第八話 女郎蜘蛛の生き人形 =1=
ふと目を開けて、イナキは席から立ち上がった。
クラスメイトの大半は部活見学のため出て行ったので、すでに教室内は閑散としていた。しかし、イナキは期限が差し迫ってきても気が乗らずに見学すらしていない。
「イナキ?」
手ぶらで教室を出ると海斗に呼び止められ、イナキはゆっくりと振り返った。
「なに?」
最近、妙によく声をかけてくる。まるで見張られてるみたいだな、とイナキは苦笑しながら思った。
ダリアが魔界へ帰ると言ってから何日過ぎたのか――言葉通り彼女の姿はなく、学校には親が危篤で国に帰っているという話になっていた。
そういえば、あの時からか。
イナキは思い至る。海斗の視線がわずらわしいと思うようになったのは。
「どうかした?」
しかしそれを態度には出すことなく、イナキはいつもどおり淡々と問いかける。海斗は困惑したように押し黙ってから、迷いながらも口を開いた。
「や……どこに行くのかと思って」
「トイレ。いっしょに行く?」
笑顔で問うと、海斗はバツが悪そうに顔をそらした。
「オレはいい。あとで部活の見学しようぜ。待ってるから」
「わかった」
カバンは教室だからどうしても一度は帰ってくる必要がある。やる気など起きないが部活も決めなければならない時期になっていた。
別にどこだっていい。
廊下を歩きながらイナキはそんなことを思う。一年生は部活動が必須になって、最低でも一年間は在籍しなければならない決まりがあり、部によっては上下関係が厳しいところもある。そんな理由から、部活選びは気楽なように見えても慎重になる生徒が多いのだが、そんな空気を感じてもイナキは興味が湧かなかった。
いま気になるのはダリアのことだ。
彼女の詳細な過去、母親の居場所、父親の有無、趣味趣向や行動パターン――それらの正確な情報が欲しい。そこから割り出せる弱点も把握できるといい。
服従させるのにもっとも効果的な方法は何か。
それを押さえれば、どれだけ彼女が意のままに操れるか。
くぐり糸を入れられればこんな手間をかけずにすんだのだが、さすがに元が淫魔であっても魔王と呼ばれるだけはある。失敗した時のために身近な者に糸を仕込んでおいたのは正解だった。
しかし、糸を入れ損ねたのが残念でならない。うまく神経に入れることができれば、いかに魔王といえども機能する糸が多少は残ってくれただろうに。
そこまで考えて頭を激しく振った。
「なんだ……?」
思いもしない考えを振り払おうとして失敗する。続けざまに思考だけが冷静に言葉を綴った。
くぐり糸は万能だ、と。
体中に根を張って自由を奪い、生き人形を作り出す。ただ難点は耐久性がないこと。糸が腐れば、どんなに有能な人形でも半刻ともたずに息絶える。
大量に毒を流し込まなければ多少は長く使えるが、しかし早急に改善が必要だ。
魔王の伴侶を手に入れたならなおさら、人形を一秒でも長く生かす方法を探し出さねばならない。
「な……に……?」
イナキはよろめいて右手で顔を覆う。肩が熱い。目の前が白濁としてすぐにクリアになる。体調の変化とともに繰り返される奇妙な現象に、彼はひどくうろたえた。
ダリアがいない今、ヴェルモンダールに相談するのが妥当だろう。
いや、ヤツに情報を与えるな。糸の進行状況が把握されれば、魔界のために人形を殺すかもしれない。
魔王に伴侶が現れたことなど過去にない。この最大の弱点を掌中にすれば、あの界はオレのものになる。
「……うるさい……ッ」
頭の中に声が響く。振り払おうとしたが、あざける声はなおも続けた。
逆らうなよ、と。好意で生かしてやってるんだから、死にたくなかったら愚鈍な人間らしく、怯えて泣き叫べばいい。
興にのらなければ黙らせる。いい声で鳴くなら、少しはその悲鳴を長引かせてやろう、と。
脳髄に響く声は嘲笑に変わった。
足がもつれる。
壁伝いに廊下を移動して角を折れると、そこにはずいぶん前に教室から出て行ったはずの小雪の姿があった。
視線を移動させ、その後ろに大久保が立っているのを確認する。
「どうしたの?」
平静を装い壁から離れながら、雰囲気がいつもと違うように思えて交互に二人を見た。
「……この状態でも支配下から逃れようとするのね」
「たいした精神力だ」
