第九話 願いの果て =1=
視界が大きく揺れ、脳の奥がひしゃげたような嫌な感覚が彼を襲った。
無言のまま助けを求め、掴まっていた体にしがみつくと、後頭部をそっと撫でる手が現れる。不快なものは続いていたが不思議と苦しさだけは遠のいた。
柔らかく包み込むようなその感覚が何だったのか――イナキは、浮遊感が去ってからようやく理解する。
「大丈夫か?」
覗きこんでくるのは鮮やかな紫水晶。ダリアの瞳は神秘的で、冷酷なイメージを抱きかねない色彩であるにもかかわらず、イナキに向けられるときは必ずといっていいほど真摯で暖かい光に満たされていた。
「……大丈夫」
それが今は少し違う色に見える。イナキは瞬きしながら彼女から離れ、疑問を抱く己の心に重い蓋をする。
魔城に入ることなど容易い。
意思を持つ城とて、主が招きいれた者を拒むことなどできはしない。
小さなつぶやきが、彼の意思とは別のところで生まれた。
この人形は、あるいは魔将軍よりはるかに役に立つかもしれないと、つぶやきはそう続けた。
イナキは首をひねって肩を見たが、そこに糸らしき物はない。外部から操られているのではなく、自分の内部が動いているのだとおぼろげながら理解した。
ダリアに勘付かれては計画が台無しになるという理由で糸はいったん切ってある。しかし、傀儡子の思考は糸同様に全身に根付いている。
イナキは大きく息を吸い込んで、無言で見つめてくるダリアに視線を合わせた。
「ここは?」
「魔城だ」
大気の変化を敏感に感知しながら察しのついた質問をすると短くダリアがそう返した。イナキは不自然にならないように驚いた顔を見せ、辺りを見渡し――そして、本気で目を丸くする。
想像以上というどころではない。畳み何畳分あるかもわからない広々とした部屋には優美な装飾品とベッドや姿見などがゆったりと配置されていた。いたるところに生花が飾られ、全体的に女性らしい華やかなイメージでまとめられた一室は、驚くほどダリアに似合っている。
「……ちゃんと飛べたじゃん」
「ん? ああ、そうだな。緊張はしたが……なんだろう、なにか……」
困惑する彼女の心理をイナキはなんとなく理解する。いつものようなテンションで飛ばれたらろくでもない事になっていたに違いないが、今の彼女は何かに疑問を抱き、冷静さを保っていた。
深く追求されても困るので、イナキは話題を変えるために部屋を眺めてダリアに視線を戻す。
「ここ先生の部屋?」
「ああ」
「……いいところだね」
素直な感想を述べるとダリアの表情が緩む。
イナキはその変化を見逃すことなく口を開いた。
「城の中も紹介してくれる?」
意思を持つ魔城は外部からの攻略が難しく、内側から侵食していったほうが確実で問題が少ない。他に事例のない建物なだけに慎重にならざるを得ないが、失敗したときのために予備の捨て駒をいくつか作る必要がある。
注意深くあたりを観察しながら、イナキは冷静に考察する自分を観察し続ける。
意志がなくても体が動く。根付いた糸は肉体と同化し、彼の一部となって全身に命令を送り続けていた。
座標固定で通った道は記憶している。自力で渡ることができなくても、糸を伸ばすことくらいは可能だ。傀儡子と連絡を取るためにタイミングを計る必要があった。
「イナキ?」
ドアに向かったダリアは立ち尽くしたイナキに不審を抱いて足を止めた。彼は慌てて不安げな彼女へと駆け寄って苦笑した。
「ごめん、こんなにすごい建物だとは思わなくて」
「他もすごいぞ。もともとは黒い建物だったらしいが、今では花であふれている」
いたるところに見目鮮やかな花の模様があった。ドアをくぐればそこも上品で優美な内装で統一されている。壁を彩る花は調和を崩すことなく咲き乱れ、緩いカーブを描く可愛らしい窓には細やかな花の模様が彫り込まれていた。
その中でいっそう美しい花がふわりと微笑みかけてきた。
「前魔王の時は絢爛豪華な城だったらしい。魔城は意志を持つから、主に合わせて姿を変える」
言葉を忘れて見渡していると、ダリアが補うように付け足した。その顔を、イナキはまじまじと見つめる。
「どうした?」
歩くように促しながらダリアが小首を傾げるその姿が、いつもとは違って見えてイナキはさらに彼女を凝視した。
