第九話  願いの果て =2=


 魔城は外観にくらべてかなり広い。それは意思を持つ城が、居住者や逗留者が増えれば己の判断で絶えず空間を変化させるためである。
 大広間などはダリアが魔王就任の折、壁はおろか天井すら消えうせるほどの変貌を見せ、戴冠式が終わりを告げるとその後数時間で元通りになっていた。
 しかし、基本的に部屋が勝手に増えたり減ったりする程度で、緊急時以外はこれといって派手な動きはない。
 ダリアは廊下の途中でピタリと足を止めた。
 普段、魔城は王を受け入れ、それを覇者の証しとして悪魔たちに示している。どれほどの知識と魔力をそそがれて造られたか定かではないが、魔城の黒扉は魔王かそれに付き従う者にしか開かれず、それ以外の一切の入城を拒むようにできていた。
 その仕様はこれといって問題なく、むしろ外敵から王を守るには最良の仕組みである。城の干渉は黒扉に集中し、平時にトラブルらしいトラブルを起こしたことはない。
 ダリアは柳眉を寄せながら辺りを見渡し、踵を返して歩き出した。
 そして再び立ち止まる。
「何だ?」
 不機嫌な声で閑散とした長い廊下に問いかける。
「私は忙しい。用があるならあとにしろ」
 ダリアはそう告げてから歩き出し、また数歩で立ち止まった。ゆらりと大気が動くと、怒気が空気を赤く染めるようだった。
「調理場に行くのが気に入らんか? 破壊されたくなければ邪魔をするな」
 声を荒げて命令したが、空間は絶え間なく歪み続けていた。座標固定で調理場まで飛ぼうかとも考えたが、魔城の異様な気配から推察するに、それはあまり利口な行為ではないだろう。結局歩いていくより方法がない。
 しかし、まるでそれを阻むように空間が歪む。
 ダリアは溜め息を漏らした。今まで魔城が悪戯に空間を操ったことはない。何か考えがあるのかもしれない。
「わかった、負けた。こっちに行けばいいのか? あまり手間を取らせるなよ」
 肩をすくめて歩き出すと空間が次々と変わり、その奇妙な感覚にダリアは苦笑を禁じえなかった。城の主張は全体を飾る花ばかりだと思っていたが、こんなこともできるのだと初めて知った。
 さて用件はなんだと小首を傾げていると、廊下のつきあたりで突如ドアが現れた。
 華々しい内装とは打って変わったそのドアは、城の一角にひっそりと存在する先見の水晶が置かれた部屋のそれである。
「なんだ?」
 魔城がダリアをその場所にいざなうなど、彼女がここに初めて来たとき以来だ。珍しい事もあるものだとドアノブをひねり、彼女は動きをとめた。
 いつも垂直に立つ鳥の脚は、ダリアがドアを開けると同時に嬉しそうに彼女を招き寄せてきた。時に偽りを見せる水晶は神から受け取った神器と言い伝えられている。
 ダリアはいつもの場所に水晶がないことに不信感を抱き、何かの気配に視線をゆっくり動かした。
 床には小さな塊が落ちていた。荒く呼吸する音、それに伴い大きく揺れる姿――尋常ではないと、ダリアはとっさに判断する。
 一歩部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女は無意識に叫んでいた。
「イナキ……!?」
 己が呼んだ名に驚いて、彼女は床に崩れた恋人に駆け寄った。先見の水晶は、ダリアがイナキの体を抱き起こすと同時に垂直に戻った。
「何が……何があった!?」
 玉のような汗をかいている体が熱を帯びている。繰り返される呼吸は浅く、息を吸うたびに小さな体が大きく揺れた。
 ダリアはとっさに水晶を仰ぎ見て言葉を失う。気紛れに未来や過去を見せる水晶は、いつもなら何の変哲もない室内だけを映し出していた。しかし、見上げた先にある水晶は異様なほどどす黒く、何ひとつ映し出そうとはしない。
