第九話 願いの果て =3=
眼裏が何度か赤く染まった。不安定に揺れる手足を不思議に思いながら、混濁した意識のままイナキは双眸を開いた。
しかし、目を開けた感覚はあるのに、何も視界に入ってこない。どこを見ても、何一つ色らしいものがない。
普段なら疑問に思うだろうこの状況に、イナキはこれといって疑問すら抱かずに再び双眸を閉じた。すると、頬に何か冷たいものがあたる。
するりと滑って髪に吸い込まれたものは水滴のようだった。
「……ダリア」
無意識にその名を呼ぶと、彼の体を包んでいたものがやんわりと締め付けた。包み込むものが彼女の腕とは知らない彼は、かすれる声をようやく吐き出して苦痛と背中合わせの眠りへと落ちる。
短い覚醒が何度も訪れた。体中がきしむような感覚は、すでに神経系を掌握した糸が外部へと流れ始めたための変化で、栄養源がなくなれば、糸は自然と苗床となった人間とともに死滅する。こうなれば、残された時間はほんのわずかになる。
もう少しで終わる、と心中でささやいたイナキの頬に、冷たいものがそっと触れた。濡れたその感触に混乱しながらイナキは薄く目を開く。ぐらりと脳の内部が揺れるような不快な感覚に襲われて呼吸が大きく乱れた。
「苦しいか?」
――わからない。
声すらまともに出せず、しかし、その事実さえ気付けない少年は小さく唇を動かして心の中でそう答えていた。
「皆、ひどいことを言うんだ」
駄々っ子のようなダリアの声が穏やかに聞こえてくると、それとは別の声が脳裏に響いた。手を伸ばせ、と命令が下される。手を伸ばして魔王に糸を送り込め、それですべて終わる、お前にもう用はない。
糸を流せ。その女に。
孤立した意識は少年の意思を無視してそう命令を続ける。一向に応じない彼に痺れを切らしたのか、右腕に鋭い痛みが走った。だが、糸の支配を逃れた少年の体はぴくりとも動かない。痛覚を狂わせるほどの痛みがあるからこそ意識を保っているとも知らず、糸は激痛と呼ばれる種のものでその体の内部を少しずつ蝕んでゆく。
――あと、少し。
絶え間なく流し続けられる毒に、少年は笑む。眠りの中にあってさえ手放さない意識が、もう少しで永劫に失われる。その意味するところなど、彼にとってはどうでもいいことだった。
そう、どうでもいい。いま真に守りたいのは自分の命ではなかったのだから。
「私はお前を失いたくないんだよ」
不意にダリアがそうささやいた。語調が変わったことに疑問を抱くと、全身にかかる重力が消えてふわりと体が浮いた。異様な空気に再び双眸を開くと今度はうっすらとだが恋人の顔を見ることができた。
泣き濡れた顔には、穏やかな笑みが広がっていた。
「私を助けるつもりだったか? お前のいない世界なぞ興味もないのに」
ゆるりと大気が動く。ダリアが手を伸ばして浮遊する彼の体を引き寄せて抱き包んだ。
「一人では逝かせない」
耳元で告げられる言葉にイナキは動揺した。揺るぎない意思をたたえた瞳が彼の顔を覗き込んで小さく笑みをこぼした。
そして彼女は彼の手に自分のものを重ねる。
「魔界の最下層で生きていた頃はできなかったんだ。だが、覇者の力を手に入れて、お前に会ってからかなり練習した」
淡々とつむがれる言葉の意図をはかりかねてイナキは彼女を見詰める。彼女の言葉はさらに続いた。
「たくさん練習したんだ。だから、うまくなった。――イナキ、共に生きることを望むなら、死ぬときもいっしょがいい」
彼女が瞳を伏せた瞬間、手に違和感が生まれた。確認しようと思ったが体がまったく動かず焦りを覚えた刹那、過去に何度か体感したことのある変化がどこかに生じた。
イナキが息をのむ。
空間が歪むその感覚は、移動術であり、座標固定と呼ばれるもの。それは本当に言葉通り、座標を固定して空間を飛ぶ術である。
目の前の女が艶やかに笑った。
――固定された座標は。
「失敗しても文句は言ってくれるな。生体同士なら、生き残った例がないわけではない」
止める間もなく、とめることすらできず、激痛とは別のものが彼の体を襲った。不快感というのではない、あえて表現するなら異物感≠ニも言うべきものが全身を駆け抜け、激痛と混ざり合って精神に溶け出していく。
イナキは
体のどこかが原形を失って崩れているような感覚。とっさに手を伸ばすがその手すらそこにはなく、白い骨が皮膚を突き破って顔を覗かせていた。
これは夢だ、現実なはずはない。
どろりと体の一部が溶けはじめ、イナキは狼狽しながら呪文のようにそう呟いた。
肉の一部は液化して辺りを漂い始める。少年はとっさに手を伸ばしてそれを引き寄せ、己の体に擦り付けた。
悪い夢だと自分に言い聞かせながら、彼は同じ事を繰り返していた。