姿形が変わったわけではない。そこにいるのは、今まで彼のそばにいた未来の妻である女――その事実は、何ひとつ変わらない。
それなのに、今まで受けてきた印象ががらりと変わっている。
どんな花よりも美しい女は、不思議そうに少年を見つめ返してから再びにじむような笑顔を向けた。わずかに揺れるのは戸惑いを感じているためだろう。それすらも艶姿を引き立てる要素にみえた。
だが同時に、魔界の瘴気に呼応して増した艶色は意外なほど透明な色を持っている。
「……なんでもない。ちょっと喉が渇いたみたい」
「ああ、じゃあ何か飲み物でも持ってくるか?」
「うん、部屋で待ってる」
少し心配そうな顔をしながらダリアは長い廊下を進んでいく。彼女が廊下を曲がったところでイナキは静かに踵を返した。
部屋をちらりと見てから操られるようにその前を素通りした。思考が一瞬にして白濁と化し、自分の意志で歩いているかどうかも判断できなくなる。
立ち止まって軽く頭をふると霞が消えた。
「誰かいないかな」
イナキは右手に視線を落として小さくそう口にする。
糸を誰かに仕掛けなければ傀儡を作り出すことができないのだ。城内にどれだけ悪魔がいるかはわからないが、なるべく身動きの取れる、できれば地位の高い者がいい。
仕掛けたあとは気取られないようにする必要がり、糸が神経を侵食するスピードを変えるのも重要な作業になる。悪魔は人間と違って魔力があるぶん慎重にならざるを得なかった。
さて、とイナキは溜め息のように口にする。
双眸を閉じて空気の振動を感じ取り、それから廊下を曲がって歩き出す。ずいぶん歩いた先には書類束を抱えた少女の姿があった。
「あら、人間?」
少女は鈴を転がすような声を発して立ち止まった。
「大変だわ、どこから紛れ込んだの?」
「ダリアが連れてきたんだよ」
「……え?」
イナキの言葉に少女がきょとんとする。その予想通りの反応に苦笑して、彼は自分を指差しながら告げた。
「魔王の伴侶」
「まぁ。こんな状態で失礼いたします」
どう見たって怪しい子供の言葉に、何の疑いもなく膝を折るように可憐に一礼されて今度はイナキが驚いて彼女を見る。
あっさり信じるとは思わなかったのだ。否定されるか反発されるか、その二つの反応だけを想像していた。
「信じるの?」
「ダリア様以外の手で人間が魔城に来ることなど考えられませんもの。あの方がお連れするなら伴侶となる者だけです。はじめまして、私はシェスカと申します。ダリア様の身の回りのお世話をしています」
「……武蔵イナキです。手伝いましょうか?」
「とんでもない」
「でも、重そうだけど」
「ちょっと保管庫の掃除を始めたら止まらなくなって、もうずっとかかりきりなんですよ」
「だったら」
「平気です、腕力はありますから」
コロコロとシェスカは笑って言葉のとおりに書類の束を平然と運んでいく。魔城の者と接触したいイナキは、遠ざかっていく背を少しだけ見送ってから音もなく近づいて手を伸ばした。
体の一部に接触すればいい。
小さな痛みは、やがて全身を多い尽くす鎖となって彼女のすべてを奪い、彼女はさらに他の者を傀儡とするための糸を体内で作り出す。
ダリアに仕掛けるのがもっとも効果的だが、後々のことを考えるなら彼女は一番最後がいい――イナキはそう結論を出して細い肩を掴む。
「あ」
思わず小さな声が出た。肩を掴んだはずの手は大気をすり抜けている。
顔をあげると、シェスカの笑顔が見えた。
「本当に大丈夫です、イナキ様」
武術を会得しているようには到底見えない少女は、しかし驚くべき身のこなしでイナキの手から逃れて立っている。魔王に仕えるだけあって、さすがにただの女というわけではないらしい。
「じゃあ気をつけてね」
そう返してイナキは何事もなかったように踵を返した。
少女が遠ざかっていく足音に耳を澄ましながら唸り声をあげる。魔城に入れればいいという単純なものではなく、これでは城内の者も一癖ありそうな雰囲気だ。
「参ったな」
荒立てずに事を済ませたいイナキは難しい顔のまま歩き出す。体内に入って彼を操る糸が絶えず急かし、どうにも落ち着かない気分にさせた。
小さく息を吐き出したとき、何かに呼ばれるような感覚に立ち止まった。高く低く鳴り響く音に辺りを見渡し、廊下を左に折れて歩き出す。