 未来を映し出さないことなど日常茶飯事だった。――そう、それはよくあることだった。けれど、何も映さなかったことなど過去に一度もない。それはまるで、続く未来が失われたとでも言いたげに、一切の色を呑み込んでいた。
 ダリアはぎこちなく視線を落とす。
「……イナキ……?」
 茫然と名を呼んだ彼女の視界には、見落としてしまいそうなほど細い糸があった。悪寒が背筋を駆け上がり、すべての思考が停止する。
 細い細い糸は、イナキの肩から伸びていた。
 傀儡子が他者を操るために肉体に仕込む糸は、全身に根付いて微量の毒をもって神経を侵し自由を奪い、意志ある傀儡を作り出す。
「どうして、こんな……」
 今もダリアには、傀儡子の糸の気配がわからない。彼女は茫然と少年を見おろして小さくうめいた。
 わからないはずだ。すでに糸は、完全にイナキと同化していたのだから。
 その体はとうに、彼のものではなくなっていたのだから。
 傀儡子の意思がしみこんだ糸が、彼の意思を飲み込んだままその体を動かし続けていたのだ。
「誰か……ッ」
 悲鳴のような声が城中に響いた。
「来い――!!」
 悲痛な声が命じると同時に空間の一部が歪んだ。まるで天女のようにふわりと舞い降りた少女は、少年を抱きかかえた主人の姿に目を見張った。
「ダリア様!?」
 髪を振り乱して駆け寄ってきたのはシェスカだった。ダリアはイナキを抱きしめたまま彼女を見上げてくしゃくしゃと顔を歪めた。
「助けてくれ」
 うっすらと開いているイナキの双眸は虚ろに揺れるだけで何も映さない。時折、絞り出すように呻き声をあげたが、どんなに名を呼んでもその体を揺さぶっても、彼からの反応は一切なかった。
「イナキ」
 その体から伸びる糸を何度も払い落とし、ダリアは震える声で彼を呼ぶ。
 未来を――これから長く続いてくはずの未来を、ともに歩いていくはずの相手だった。心から愛しいと、そう思えるただ一人の相手だった。
「おいて、いくな」
「ダリア様、気を確かに――誰か! 医師をこれへ!」
 いつもは明るく軽やかな声が、凛として響く。
「早くなさい」
 一喝する声がびりびりと魔城の空気を揺らした。直接脳髄へ叩き込まれた言葉に城内の悪魔たちはさぞ驚いたことだろう。
 唖然とシェスカを見上げると、彼女はあら、と声をあげて可愛らしく肩をすくめた。
「はしたないまねを……失礼いたしました。部屋まで飛べますか?」
「……ああ」
 必死で動揺を鎮め、ダリアはイナキを抱いたまま立ち上がった。ずしりと重い体は熱に包まれたまま力なく揺れ、本物の人形のようだった。
 傀儡子と糸が繋がれば、意思のない彼は傀儡子の思い通りに動く生き人形となるだろう。糸が繋がらなかったとしても、イナキの中にある糸が傀儡子の残留思念を忠実になぞっていく。
「少し、辛抱してくれ」
 浅い呼吸を繰り返す恋人をきつく抱きしめ、ダリアは床を蹴った。
 自室のベッドにイナキを寝かせつけると、五分と待たずに顔色の悪い男が大きなカバン片手に部屋に駆けつけた。
 派手な服の間からこれまた派手な布を取り出し、しきりと額をこすってダリアに低頭しながら部屋に入る。シェスカの紹介で、男が魔術と医療を得意とする医者であることが伝えられた。
 横に長い顔の脇には二本の太いヒゲがある。薄い唇は喉近くにまで達し、鼻は陥没、目は糸のように細く髪は一本も生えていない。どこの川から這い出てきたのだと問いたくなる医師は、椅子をベッドに引き寄せて苦労して腰掛け、そこで眠る少年の顔を覗き込んで鞭のような眉をしかめた。
「人間は診療外ですが」
「言い訳するゆとりがあるなら早く診てはいかが? 名医なのでしょう」
 シェスカは静かに、けれど刺々しく口にする。医師は小さく唸り声をあげながらも椅子に座りなおした。