やがて、ふとその視線を地面らしきものに移す。波打つそれに手を突っ込み、彼はなにも手に触れないのを驚きながらもそこを探った。
しばらく眉をひそめながら骨の先で探していると、ようやく何かが当たった。
彼は溜め息をついてからあたったものを引き抜いた。
途端に、世界が揺れた。
傾くのは視界ではなく視神経だ。そんな妙なことを考えていると不意をつくように全身が重くなる。
バランスが上手く取れず崩れると、彼の体は何かに当たってかろうじて転倒を免れた。
イナキは薄く瞳を開けた。視線の先には不自然なほど何もない。壁らしきものもなければ、建物も木も、大地すらなかった。
イナキは自分の体を両手でまさぐってから短く息を吐いた。
どうやら今度は夢ではないらしい。
「ここ、どこだ」
うめいてからようやく声が出せることを知った。
頭の中がいまだに何かにかき混ぜられているようにグラグラと揺れている。目をきつく閉じたがその症状はなかなか治まらず、彼はあきらめたように肩をすくめて再度目を開けた。
「魔界最上層、その天空。座標を固定するのに余計なものが混じっては困る。お前以外を取り込むなど考えるのも御免だ」
低い女の声にはいつもの覇気がない。イナキが振り向くと、何かに背を預けるようにして座り込んでいるダリアの姿があった。
だらりと垂れ下がった腕は薄く紫色の網目が浮かび上がっている。足にも同様の症状が、首から顎にかけて、おそらく伏せられ髪に隠れた顔にもそれが浮かび上がっているだろう。
イナキはその姿を見てぎょっとした。白い肌に刻まれた模様は死後に出てもおかしくない種類のもので、動かなければ死んでいるのかと疑う有り様だった。
「――
指先から伸びた糸を引きちぎってダリアは小さく舌打ちをした。
「オレのくぐり糸……」
「ああ、引き受けた。まったくあの傀儡子も、回りくどい事をせずに私を狙えばよかったものを」
「……だから狙わなかったんだろ」
「なるほど」
髪の間からのぞく口元は薄く笑いながらもほんの少し引きつっていた。くぐり糸の毒と進行は、肉体と精神を蝕む結果から戦略としても十分な効果がある。心身に受ける苦痛は、イナキが一番よくわかっていた。
イナキは息を殺す女を引き寄せて抱きしめる。
「痛い?」
「大事無い。言ったろ? 治癒は基本だと。魔王がこれしきのことで死ぬものか」
「結果論で言わない。助からなくてもいいと思ってただろ」
断言するとダリアが押し黙った。どちらが命を落としても苦悩しか残らないだろうが、相手を助けたかったという理由で死に急がれてはたまらない。自分のことは棚に上げ、イナキは盛大な溜め息をついた。
「無茶しないでよ。いい?」
「……わかった」
不服そうな声が返ってきたのがおかしくてイナキは苦笑する。なかなか顔をあげない恋人の額に唇を寄せると、驚いたのか彼女の体が大きく揺れた。
珍しい、と思う。いつもは積極的に迫ってくる彼女が今はやけに控えめだ。
「ダリア」
耳元で名を呼ぶと、なぜだかしがみ付いてきた。
「失敗しただろ?」
座標固定は本来なら狙った場所へ正確に移動する術で、そこに何もないのが前提だ。別の肉体同士を一時的に混ぜ合わせるなど荒療治もはなはだしい。
失敗しないわけがない。
「ダリア」
名を繰り返して頬に触れる。戸惑うのが気配だけでわかり、イナキはさらに苦笑を深める。触れたいと思うのは初めての欲求かもしれない。しかしこんなときに限って、彼の恋人はなかなか顔をあげようとしなかった。
糸の影響を如実に伝える肌は、確かに美しいものではないだろうが、それだけが理由で、それを恥じて顔を伏せ続けているとは思えない。
抱きしめる腕を緩めて肩に手をやると、唐突にどこからか軽い音が聞こえてきた。
「あのー、イチャついてるとこ非常に申し訳ないんですけど?」
申し訳ないなら声をかけるなと心の中で毒づいたが、イナキはダリアの肩にやった手をはずして彼女を抱きなおしてから笑顔を向けた。
「なんか用?」
言葉尻の棘まで隠す気はない。何かをノックしていた手は、うひゃあ、という奇妙な声とともに引っ込められた。
「一応お礼言いに来たんだけど。助けるつもりが助けられちまったからなー。さすがにさ、傀儡子と傀儡相手に喧嘩ふっかけるのはまずかったんだよな。……ああ、あと、探してくれって魔将軍からの依頼もかねて」
空中を器用に浮遊しているクラスメイトはそう言って引きつった笑顔を向けてきた。
「……あのさ」
「ん?」
「海斗ってなんなの?」
「だから、クォーター」
「それは聞いたけど」
「じい様がイギリス人、ばあ様が魔城お抱えのサキュバス」
イナキが目を見開くと、海斗は指を鳴らして得意げにウインクしてきた。