次の道を右に、さらに左に。
やがてひどくシンプルなドアの前で音が途切れ、彼はそれを怪訝な顔で見やった。
華やかな周りとは異質な見た目だが、違いはどうやらそれだけではないらしいとイナキは直感する。
少しだけ悩み、彼はドアノブをひねって中を覗きこんだ。
そこは本当にあまりに異質な空間だった。小さな部屋には素っ気無いくらい何の変哲もない窓が一つあり、それが唯一の明かりになっていた。
小さな部屋の真ん中には、床からまっすぐに伸びた鳥の足が、まるで天に捧げるように水晶を掴んで立っている。
「変な部屋」
だがひどく興味をひかれて彼は部屋へと足を踏み入れた。
注意深くあたりを見渡しながら水晶に近づき、映るのはこの薄暗い部屋以外にないとわかっているのに躊躇いながらもそれを覗き込んだ。
水晶は闇を映していた。いま目の前にあるはずの光すら跡形もなく、イナキは嫌な気分になっていったん顔をあげた。
ここを離れろ。離れて早く手駒となる者を探せ。
促すような言葉が意識の奥で広がり、彼は水晶から離れるために足を引く。
その瞬間、何かが動いた気がしてイナキは再び視線を落とし、白くけぶる視界に立ちすくんだ。
意識が途切れる。
彼はよろめいて膝を折り、低くうめいて体を丸めた。
光が見える。闇の中に、小さな光が。
うっすらと目を開けた先には先刻の水晶があった。直立していたオブジェにささえられた水晶が目の前にあることを奇妙に思うことすらできず、彼は小さな光を宿す闇の珠に震える手を伸ばした。
何が映っているのかは、かすんだ視界ではよくわからなかった。
ただひどく胸が苦しく思え、彼は再び呻き声をあげた。
指先が水晶に触れると視界がさらに濁り、放せ、と何かが彼の中で絶叫する声を聞いた。
ふつりと音を立てて胸の奥で何かが切れる。その途端、今までくぐり糸に絡め取られていた意志が鮮明に蘇った。
「……嫌だ」
小さく己の意志を口にして、イナキは両手で水晶を包む。視界はさらに白濁となり、何も映さなくなった。
苦痛が広がる。全身に根付いた糸は、意に反する傀儡を操るために毒を流し続けるのだと、操られるようになってから知った。
全身を襲うのは、わずかな自我のある傀儡を完全な生き人形にするための毒。
「お前の思い通りにはさせない」
痛みで薄れそうになる意識を奮い立たせ、イナキは荒い息の間からそう搾り出した。
水晶から片手を放し、そっと握った。
傀儡子が狡猾ならこちらはそれ以上の策略を用いてその裏をかく必要がある。だが、何の準備もないイナキがとれる手段などたかが知れていた。
知れていたからこそ、迷う事もなかった。
大切な戦力は幾重にも重ねた糸の中で眠っている。
その糸を解くことができるのは――。
イナキは握った手をゆっくりと開いていく。
「ヴェル、海斗、あと、頼んだ……」
言葉が途切れた。激痛が正常な思考を奪い、全身の力が抜けた。
激しく体を床に打ち付けたが、その些細な痛みは認知されなかった。
イナキは双眸を閉じる。
完全に断ち切られた糸から傀儡の様子を正確に把握するなど不可能に近い。あの巨大な繭が仲間を助けるための手段だとも知らず、傀儡子は悠々と魔界からの朗報を待っていることだろう。
浅い息を繰り返しながらイナキは微笑した。
痛みが麻痺していく。
全身に毒が回りただの生き人形になれば、糸が腐るのは時間の問題だった。魔城に仕える者を見た限り、そんな短時間で魔界がどうにかできるとは思えない。
これでダリアに害がおよぶ可能性が減る。ヴェルモンダールが魔界に駆けつければ、残された生き人形は上手く処理してくれるだろう。
さまざまな感覚が麻痺したイナキは、それでいいのだと考える。
ダリアが傷つく姿は見たくない。
だからこれが最良の手段だと。
ただ、たった一つだけ心残りがあった。
イナキは何も映らない瞳を再び開け、震える指を伸ばした。触れることなどできないはずの水晶は、まるで彼の手に吸い寄せられるようにその指先に当たる。
彼は力なく冷たい珠を撫でた。
――彼女に、伝えたい言葉があった。
ずっとずっと、伝えることを躊躇っていた言葉だった。
「……ダリ、ア……」
大切な言葉を口にすることもなく、珠を撫でるその手は力なく床へと落ちた。