「人の病気などわたしの処方する薬ですぐに完治いたしますよ。もともとあれは弱い生き物ですからな」
 青ざめるダリアにむけて得意げに語り、鼻の下を伸ばしながらわざとらしく咳払いした。大きな手で布団を掴み、彼は勢いよくそれを剥いでから動きをとめた。
「これは」
 糸のように細い眼を限界まで開け、医師は言葉を失ってしばらくベッドで眠る少年を凝視していた。
 見た目は小柄な少年である。どんな病気もたちどころに治す万能薬を編み出した医師は、そのひと欠片を少年に飲ませれば事足りると思っていた。
 布団を剥ぐまでは、本気でそう思っていたのだ。
「――くぐり糸」
 目を凝らしていても見落としてしまうはずのその糸は、布団の上いっぱいに広がって少年の体を包むようにあふれていた。
「末期症状。……神経毒を流されてますな。ここまでの症状は初めて見る。ぜひこの遺体を提供して――」
 医師の言葉はその途中で激しい音に遮られた。ダリアが顔をあげると花瓶がひとつ、床に落ちて粉々に砕けていた。
「治療をお願いしているのです」
「あ、ああ……そうでした」
 医師はシェスカに頷いて、慌ててイナキに向き直った。ベッドの上の糸を掃い、軽く視診と触診をしたあとでカバンから注射器を取り出すと、弛緩する腕を持ちあげて慎重に針を刺し――そして、息をのむ。
「なにか?」
「……いえ、血液検査をします。部屋をお借りできますか?」
「ではこちらの客間に」
 わずかな血液を採取しただけで医師は早々に立ち上がってシェスカに続いて部屋を出て行った。
 ダリアは放心したままそれを見送り、しばらくその場に立ち尽くしてようやくイナキに近づいた。
 浅い呼吸はまだ続いている。大量の汗をかく体は小さく震えていた。
「寒いのか?」
 問いながら、ダリアはイナキの肩から伸びる糸を掃った。何度も何度も繰り返したが、異様な速度で伸びる糸は消える気配がない。
 イナキの意識が混濁したため、抑制されていた糸が爆発的に生成され続けているのだ。彼の命を削りながら。
 ダリアはきつく唇を噛んだ。
 平然としていたイナキの体にはすでに糸が根付いていた。この状況を避けるべく奔走していたダリアは何の成果もなく彼の元に戻り、結果、もっとも恐れていた事態に直面している。
「どうしてお前がこんな目にあわなければならない」
 魔王の伴侶というだけで死に向き合わねばならないなら、それはあまりに馬鹿馬鹿しい理由だった。
 こんなことなら、ヴェルモンダールの言葉を素直に聞き入れ、魔城でおとなしくしていればよかったのだ。
 いまさら後悔しても仕方ないのだが、そう思わずにはいられなかった。
「私のせいだ。ヴェルに……」
 ダリアは口をつぐんだ。
 そうだ、ヴェルモンダールがいた。
 彼はまだ人間界にいるはずだ、傀儡子の情報を掴んでいる可能性がある。それを捕らえて糸の抜き方を――せめて治療の方法がわかるまでの措置を聞き出せば、少しは時間稼ぎができる。
 ダリアはイナキを見つめてから踵を返し、シェスカたちが向かったのとは別の部屋に駆け込んだ。直にヴェルモンダールに話をしたいところだが、探している時間が惜しい彼女は、一室を丸々衣裳部屋にした華やかなその部屋の連なるドアを次々と開けていった。
「どこかに……」
 あったはずだ、と心の中で続けると、それは思った以上に早く彼女の視界に入ってきた。多少手にあまるサイズの黒い物体はダリアが手に取るとその一部に亀裂が入る。ゴチャゴチャと並ぶでっぱりを一つずつ押していく途中で、亀裂は上下に割れ、奥から血走った目がぎょろりと姿を現して辺りを見渡した。
 生体を組み込んだ機械は魔界と人間界を繋ぐ偉業を成しえた文明の利器である。
 耳に押し当てると、馴染んだコール音が繰り返された。
