシャープペンを握りなおした。
 状況が多少変わっても世の中は思い通りにいかないことのほうがはるかに多い。世知辛い世の中だと、彼は年寄り臭くしみじみうなずく。
「でもあれだろ?」
「ん?」
「お前、魔力使えるんなら悲観ばかりじゃないよな」
「ああ、それ、使えない」
「そうそう、使えないんだったら――……え?」
「あの時には使えたのになぁ」
 魔界の最上層、その天空にいたときのみ、イナキは魔力を使うことができた。なかなか便利だと感動したのもつかの間、今ではその片鱗すら見えない。
「使えないって何で!?」
「さあ。魔力は使えるようになったはずだけど、今は全然役立たず」
 座標固定でダリアの肉体と交じり合ってから、体に違和感を覚えることが多くなった。やっぱり失敗したんだなと胸中でぼやいてはみたが、違和感のみでそれ以外の変化らしいものはなく、新しい環境に慣れるために必死だった彼は途中でどうでもよくなってしまった。
「座標固定が使えたら移動時間と交通費浮いたのになー」
 惜しい、とそんなことを残念がっていると、海斗がずいっと詰め寄ってきた。
「なに冷静になってるんだよ?」
「だってもともとは使えないものだったし」
「それで見知らぬ土地に飛ばされたオレの立場は!」
「出刃亀するからだろ。自業自得」
「他人のイチャイチャのぞくのなんて趣味じゃないって! あれは魔将軍の依頼で!! ってか、帰るのすっごい大変だったんですけど!」
 なぜだか敬語になって訴えるクラスメイトにイナキは涼やかな笑顔をむけた。そんなもん知るかと暗に語り、海斗の画板を指で軽くたたく。
「ご苦労様?」
「……お前、本当にいい性格……」
 視線をしたに落とすと黒いものがゆらりと動くのが見えた。影のように見えるそれは大地を滑ってゆらゆら移動し、やがて二人の前でぴたりと止まった。
「影人か。最近多いな」
「前からじゃないの?」
「いや」
 海斗は短く否定した。
「影人が活発になると争いが起こるってばあちゃんが言ってたなぁ」
「淫魔の?」
「ああ。ダリア様がいるから大丈夫だとは思うんだけど」
 止まった影人が動き出しイナキの影に同化すると、海斗は面白くなさそうに大地を蹴った。
「オレ、影人には好かれるんだけど」
「皆の中に入れた影人、戻ってきたの?」
「ほとんどくぐり糸に絡まって役に立たねーよ。傀儡子の奴、めぼしい人間がいたら風に乗せて糸をばら撒きやがったんだぜ? やってられるか。また集めなおしだ」
 ダリアを助けられたのが嬉しかったのだと後からそう耳打ちした男は、不機嫌な口調で文句を並べながらも晴れやかな笑顔を見せた。
 同族のよしみとはよく言ったものだ。同じ淫魔の中でも、ダリアと海斗はさらに近しい存在だろう。ともに一つの性だけを持って生まれた者同士なのだから、親近感はさらに強いのかもしれない。
 機嫌よくシャープペンを手にしたクラスメイトは大きく腕を動かしながら風景を描きとめ始めた。それを脇目遣いに確認しながらイナキも白い画用紙の上にペンを走らせる。古木と校舎が重なる風景に目をとめて、辺りをつけて全体を模写する。
 視界の端に恋人の姿があった。歩くたびに生徒に声をかけられる女教師はなかなかイナキの元まで辿り着けないでいる。おっとりと相槌を打つ光景はいつも通りだが、イナキには彼女が焦れているのがわかり、思わず微苦笑していた。
 その瞬間、彼女とは正反対の場所で変なものが動くのが見えた。
 あらゆる色をちりばめた妙に派手な色彩は確かに見覚えがあったのだが、いやしかし、まさかそんなはずはと、彼は現状を否定して顔を伏せた。
 だが、脳裏に残像がちらついて離れない。ついでに小雪の言葉も思い出して、イナキは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「せっちゃんだ……」
 イナキは低くうめく。
 巨大なベレー帽もどきをかぶったカボチャパンツの男がマントを引きずりながら校舎の裏に消えていった。

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