第八話  女郎蜘蛛の生き人形 =2=


 魔界を彷徨って博識と謳われた者たちを訪ね歩いたが、結局死海の魔女以上の知識を有する悪魔は一人としていなかった。
 しかし異口同音に彼らは言った。
 完全に根付いたくぐり糸は抜けない、と。
 抜けばその個体は絶命する。悪魔なら助かるかもしれないが、魔力に対して抵抗力のない人間は確実に命を落とす。
 輪廻を促すために操られる前に殺したほうがいい、というのが大方の意見だった。
 むろん、生まれ変わらない事も往往おうおうに考えられる。それでも、傀儡子の好きにさせるくらいなら、自らの手で決着をつけるべきだと進言する者が多かった。
 ダリアにとって、彼を殺すよりも自分の命を絶ったほうがはるかにやすいことは、彼女を知る者なら容易に想像がついただろう。しかしそうなれば、仮初かりそめの平穏を手に入れたあの世界が再び乱世となることは必至だった。
 魔城の主が不在になるわけにはいかない。
 ダリアは憔悴しきって武蔵家の玄関に立つ。
 結論は出た。他の道はない。
 だが、そのたった一つの選択を、ダリアはどうしても選ぶことができなかった。
 放心してドアノブをぼんやり見つめていると、
「どうしたんですか?」
 背後から懐かしい声がかかり、ダリアはとっさに振り返る。そこには両手にいっぱいの荷物を抱えたなぎさが笑顔で立っていた。
 ダリアは何とか笑顔を作り、なぎさの体を凝視する。まずは肩を、次に首、頭部、さらに反対側の首から肩、腕――。
 眼球に魔力を集中させ、丹念にその体を確認してからようやく吐息をついた。
「なんですか?」
「いや、その……今日は可愛い服を着ているなと」
「いつものですよ」
 くすくすと彼女に笑われ、ダリアは苦笑しながら手を伸ばした。
「人がいなかったらどうしようかと思って考えていたんだ。そしたらなぎさがいて……どこのお嬢さんが遊びに来たのかと」
 土曜日の午後だということを思い出してそう嘘をつき、おかしそうに笑うなぎさから大量の食品が入ったトートバッグを受け取る。
 土曜日の武蔵家は基本的に人が少ない。なぎさはバイトで妹たちは遊び、翼は部活動に出ていてイナキは図書館に行っていることが多い。それを思い出したのか、彼女は納得して小さなカバンから鍵を出しドアを開けた。
「先生だけですか?」
 靴を脱いでなぎさが問いかけ、ダリアは意味がわからずに小首を傾げた。
「ヴェルモンダールさんも後からついていったって……別々に帰ってくるんですか?」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 ヴェルモンダールはイナキに糸を仕掛けた傀儡子の正体を掴むために人間界に残ったはずだ。傀儡子の被害はイナキと大久保――しかし、体内に入れられた糸が三種類となると、傀儡子を入れてもあと一人足りない。まだ被害者がいると考えるべきだ。ヴェルモンダールならその懸念を早々に抱き、自己判断でこの場を離れるとは考えられなかった。
「イナキちゃんがそう言ってましたけど」
 突然黙り込んだダリアに不安を感じたのか、なぎさが真剣な表情で見つめ返してきた。
「なんでもない。ヴェルは仕事が立て込んでいて遅くなる」
 うまい言い訳も思い浮かばず、ダリアはそう返して靴を脱ぎ、キッチンに行くようになぎさを促した。
 イナキの靴は揃えておいてあった。空気を探り、異質な物がないことを確認して柳眉を寄せる。傀儡子の操る糸はダリアでさえ見つけにくいが、完全に気配が消せるものではない。
 だが、それらしい気配が感知できないのだ。
 トートバッグをテーブルの上に置き、お茶に誘ってくれたなぎさを丁寧に断ってから階段に向かった。
 何かが起こっているのは確かだ。
 糸の気配が消え、ヴェルモンダールがいない。果たしてこれは、吉事なのか凶事なのか。
 不安と緊張にはやる心を何とか抑えて階段を駆け上がり、ダリアは迷いなくイナキの部屋の前に立ってノックをした。
 やや間をあけて、どうぞ、といつも通りの返答が来る。
「もう用事済んだの?」
 ドアを開けると、ベッドに腰掛けたまま熱心に本を読むイナキの姿があった。拍子抜けするくらい平素と変わらないその光景に、ダリアはその場にうずくまって情けない声を発した。
「……先生?」
 さすがに不審に思ったのかイナキは本を閉じてダリアを見つめる。
 顔をあげて微苦笑し、ダリアは立ち上がって部屋に入った。もっと悪い状況になっているかと思ったが、もしかしたらヴェルモンダールが何か手を打ってくれたのかもしれない。優秀な補佐は、いつも陰になり日向になりながら、ダリアをサポートしてくれていた。