 イライラしながらしばらく待つ。やはり飛んだほうが早いかと電源に手を伸ばす直前、コール音が途切れた。
「ダリア様!?」
「遅いわ、貴様――!」
 開口一番、ダリアは側仕えを思い切り怒鳴っていた。
「傀儡子はどうした!? 糸の抜き方を知らんか!?」
「根付いた糸は抜けないのが通説です」
「そんな事はわかっている! 糸の生成を遅らせる方法、解毒剤の作り方、なにかあるだろう!?」
「……ダリア様」
「なんだ!? 急いでいるんだ!!」
 苛立って叫ぶと、ヴェルモンダールは一瞬だけ押し黙って言葉を発した。
「糸は他者の体内に入った時点で、傀儡子の意思とは切り離されます。毒は改良に改良を重ね、同種族でさえ死に至らしめる猛毒になっている。彼らは解毒剤を持たないのです。あれはそれが弱みになると思い込んでいる」
「糸は……糸は傀儡子のものだろう!? その意思が生きているなら――生きているなら、傀儡子を……!!」
 言葉が続かないダリアの耳に、ヴェルモンダールの声が静かに響いた。
「傀儡子は死にました」
 大きく肩を揺らし、ダリアはふらりと歩き出す。衣裳部屋を出てベッドに近づくと、そこには先刻取りのぞいた以上の糸があった。
「ヴェル……糸が、消えないんだ」
 とぐろを巻く糸は一体どこへ向かおうというのか、イナキの体から途切れることなく吐き出されている。まっすぐ傀儡子の元に向かうはずの糸がその場に留まり続ける意味を、ダリアは今になって理解した。
「糸が」
「――落ち着いて聞いてください、ダリア様」
「ずっとずっと」
「ダリア様、イナキ殿は貴女を守るために命を賭けたんです」
「伸び続けているんだ」
「――ダリア様! 彼の決意を無駄にしてはいけません!」
「ヴェル、私は、どうやって呼吸をしていいのかさえわからなくなりそうだ」
 絶叫する声に耳を傾けていた彼女は突起の一つを押し、再び静寂を取り戻した機械を無造作に放り投げた。硬い音を響かせたそれは床をすべり、一つのドアの前で止まる。
 ダリアがそこに近づくと、ドア越しに言い争うような声が聞こえてきた。
 声はすぐに誰のものかわかった。シェスカと、奇妙な医師のものだ。
「それで名医だと!?」
 シェスカが怒鳴るなど珍しいことだった。彼女はいつも優しく華やかで、笑顔の似合う女だった。
 どんな顔をしているのだろう――ダリアは自失したままさらにドアに近づいた。
「何度も申し上げたとおり、毒が完全に回っているんですよ。たとえ解毒剤があったとしても手遅れだ。まだわずかに意識があるようだが、それもじきになくなる。早く手を打ったほうがいい」
 医師の声に、ダリアは後退る。
 声は続けた。
「くぐり糸に操られる前に殺す必要がある。もし魔王に万が一のことがあれば誰も責任など取れないでしょう」
「それは……!」
「ご決断を。今ならあの人間を楽に死なせることができる」
 ダリアはさらに後退した。視界がひどく悪くて何かにつまずき転びかけたが、彼女はドアを見つめたままさらに歩いた。
 そしてその体がベッドに到達する。
 イナキの姿を隠そうとでもするかのようにベッドは糸で埋まっている。ダリアは苦しげな呼吸を繰り返す彼にそっと手を伸ばした。
「まだ、生きているのに」
 皆が皆、申し合わせたように彼を殺せと囁いてくる。
 こんなにも愛しい者の命を、己の命よりも大切な者の命を刈り取れと、言葉なく進言する。
 ダリアはイナキの体を抱き上げた。
 ふいに目の前の空間が歪み、見慣れた壮年の男の姿を産み落とす。彼はイナキを抱き上げるダリアを見て驚愕した。
「ダリア様!」
 止めるその声を振り切って、彼女は魔城の床を蹴った。

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