「淫魔を煙たがる悪魔も多いけど、ばあ様は切れ者だったから面白がった先の魔王が城に引き込んで面倒みてたらしい。ばあ様、歴代魔王を見てきた生き字引だったんだよ。先代がバカすぎて愛想尽かして逃げ出したけど、ダリア様の噂聞いて驚いてたな。魔城を一息で塗り替えた悪魔は類を見ない。魔城の変容の速度は、そのまま魔力を受け入れる器を意味するんだよ」
「クォーター……聞いてないぞ、身内にそんなのがいるなんて」
「言っても胡散臭いだろ。オレ、生まれつきのインキュバスだから、魔王様とはいろんな意味で同族なんだよ。だから傀儡子に話し持ちかけられた時にはこっそり魔王様の手助けしようと思ったのにさー」
腕の中でダリアがぴくりと反応する。彼女も意外だったのだろう。
「傀儡子は、まさか淫魔が影人使ってくるとは思ってなかったみたいだったけど」
「私を助ける……?」
顔を伏せたままダリアが小さく問いかけると海斗は微笑した。
「ずっと前、人間界で淫魔狩りが流行ったことがあった。オレの親もそのとき結構大変で――ダリア様が魔界の頂点に立たなきゃ、淫魔は滅びてたかもしれなかった。あなたの存在が、一族にとって救いだったんだ」
「……そうか」
しがみ付いているダリアの手に力がこもると、それに気付いたイナキは静かに視線を落として、その背中をなだめるようにそっと叩いた。あまりいい思い出ではない過去だが、その一つ一つが未来へと繋がる大切な架け橋なのだ。
「まぁ、意地張らずに相談してればよかったんだけど」
黙りこんだイナキを見てなにを思ったのか、海斗はごめんと頭をさげてきた。
「いけると思ったんだよ。結構影人持ってたから、ひとまず魔王様の周りにいる人間全員に定量の影人送り込んで、くぐり糸誘導して。相手のほうが一枚上手だったなぁ、悔しい」
「……全員?」
「イナキ一人に絞ればここまでややこしい事にならなかったんだけど、傀儡子って保険かけるのが好きだから、それ考えたら失敗した。三種類はありえないって」
「一種類ならフォローできたのか?」
「当然。傀儡子にばれるとまずいから、ちょっと細工はしたけどな?」
ニッと晴れやかな笑顔をむけられ、イナキは脱力した。自信ありげなその様子から、暗い顔で人間界に戻らずすみそうだと安堵する。
淫魔はもともと利己的で、同時に快楽至上主義でもある。まさかこんな変り種がいるなど、さすがの傀儡子も予想できなかったに違いない。
まったく大したヤツだと苦笑する途中でふっと何かが引っかかってイナキは海斗を見た。
「淫魔って言ったよな?」
「うん」
「……ダリアにちょっかい出した?」
「うん、どんなかなーと思って。さすがにガードがきつかったなぁ、絶対落ちると――……」
腕に抱いていたダリアの体が硬直し、次の瞬間、ピッと紫色の指先が海斗をさした。
「そこに直れ――!!」
相変わらず顔をあげるのが躊躇われるようで、怒声は微妙にくぐもって迫力に欠ける。しかし憤慨しているのはよくわかるので、イナキは苦笑いしながら柔らかくその背中を撫でた。
「今回は大目にみるよ。今回だけはね?」
次にやったら容赦はしないが、そこらへんはあえて口にはしない。どうやら聡いらしい海斗はイナキを見て引きつりながら頷いた。
「ところで聞いていい? その結界ってさ」
「結界?」
するすると距離をおく海斗に尋ねられ、イナキは初めて気付く。浮遊するイナキとダリアの周りには丸い透明の膜が張られていて、それが空にそのまま浮いているのだ。硬質な膜に手を伸ばして瞳を細めると、海斗は言葉を続けた。
「その結界、固定してるのって誰?」
本来なら野暮な質問だ。イナキが人間でダリアが魔王であるのなら、本当に意味のない問いかけだ。けれど今は、前と少しだけ状況が違う。ダリアはいまだに体内に根付いたくぐり糸を排除する作業でまともに魔力を使うことができない。
イナキはくすりと笑った。
座標固定は失敗した。これがその代償。
「邪魔だから消えてくれる?」
満面に笑みを浮かべて意見すると海斗が口をぽかりと開ける。彼から視線を逸らしながら意識をわずかに集中させると、身近にあった気配が跡形もなく消えた。
出歯亀を移動させ、イナキはようやく満足して腕の中の女を抱きなおす。艶やかな黒髪を指で梳きながら彼は彼女のつむじにそっと唇を押し当てた。
色々なことを伝えたい。
言葉や想いを惜しむことに意味などないことをようやく知った。
「好きだよ」
だから、彼女が望んでいただろう言葉を、伝えたいと願っていた想いを口にする。驚いてあげた彼女の顔は予想通り散々な有り様ではあったが、向けられた笑顔はいつにも増して眩しく映った。
その唇に、そっと触れる。
柔らかな愛の言葉を乗せながら。
=end=