 それを思い出して一つ頷く。
 魔界中を駆けずり回っても、解決の糸口さえ見つけられなかった一件がひとまず落ち着いたというなら、是が非でも詳細が聞きたいところだが、今はイナキが無事ならばそれでいい。しげしげと恋人を見ていると彼は眉をしかめた。
「さっきから何?」
「いや、久しぶりにお前の声を聞くから」
 もうまともに聞くことはできないだろうと半ば悲観的にあきらめていた。こんなことならさっさと帰ってくればよかったと、ダリアは内心そう愚痴をこぼした。
 いつも逐一報告する男が連絡の一つもよこさないせいでずいぶんと無駄足を踏んだ。
 くぐり糸の気配がないこと入念に調べ、ダリアはここ数日の絶望をすべてヴェルモンダールへの怒りに変えている。
「体調、よさそうだな?」
「うん」
「ヴェルモンダールの姿が見えないようだが」
「そうだね、しばらく見ないな」
 イナキはわずかに視線を彷徨わせた。
「魔界に行くって言ってた。会わなかったの?」
「会わなかった。どこで油を売ってるんだ……」
 自分の役目が終わったらさっさと持ち場を離れるような軽率な男ではないはずだが、現実にいないのだから仕方がない。大久保の中に入った糸も処分できたのか、傀儡子は一体誰だったか、淫魔の正体などなど聞きたいことはたくさんあったのに、何一つわからずしまいだ。
「困ったやつだな」
 溜め息とともにこぼすと、鋭い視線を感じてダリアはイナキを見た。まるで射るような眼光は瞬時に消え、見慣れない笑顔を浮かべる。
 ちりちりと不安が胸の奥を焼いた。
「なんだ? どうかしたのか?」
 問いにイナキはゆっくりとかぶりを振って立ち上がり、立ち尽くしているダリアの目の前に移動してまっすぐに彼女を見上げた。
「魔界ってどんなところ?」
 以前に一度だけ似たような質問をされ、ダリアは簡単に魔界について彼に語っている。それを繰り返す彼にいぶかしむと、
「魔城は?」
 と重ねて問われた。
「魔城は私が住んでいる場所だ。見目鮮やかで、意思を持つ」
「そこに行ってたの?」
「……ああ、まあな」
 魔界に帰った理由をイナキには伝えていなかったからダリアはそう返すしかなかった。
 くぐり糸の気配がないのならもう気に病む必要はない。詳細を伝えるべきかとも思ったが、命に関わるような事件があったと教えたところで彼を無闇に不安にさせるだけだ。
 情報は必要最小限でいい。
 まだ何かを聞きたがっている彼に胸騒ぎを覚えながらダリアは口をつぐんだ。
 イナキは、魔界の話をしたときに疲れた顔をして以来、一度としてその詳細を聞きたがらなかった。
 拒絶していた話題をあえて聞きたがる、その落差が妙に引っかかる。
 ダリアが考え込んでいると、イナキはさらに彼女に近づいた。
「オレも行ける?」
「え?」
「魔城ってオレも行ける?」
 あまりに唐突な質問にダリアが反応できずにいると、イナキはかすかに苦笑した。
「少しくらい見に行こうかと思ってずっと考えてたんだ。将来住むとことだから。――別に、案内したくないなら無理にとは言わないけど」
「いや!」
 疑問や不信感が吹き飛んだ。かたくなに6年後と言い続け、まるで魔界に興味を示さなかった恋人が城の下見に行きたいという。どんな心境の変化があったのかを考えるよりも、そう思ってくれたことが嬉しかった。
「いつ行く?」
「今から」
 イナキはそう言ってダリアの体に両手を伸ばした。数日間会わなかっただけなのに、また彼の身長が伸びている気がして、ダリアは心躍らせながら彼の背に手を回した。
 イナキの後頭部にグリグリ頬を押し付けながら抱きしめると、その顔は完全にダリアの胸に埋まる。いつもなら邪険にする過剰なスキンシップをイナキは小さく笑うに留めている。
 からめた腕に力をこめ、イナキが不意に顔をあげた。懐かしく愛おしい笑みがその顔に浮かんでいるのに、その瞳だけがどこか冷めた光を宿している。
 消えかけていた不安が胸の奥で広がった。その瞳を持つ彼を突き放したい衝動に駆られた瞬間、彼は再び彼女の胸に顔をうずめた。
「飛んで」
 柔らからな少年の声音が胸に直接響く。それは、普段の彼なら決して発するはずのない甘さを含んだ類のもの。
 違和感が大きくなる。
 しかし、ダリアの足は小さな言葉に従って床を蹴っていた。

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