初めに小雪が、次に大久保が口を開いたが、とっさに反応できずにイナキは二人を凝視した。
「でも、糸は根付いた。すぐにイナキも糸が作れるようになるから、そうしたらヴェルモンダールに仕掛けてね」
「やめておけ。糸は長くもたない。魔将軍を操るより弱みを握ったほうが得策だ」
「魔族なんだから人間みたいに糸が腐ったと同時に死ぬようなことはないはずよ。もし死んだら次を捜せばいい」
「……魔城に侵入するために使う気か?」
「あら、それもいいわね」
見た事もない顔で、聞いた事もない口調のまま楽しげに二人は会話を交わす。
イナキはまったく内容についていけず、そんな二人をまじまじと見た。
個人的な付き合いはないが、平素と違うことだけはわかる。だが、それに関してそう判断はできるものの、疑問に思うことはなかった。
違って当然だと漠然と考える。
糸は微量の毒で肉体を麻痺させながら己の意思で増殖する。そして女郎蜘蛛が糸を繋げれば、手足となる傀儡が出来上がるのだ。
ふっとイナキは肩を見た。違和感に目を凝らすと、細い糸がそこから伸びていることがわかる。
その理由を、ようやくイナキは理解した。
体調の変化もそれが原因だったのだろう。
繰り出される会話に耳を傾けながら、無駄と知りながらもイナキは緩慢な動作で肩に手を伸ばした。
糸を掃おうとしたその手が、別の手に掴まれる。
「駄目だよ、武蔵君」
視線をあげると痩せた男が血色の悪い顔を歪めるようにして笑っていた。
クラス担任の相田である。いつのまに背後に来たんだと動揺すると、掴んだ手に異様なほど力を込めてきた。
「せっかく伸びた糸を何度も切るもんじゃない。……人間の分際で、ずいぶんと抵抗するじゃないか」
弱々しい声が冷ややかなものに変わる。異様な気配に目を見張り、イナキは息苦しさに小さくあえいで男から離れた。
「傀儡子」
瞬時にその単語が出た。
「ほう。さすがに伴侶に選ばれただけはある。オレに反抗するその気力だけは評価してやろう」
「元に戻せ」
よろめきそうになるのをこらえて言うと、相田は意地の悪い笑顔のまま口を開いた。
「もう遅い。ここまで達してるからな」
自分の頭部を軽く指で叩いて、その指先をイナキにむけた。
「死ぬ覚悟があるなら抜いてやってもいいが」
背筋が冷えるような笑みだった。彼はそのまま瞳を細め、あげた手を目の前に移動させて親指と人差し指をゆっくりとすり合わせた。
「状況を把握しても絶望すらしないのは面白味に欠ける。だが殺すには惜しい。――そろそろ、泳がせるのはやめようか」
目の前が白く染まる。
再びよろめいたイナキの体を小雪が脇から支え、自由になっている半身を壁に預けて崩れそうになる体を持ちこたえさせる。
思考が途切れる。
何かを考えるよりも早く、イナキは小雪を押しのけて壁から離れた。
左右に続く廊下に鋭く視線をやる。
「――邪魔な奴らだな」
いつもなら聞こえないはずの二つの足音が鼓膜を揺らした。冷徹な言葉が消えて数秒後、右手からヴェルモンダールが、左手から海斗が姿を現した。
蒼白となった二つの顔に、イナキは口元だけで笑ってみせる。
「バイバイ」
伸ばした両手をそっと握る。音も無く床から糸が伸びた。次の瞬間、思わずといった様子で立ち止まる二人の足元から、目を見張るほどの糸が噴き出した。
「イナキ殿!」
「イナキ――!」
交錯する声を耳にしながら、イナキは握った手に力を込める。まるで獲物を捕らえるように、二つの影は瞬時にその糸に飲み込まれて巨大な二つの繭が完成した。
白濁とした意識を抱えながらイナキは微笑する。糸は獲物を逃がすまいとさらに幾重にも繭を包んでいく。
「すっごーい!」
乾いた拍手が響いた。飛び跳ねるように小雪がイナキに近づき、興奮して弾む声をあげる。
「あんな事できるんだ!? やり方教えて!」
「いいよ」
くすりと笑って応じ、イナキはその視線を相田に向けた。挑発的に口元を引き上げ、
「どう?」
と、主人の返答を待つ。男は満足げに瞳を細めて二つの繭を交互に見た。
一つは誘いを断ったおろかな淫魔。
一つは魔王の片腕として魔界を統率する魔将軍。
いたぶり殺すのも、思いのまま利用するにしても悪くない相手だった。
「優秀な人形だ」
傀儡子の言葉を受け、人形は軽く頭をさげた。